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奈良・喜光寺―「試みの大仏殿」と阿弥陀三尊。夏の「極楽」、冬の「来迎」(回想2017/2011)|訪仏帳_#1

今月からnoteを始めて、しばらくこのnote「訪仏線」に関する前置きのような記事が続いたが、ようやく6記事目にして本来のメインコンテンツともいえる仏像拝観記を書いてみたい。

タイトルの付け方や写真の扱い、構成など、いまだ試行錯誤しながらで落ち着かないが、ひとまずこのタイプの記事には「訪仏帳」(ほうぶつちょう)と名付け、通し番号を付してみることにした。
「帳」は「帳面」、すなわち「ノート(note)」と、仏像拝観・寺社参拝には付きものの「御朱印帳」のイメージを重ねた。
これからノートや御朱印帳のように、白いページを訪仏の記録や記憶で埋めていければ…そんな願いを込めて。


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古墳を眺めながら歩く


「訪仏帳」1ページ目は、やはり何度も訪れ、自分の趣味や好みがわかりやすいお寺・仏像を、さらには「仏像といえば…」の「奈良」から取り上げたい。
奈良は多くの仏像好きにとってもそうであるように、自分にとっても仏像拝観の原点で、初めてその目的で旅をしたのもまた奈良だった。

奈良県奈良市、西ノ京エリアにある「喜光寺」(きこうじ)。

近鉄・尼ヶ辻駅から歩いて行けるが、大和西大寺駅から、そのすぐそばの西大寺と併せて巡ったり、また薬師寺や唐招提寺から近鉄と並走する道を散策がてら歩いて向かうと、周囲はのどかな田園風景、遠くに奈良盆地を囲む山並み、左手前方には巨大古墳、垂仁天皇陵を見ることができ、ほんの20分ほどの間でものすごく「奈良感」が味わえる。
今回の記事は回想だが、2011年、2017年とも唐招提寺拝観後にこの道を歩いた。

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夏、境内を彩る蓮の花の「極楽浄土感」


このnoteでは現在の投稿時期と過去の訪仏時の季節感をなるべくシンクロさせたいので、まずはちょうど今と同じ7月下旬に訪ねた3年前の話から。

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この日は午後から東大寺の俊乗堂と大湯屋の特別公開、その後、奈良博で「源信」展を観る予定だったため、特に意図せず午前中に西ノ京を巡ることになったのだが、そのおかげで喜光寺の夏の風物詩である蓮を、まだ花が開いている時間に見ることができた。

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お寺に花は付きものとはいえ、特別に花好きというほどでもなく、名前や咲く季節も詳しくない自分でも蓮の花だけは大好きで、見るとワクワクしてしまう。
もちろん仏教において特別な花だからということもあるが、花が大きく鮮やかで単純に見た目が好きなのもあるし、また冬は水面下に沈んでいるのに、夏になると大きく青々とした葉っぱで水面を覆いつくし、その中から真っすぐにょきっと茎が伸びて一輪だけ大きな花が咲くことがなんとも不思議に思えるのだ。

もう少し早い時期の早い時間に行けば、もっと多くの蓮の花が咲いていたかもしれない。
次回は是非そうしたい。

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試みの大仏殿と阿弥陀三尊


境内の蓮と無数の石仏を観て、いよいよ本堂へ。
喜光寺を創建し、東大寺の大仏造立にも尽力した行基菩薩が、東大寺に先立ちこの本堂を建てたとの伝承があり、「試みの大仏殿」と呼ばれる。
当初の本堂は焼失し、現存のものは室町時代再建だが、確かに特徴的な大きな二層の屋根、古様で重厚なところは東大寺大仏殿を彷彿とさせ、このサイズでこの雰囲気の建築は他では見られない珍しさがある。

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ただし東大寺の大仏は廬舎那仏だが、こちらの本尊は阿弥陀如来
脇侍に観音菩薩と勢至菩薩を従える阿弥陀三尊だ。

ここで冒頭に触れた自分の好みの話に戻るが、実に多様な仏教の、あるいは仏像の尊格の中で最も好きなのが阿弥陀如来で、阿弥陀如来を中心とする二十五菩薩像、来迎図、當麻曼陀羅、練供養など、どちらかというと浄土信仰的な仏教美術や行事、世界観に特にワクワク(そしてニヤニヤ)してしまう性分である。
もちろん密教系など仏像全般好きなのは大前提として。

また、仏像を博物館や展覧会で一つの作品としていろんなアングルからじっくり観るのも好きだが、お寺でお堂の外観・内観、荘厳と一体となった環境・空間込みでその世界観や空気感を味わうのがまた大好きだ。
その意味で、喜光寺のこの本堂とこの阿弥陀三尊の組み合わせは絶妙で、まさに自分のツボなのだ。

中尊の阿弥陀如来坐像(重要文化財)は、平等院鳳凰堂の阿弥陀像に代表される平安時代後期の定朝様(じょうちょうよう)らしい円満で穏やかな姿の丈六(じょうろく)仏。
やはり阿弥陀如来像の一つの典型でもあるこのタイプは、作例は多いが自分は大好きだし、とにかく安心感を与えてくれる。
(なお、阿弥陀像本体は昨年から修理に出され、つい最近本堂に戻ったと聞くが、台座・光背などすべての修理が終わるのは令和7年春の予定らしい)

一方、脇侍(わきじ)の観音菩薩坐像勢至菩薩坐像は南北朝時代の作とされ、作風が違う。
サイズも阿弥陀三尊の脇侍としてはかなり大きい方だ。
でもこのちょっとミスマッチなところが逆に個性になっていて記憶に残る。

「静」の阿弥陀像に対して、少しクセ強めで人間っぽさもある両脇侍の表情や体つきは「動」的で、なんだか楽しげに見え、不思議な親近感がある。
見方によってはちょっとアジアっぽいというか、エキゾチックな雰囲気も自分は感じる。


冬、差し込む夕日が醸し出す「来迎感」


ここからは初めて堂内で拝観し、季節や時間帯も相まって最高の光の空間を味わった2011年冬1月の体験を記す。

この時は自身2度目の拝観で、この数年前の初拝観の頃は、本堂には入れず外から本尊を拝んだ記憶がある。
それが、この2011年には前回まだなかった立派な南大門ができていたり、「試みの大仏殿」に実際入ることができるようになっていたりと状況が大きく変わっていた。

この日も午前中は信貴山に登拝し、その後、唐招提寺の塔頭で奥の院ともされる西方院で快慶作の阿弥陀像を予約で拝観してからだったので、意図せず到着は16時近くになったが、これがよかった。

本堂は外観は二層だが中は吹き抜けになっていて天井が高く、上方には採光窓があり、拝観時間内でもかなり日が傾く冬場は、ちょうどそこから柔らかいオレンジ色の夕日が差し込んでくる。
阿弥陀の来迎は夕日のイメージと重ねられるので(兵庫県・浄土寺の、快慶作の巨大阿弥陀三尊と浄土堂の夕日を取り入れた仕掛けはその究極!)、自分はいい夕日が見れると、「来迎感!」などといってつい嬉しくなってしまうのだが、この時の喜光寺本堂内ではこの来迎の主役である阿弥陀三尊を前にしてそれを味わうことができたのだ。

一般的には冬の夕方にもなれば暗く寒く寂しく感じるお寺のお堂の中だが、むしろだんだんふわっと明るさが増していき、三尊も堂内の壁も柱も優しい光につつまれる…
そんなひと時を過ごすことができ感無量の思いであった。

それ以来、数多くの古寺、国宝クラスの仏像が集積する奈良の中でも、喜光寺とその阿弥陀三尊は自分にとって特別な存在になった。
時期や天候もあるので、次はいつまたこのタイミングに出会えるかわからないが、もう一度味わってみたいものである。

2017年の夏、境内が蓮のシーズンで賑わう午前から昼の拝観もよかったが、2011年の真冬の西ノ京・垂仁天皇陵、離れがたく閉門時間までいた「試みの大仏殿」のイメージもまた、一つの強烈な原体験として消えることはないだろう。

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[当記事の訪仏日 2017.7.28/2011.1.7]
掲載情報は基本的に参拝・拝観・鑑賞当時のものです。
最新の拝観情報、交通情報等は各所公式サイト、問い合わせ等にて確認のうえおでかけください。

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