ポトフ 【掌編】
子どもを授かれないと知った日も、私は鍋がコトコトと煮えるのを見守った。だんだん味がしみて、色が変わっていく様子を見守った。コンロの前の、小さな木の椅子が、私の指定席。
「できたよー」と声をかけると、あなたは、奥の部屋からやってくる。
あなたはあなたの指定席に座って、私は小さな木の椅子をテーブルに動かして、一緒に食べ始める。出汁がしっかり染み込んで、おいしい。
煮込むことは裏切らないと思う。私たちも、お互いを裏切らない。
「でも」なのか「だから」なのか、わからないけど、この日、私たちは、同じ苗字になるのは、やめようと決めた。
それからも、私たちはずっと一緒。20年間、一緒に生きるのが当たり前だった。
彼の50歳の誕生日。リクエストはポトフだった。
私が買い物から帰ってくると、
「頭が痛いので病院に行ってきます」という走り書きのメモがあって、彼はいなかった。
私は野菜の皮を向き、刻んで、20年もののストウブ鍋に具材を入れる。
火力を上げたり下げたり調節しながら、鍋がコトコト煮えるのを見守る。私の指定席で、コンロの前で、彼の帰りを待った。
そろそろ彼に電話しようと思った瞬間、電話が鳴った。
訃報は突然やってきて、ポトフは静かに噴きこぼれた。
私の煮物を食べてくれる人が、この世からいなくなった。
20年分の悲しさに、前が見えなくなる。まだ1日1回は泣いている。
こんなに悲しいのに、おなかがなる。
あなたに聞こえるくらいに大きな音でなる。
だから、ご飯を食べる。私、ちゃんとご飯食べたからね。
まだね、スーパーに行くと、あなたが好きな食材を無意識に選んじゃうんだよ。あなたが嫌いで、私が好きなエリンギを、今は買えちゃうんだよ。エリンギを選ぶときは、パックの中で仲良くしてそうなのを選ぶようにしてる。一人分だけ作るのに、まだ、慣れないよ。
冷蔵庫に、あなたが好きだったアイスクリームがたくさん残ったままだよ。自分への誕生日プレゼントだって言って、大量に買ったアイスクリームが。
私の目標。来年の夏が来たら、このアイスクリームを泣かずに食べること。全部食べ切れたら、この部屋から、引っ越せる気がしてる。おばあちゃんになるまで、一人で住み続けるには、ちょっと家賃がね。
新しい部屋の、新しい台所で、
この同じ鍋で、おいしいご飯作って生きるよ。
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