日葵
すぐ近くで、誰かが喚いている。 俺は、少しだけじらした後に、救急箱から虫刺されの薬を取り出した。 それから、それをすぐ渡すかどうか悩んでいると、さっきから喚いていた奴が、俺に懇願した。 「それ塗ればマシになるの? だったら、ちょうだいちょうだいっ!」 「ああっ、うっとうしい!」 そいつが誰なのかは言うまでもないだろう。 佐伯だ。 俺が奏と付き合い始めた事を知り、謎の舞を踊り、庭を走り回っていた佐伯だ。 その佐伯は、結構蚊に刺されていたらしく、謎の
「で、どうなったの?」 「それは、その……」 「で? で? で? そのって何? そのって事は、まーさーかー?」 車の中では借りてきた猫のように大人しかった佐伯だが、父さんがいなくなった途端にウザさを全開にした。 俺は、怒りを噛み殺し、何とか実力行使を踏み止まった。 「ま、まぁな……」 「まぁじゃ分からないよ。結局、けっきょくぅ、どうなったのーっ?」 「いや、その……」 俺は思った。こいつには、多分報告するべきなんだろう。何だかんだで世話になったし……。
車に乗る時、実はかなり緊張していた。 父さんは、普段は穏やかだが、キレると怖い。 さすがに、今回はまずいと思っていたが、運転席の父さんはそれ程怒っていないようだった。 「大丈夫か?」 思わず、身構える俺。 ちょうどその時、一緒に後部座席に乗り込んだ奏が俺の手を握ってくれた。自分でも情けないとは思うが、一人じゃないと感じられ心強かった。 俺は、自分でも驚く程素直に父さんに謝る事が出来た。 「う、うん……いきなり出てってごめん」 こちらを振り返る父さ
あれは、まだクラヴ・マガの道場に通っていた頃の話だ。 その日は、サルマンさんのレッスンが長引いて、帰りが遅くなっていた。 幸い、父さんの食事の準備は、出かける前に済ませていたので、急いで帰る必要はなかった。 それでも、以前ならまっすぐ家に帰ったのだろうが、道場通いのせいかなのか、俺は妙な自信をつけ始めていた。 今となれば、それは全くの過信だったのだが、むしろ何かトラブってみたいまである状態だった俺は、駅とは反対側に向かって歩いた。 正直、最初は滅茶苦茶楽
俺は、信じられなかった。 一体何があったのか? 自分一人では手に負えないという奏に連れられ、ここに来てからしばらく経つが、俺はひたすら黙食を強いられていた。 何度か奏に話しかけようとしたが、俺は目の前の異様な雰囲気に圧倒され、顔を上げられなかった。 今思えば、部屋まで俺を呼びに来た奏に、ろくに事情を聞かないままここに来たのは失敗だった。 余りにも情報が少なすぎて、頭の中が全く整理できない。 今朝、父さんと一緒に出かけてから、帰ってくるまでに何かあった
俺は、自分の部屋に戻り、カーテンを閉め切った。 今は、とにかく一人で考えたかったからだ。 俺には、まだこれからの事は良く分からない。 元実習生の件は、余程の事がない限り正当防衛が成立するだろうと、警察の人が言ってくれたが、人を傷付けた以上何らかのペナルティを覚悟しなければならないだろう。 あの時、俺は元実習生を二度と奏に近づけない為、刺し違える覚悟で対峙した。 結果は、無様なものだったが、何はともあれ奏は無事で、元実習生は警察に連行されていった。 本
父さん達が出かけた後、俺と奏は自分の部屋に帰る気にもなれず、リビングでテレビを見る事にした。 先日、本家に行った事で、奏の古民家熱が高まったのか、さっきから某動画投稿サイトの田舎暮らし関連の動画ばかりが再生されていた。 「ねぇねぇ、こういうのいいよね?」 「うん、そうだね」 その動画は、古民家の庭にレンガ造りのバーベキュー炉を作るDIYものだった。 確かに、レンガを摘んだりするのは楽しそうだが、肉を焼いたりするのは囲炉裏で十分じゃないかと思わなくもなかった。
俺は、さっきからずっと下を向いている。 しばらく涙が止まりそうにないからだ。もう奏や縁さんも近くにいるだろう。さすがに、あの二人に泣いているところを見られるのは恥ずかしい。 一瞬、適当な理由を付けて、部屋に帰る事も考えたが、そんな必要はないようだ。 その理由は簡単だ。 父さん以外、全員泣いていたからだ。 よく考えれば、ここに父さんが料理をする事の意味を知らない人間はいない。 料理は、父さんにとって、家族の為に頑張り続けた象徴であり、毒母との結婚生活が
その日も、遅い夕食だった。 学校から帰ってから、ずっと一人だった俺は、キッチンカウンター越しに父さんを見守っていた。 (出来たぞ。これ持っていけるか?) (うん、大丈夫) 俺は、父さんからトレーを受け取ると、慎重な足取りでテーブルに向かった。父さんは、まだキッチンにいる。 一番よく出来た皿にラップをかけ、冷蔵庫に入れておく為だ。 当時の俺には、ろくに家に帰って来ない毒母の為に、どうしてそこまでする必要があるのか、よく分からなかった。 一度、どうせ捨て
部屋で一人になってから、俺は考えた。 このまま流されるまま、奏と本当に付き合った後の話だ。 多分、最初はうまくいくと思う。俺は、それなりの幸せも感じるだろう。 今更、隠しても仕方がないので、この際はっきり言うが、俺だって奏の事は好きだ。 そもそも、俺がどんなにぶっ壊れていたとしても、好きでもない相手の為に、命は懸けない。 元実習生を道連れにしてでも、奏を守りたいと思ったのは、それだけ奏が好きだからだ。 そんな俺の事を奏も好きでいてくれて、この先ずっと
真っ暗だった視界に光が差し込んだ。 それが朝日なのか昼光なのか分からないが、どちらにしてももう夜ではない。今日からゴールデンウィーク後半だ。 俺は、薄目を開けた。 「……ん?」 思わず目を見開くと、視界の端に誰かの頭がある事に気付いた。 「えっ? えっ?」 俺は、若干パニクりながらも、状況確認を始めた。 まず、俺が寝ていたのはリビングのソファだ。どうやら座ったまま眠ってしまったらしい。 次に、誰かがタオルケットをかけてくれたのか、身体がポカポカし
長い一日がやっと終わった。 奏のいない学校は、俺にとって空っぽだった。 まだ、転校してきて一か月も経っていないのに、自分でも信じられない。 そもそも、俺がこの高校に通い始めて、ほとんどの期間奏はいなかった。 むしろ、奏がいない方が当たり前のはずなのに、隣の席が空席になっている事に、俺は心底打ちのめされていた。 多分、俺の周囲にはずっと暗いもやのようなものが漂っていたのだろう。あの佐伯ですら俺に声をかけようとはしなかった。 それでも、休憩時間に早坂が何度か
「行ってきます」 「うん……行ってらっしゃい」 奏が寂し気に微笑んでいた。 俺は、玄関扉の前で立ち止まった。 「何かあったら、すぐメールでも電話でもしてね。その前に警察に連絡だよ」 「分かってる」 「必ず連絡だよ。すぐ帰ってくるから」 「うん……」 奏は、短めに返事をした。俺を引き止めない為だろう。 もう行かなければならない。俺は、何となく離れがたいものを感じていた。 「……あと、用事なくてもメールしていいから」 「ありがとう」 俺は、しばら
放課後、父さんはすぐに迎えに来た。 俺と奏は、担任に指定された駐車場に向かい、車に乗り込んだ。 一体何があったのか父さんを問い詰めたい気持ちはあったが、徒歩数分の距離を自動 車で移動すると、本当にあっという間に着いてしまう。 気が付けば、父さんの車がうちの駐車場に停まっていた。 「一応、周りに注意してくれ」 「分かった。父さんは、どうするの?」 「これから八木崎さんを迎えにいく」 「そっか……じゃあ、また後で」 「おお、じゃあな」 一瞬、父さんの表
結局、奏に詳しい事情を聞けないまま授業が始まった。さっきから教師が何やら言っているようだが、正直それどころじゃない。 一応、教科書を開いてはいるが、筆記用具すら出していない状態だ。 このままではいつ教師に注意されても仕方がないが、そんな事どうでも良かった。 俺は、静かにキレていた。 まだ、詳細は分からないが、縁さんがわざわざ学校に連絡するという事は、元実習生関連で間違いないだろう。 折角、うまくいきかけていたのに、またふり出しだ。 奏が転校してからまだ一
何となく誰かに見られている感じがした。普段から、訳の分からない注目を浴びる事はあったが、今日はいつもと違っていた。 俺や奏をスルーして、特定のポジションにばかり視線が集中していたのだ。そこは、高校生の平均よりすごく低く、どちらかと言えばグレードを二段階下げた学校の……下級生の平均に近かった。 「都陽、見られてるね」 「しょ……そう?」 「うん、良く似合ってるからね」 「そう……かなぁ?」 「そうだよ。今日の主役だね」 「やめてよ……エヘヘ」 奏の言葉で、