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天敵彼女 (93)

 俺は、さっきからずっと下を向いている。

 しばらく涙が止まりそうにないからだ。もう奏や縁さんも近くにいるだろう。さすがに、あの二人に泣いているところを見られるのは恥ずかしい。

 一瞬、適当な理由を付けて、部屋に帰る事も考えたが、そんな必要はないようだ。

 その理由は簡単だ。

 父さん以外、全員泣いていたからだ。

 よく考えれば、ここに父さんが料理をする事の意味を知らない人間はいない。

 料理は、父さんにとって、家族の為に頑張り続けた象徴であり、毒母との結婚生活が破たんしたトラウマそのものと言ってもいい。

 毒母に最悪の形で裏切られ、精神崩壊した父さんは、退院後も料理する事を避けてきた。

 正確には、キッチンに立つたびにパニック発作に襲われるようになり、料理に関わる事が出来なくなったのだ。

 あれから随分時が経ったとはいえ、父さんの心の傷が完全に癒えたかどうかは分からない。

 現に、さっき父さんの手は震えていた。それでも、料理をする事で、父さんは俺に何かを伝えようとしている。

 どんな失敗からも立ち直れるんだと、俺に示そうとしている。

 父さんの中で、あの日止まった時計の針が動き始めた。もしかしたら、この家の中で、いつまでも過去に縛られているのは俺だけなのかもしれない。

 そんな事を考えていると、ようやく話が出来るようになった縁さんが、父さんに声をかけた。

「……よく……頑張りましたね」

 縁さんの言葉に、父さんが照れくさそうに答えた。

「一応、親ですから……」

 俺は、この時点で顔を上げた。気が付けば、目の前に奏がいた。

「食べよう……冷めちゃうよ」

「……うん」

 それから俺達は、父さんの作ってくれた朝食を食べた。多少不格好だったが、本当に美味しかった。

「ごちそうさまでした」

「あ……はい、お粗末様でした」

「おじさま、本当に美味しかったです。ありがとうございました」

「いやいや、今まですまなかったね」

「そんな事……無理のない範囲でいいですから、また何か作って下さいね」

「うん、頑張ってみるよ」

 父さんは、ずっと照れくさそうで、俺達の顔をまともに見られない様子だった。一人ずつ父さんに言葉をかけていったが、終始うつむき加減で、ボソボソ返事をするだけだった。

 そうこうする内に、俺の番が来た。こういう場合、男同士だと余計に照れ臭さが勝ってしまう。

 それは、父さんも同じようで、お互いに不自然極まりない感じになった。

「……美味しかったよ……ごちそうさまでした」

「お、おお……もう……だからな」

「えっ? 何?」

「まあ、あれだ……」

「うん」

「何だな……その……」

「う、うん……」

「こういう時、何だか緊張するな……」

「そうだね……俺も何か変な感じだよ」

「ふふ……まあ、その……父さんから言える事は一つだ」

 父さんは、俺の方を向き直ってから、はっきりと聞こえる声で言った。

「父さんは、もう大丈夫だからな! 峻、今まで心配かけてすまなかった……これからはお前にとって大切な時期だ。父さんの事は気にせず、自分の為に頑張れっ!」

 こうして、色々あった朝食が終わった。俺は、父さんになんて返事したのかよく覚えていない。

 ただ、俺の言いたいことは伝わったようだ。父さんは、満足気だった。

 それから、俺達は四人で朝食の片づけをした。みんなが父さんを手伝いたがったからだ。

「今日はどうするの?」

 俺がそう訊ねると、父さんが縁さんに目配せをした。

「今日は、父さんと八木崎さんは用事があるから、奏ちゃんと二人で留守番してなさい」

「で、でも……」

 俺は、何となく元実習生関係の何かではないかと思った。

 それなら、俺もその場にいた方がいいと思ったが、父さんはかつてない程はっきりした口調でそれを撥ねつけた。

「いいから家にいなさいっ! これは、大人がやる事だ! お前は、何も心配する事はないから、父さんに任せなさいっ! いいな?」

「う、うん……分かった」

 父さんが何かすごい……俺は、奏と顔を見合わせ、出かける支度の為、部屋に戻る父さんを見送った。

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