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「サピエンス全史 下」 第15章 科学と帝国の融合を読んで考える

いま読み中の「サピエンス全史 下」に、非常に興味ぶかいことが書かれている。いまや地球上のほとんどの人びとが、政治や医学、経済、金融、言語、音楽、服装などのあらゆる思考や嗜好の多くをヨーロッパに倣っている。

なぜヨーロッパなのか。それは帝国主義の時代に、ヨーロッパが世界経済を掌握したからに他ならない。ではなぜヨーロッパはそれを成しえたのか。なぜ地中海東のオスマン帝国、ペルシアのサファヴィー朝、インドのムガル帝国、中国の明や清ではなく、なぜヨーロッパだったのか。

これがおもしろい。ヨーロッパの帝国主義は、他の帝国とは異なっていたからだというのだ。他の帝国は単に、富と権力をもとめて新天地を征服していた。ところがヨーロッパは新たな領土の獲得だけでなく、新たな知識を獲得するために征服していたという。

そのため、ヨーロッパの遠征隊には海軍のほかに、かならず医師や学者が同行していたのだ。新たな土地の天文、地理、気象、植物、動物、そして先住民の研究をするためだ。遠征は他国を征服するだけでなく、新たな発見を探しにいく旅でもあったのだ。

また18世紀のころは、遠征のために航海に出ると、多くの乗組員が壊血病にかかり、半数以上が航海中に亡くなったという。そのため遠征は命がけで、行ける距離も限界があった。

そんな状況のなかでも、イギリス遠征隊は新たな土地の研究のために、多くの学者や医者を同行させていた。転機は1747年。イギリスの遠征隊に同行していたひとりの医師によって、壊血病の治療法と予防法が発見されたのだ。これはイギリスが世界の海を支配し、地球のうら側まで航海できるようになったことを意味する。

そしてイギリスは地球の南の島々、オーストラリア、タスマニア、ニュージーランドなどを次つぎと植民地化していった。そしてこれらの国々から、あらゆる学問のデータをとって自国に持ちかえり、近代文明の発展をうながしたのだ。これがのちに産業革命へと結実し、この日本よりもさらに小さな島国イギリスが世界の中心となるのだった。そう、日本よりも小さな国が世界の中心になったのだよ。

では、なぜイギリスが飛躍したとき、フランスやドイツやアメリカなどはすぐにそれに続いたのに対し、中国やエジプトやオスマン帝国はそれに続くことができなかったのか。それはフランスなどはイギリスを見習い、いち早く真似して自国に取り入れたからだ。一方、中国などはイギリスを真似しようなどとは考えなかったようだ。

そこで日本はどうだったか。そう、日本は明治維新でヨーロッパの近代文明をそっくり取り入れた。それはもう大規模な転換で、社会や政治のほぼすべてと言っていいくらいのものを、ヨーロッパを手本に作り直したのだ。

そのときに日本は、岩倉具視を中心とした政府首脳陣で構成された使節団を、欧米12ヶ国に視察として2年弱にわたって派遣している。とりわけこの視察が日本近代化、明治国家の建設に大きな影響をおよぼしたとされる。主要メンバーは岩倉具視のほかに大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らだ。

イギリスにとっての遠征と植民地化は、知識獲得のための征服なのか、征服のための知識獲得なのかはわからない。しかし他国が征服のみを目的としていたのに対して、イギリスは征服のほかに知識獲得も目的としていたことが、後年になって世界をも変えてしまったのだ。そして世界情勢が大きく転換するなかを、日本もなんとか喰らいついていったという感じであろうか。

幕末明治維新では、どうしても西郷隆盛のほうが有名で人気がある。それはおそらく幕府という旧態依然のものをぶっこわすというほうがわかりやすいからだろう。いまでも「自民党をぶっこわす」とか「NHKをぶっこわす」とか言って人気を博す政治家もいるくらいだし。

しかし本当に難しいのは建設のほうだ。ボク個人的には西郷隆盛より、大久保利通のほうを評価したい。大久保は初代内務卿、事実上の首相として、新しい日本の建設に人力を尽くしたのだ。もし日本がイギリスを真似することなく、ましてや江戸時代のままに鎖国などしていたら世界から取り残され、今の日本はなかったかもしれないのだ。

そう考えると幕末明治維新、とりわけ大久保の決断の一つひとつが、その後の日本の未来を決定づける最重要転換期だったことがうかがえる。

そういや司馬リョウ先生の「坂の上の雲」の冒頭にこんな一節がある。

「まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている」

この一節は明治維新後の近代国家をめざす日本を指しているが、じつはこれは18世紀のイギリスにも当てはまるんだな。いや、なんかまた幕末明治維新の時代を研究したくなったわ。

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