天敵彼女 (95)

 俺は、自分の部屋に戻り、カーテンを閉め切った。

 今は、とにかく一人で考えたかったからだ。

 俺には、まだこれからの事は良く分からない。

 元実習生の件は、余程の事がない限り正当防衛が成立するだろうと、警察の人が言ってくれたが、人を傷付けた以上何らかのペナルティを覚悟しなければならないだろう。

 あの時、俺は元実習生を二度と奏に近づけない為、刺し違える覚悟で対峙した。

 結果は、無様なものだったが、何はともあれ奏は無事で、元実習生は警察に連行されていった。

 本当に、奏に何もなくて良かったが、俺の軽率な行動が最悪の事態を招く可能性があった。

 特に、徒に元実習生を挑発し、暴力に訴えさせたのは、やり過ぎだったと思う。

 どうしてあんな事をしてしまったのだろう? 元実習生が奏にとって危険な存在なのは間違いない事だが、わざわざ直接対決する事はなかった。

 あの時、佐伯が俺を止めてくれていなければ、俺は今ここにはいられなかった。十中八九、元実習生は死んでいただろう。

 今思えば、奏の為とはいえ、人の命を簡単に奪う決意をした俺は壊れているんだろう。

 俺はあの時、確実に人としておかしかった。目的の為に手段を選ばない冷たい人間だった。

 それは、何よりも嫌っていた毒母の特徴そのものだといってもいい。

 俺は、自分勝手な思い込みで、一人の人生を終わらせる所だった。元実習生にも家族がいて、大切に思っている人がいるにもかかわらずだ。

 本当に、そこまでする必要があったのか? もしかしたら、自分の中の憎しみを、直接関係のない他人にぶつけただけだったのかもしれない。

 そんな自分を、俺は正しかったと言えるだろうか?

 今頃、父さんと奏さんが、事後処理に動いてくれているだろう。俺は、あの二人にも大変な迷惑をかける所だった。

 奏があんなに怒ったのも無理はない。

 俺は、ほんの少しの正しさと引き換えに、全てを失う所だった。

 あの時、俺はどうするべきだったのだろう?

 どうすれば誰も傷つかず、みんなにとって良い選択が出来たのだろうか?

 俺は、まだ子供だが、大人になったからと言って、何もかもをちゃんと出来る自信はない。

 人はきっと、正しいのと同じくらい間違ってもいる。

 奏にとって、俺と一緒にいる事は、ある意味では正しく、どこか間違ってもいるのだろう。

 人生に正解はない。

 人の選択は、正解であると同時に不正解でもあると思う。

 その複雑性に、いつ押しつぶされるか分からない状態で、俺達はずっと生きていかなければならない。

 自分一人の事だけでも大変な状態で、他人の複雑性にも巻き込まれ、益々訳が分からなくなっていくのが人生なのかもしれない。

 そんなちっぽけな存在が、他人をどうやって幸せに出来るというのだろうか?

 そもそも、俺が与えられる幸せには、同じ位の不幸も含まれているのかもしれない。

 今だって、奏は俺と一緒にいる事で、幸せになると同時に不幸にもなっている気がする。

 多分、どんな相手と一緒にいたとしてもそれは変わらないのだろう。

 誰と付き合えば正解なのか、どうすれば人は幸せになれるのか、答えは永遠に出ない気がする。

 出来る事なら、俺は奏を幸せにしてあげたいと思うが、それは物事の一面を切り取った印象に過ぎないのかもしれない。

 人は、いつまでたっても答えの出ない問いを、単純化して決着をつけ、処理したつもりになる。

 その際、自分の周辺に都合の良い結論を導き出せた人間は、成功した気分になり、失敗した人間は不満を抱えて生きていく。

 世の中に、完全に自分の人生に満足している人がいるとは思えないが、どこかで納得する為にはある種の前向きさが必要なんだろう。

 俺は、人生の初期段階で、恋愛では決して幸せになれないという先入観を植え付けられてしまった。

 それは、俺の人生観を大いに狂わせ、どんなに幸せの条件が揃っても、満足できなくさせるだろう。

 この先、どんなに奏とうまくいったとしても、心の深い所では常に疑っている自分がいて、いつまでたっても幸せを実感できないに違いない。

 そんな心の隙間を埋める為の単純化に走れば、俺はきっと毒母やアノ人物と同じ間違いを犯すだろう。

 俺は、どうすれば猜疑心を捨て、前向きに生きていけるようになれるのだろう?

 そんな事を考えている内に、気が付けば俺は眠っていた。

(コンコンッ)

「えっ?」

 俺は、ハッとして目を開けた。部屋の中は、相変わらず暗かったが、それはカーテンを閉め切った事によるものではないように思えた。

「夕ご飯だよ。起こして悪いけど、ちょっと私一人じゃ手に負えないから来て!」

「う、うん……」

 俺は、眠い目をこすりながら、部屋の外に出た。既に、窓の外は暗く、廊下の照明がついていた。

「ごめん、俺寝過ごした?」

 俺は、エプロン姿の奏にそう訊ねると、思わずハッとした。さっきの奏の言葉が寝ぼけた頭の中を駆け巡っていく。

「もしかして、何かあった? 誰か来たの?」

 一気に眠気が覚め、緊張感に包まれる俺。奏は、何のことか分からない様子で答えた。

「どうしたの? 大丈夫だよ? それよりよく眠れた?」

「う、うん、眠れたよ」

「良かった。ごめんね、起こしたくはなかったんだけど、うちの親の事で、ちょっと付き合ってほしいんだ」

 奏は、遠い目をしていた。

 俺は、まだ状況が飲み込めないままだったが、とりあえず奏について行くことにした。

「分かった。ちょうどお腹空いてきたからありがたいよ。何か大変だったみたいでごめんね」

「いいよ……でも、驚かないでね。ちょっと私も……まだ、理解が追いつかない感じだから」

「分かった」

 それから、俺は奏と一緒に階段を下りた。そして、リビングダイニングのドアを開けた瞬間、奏の言葉の意味を理解した。

 確かに、これは一人じゃ手に負えない。俺は、ため息をつく奏と一緒に、食卓についた。 

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