住む場所を決めた話
【住む場所を自分で決めた経緯について綴っているだけの雑文】
どこでも住めるとしたらどこに住むか――。
1年前の春、初めて真剣に考えた。
新卒で就職した会社で、10年以上勤めていた。
全国転勤のある会社だった。転居を伴う異動はそれほど頻繁にあるわけでもなかったが、通勤圏内での異動は数年単位で回ってきたし、毎年、社内の誰かは遠距離異動を命じられていた。大変だねと囁きあったり、明日は我が身と身を固くしたり。定期異動の時期になると、社内が落ち着かない空気になる。
そこまでの大移動ではなくても、あの支社に異動になったら引っ越さないといけないな、と思う場所がいくつかあった。転居の可能性は常に頭の隅にあった。
新卒で実家を出て住む街を決めた時点でも、当然、転勤を考慮に入れていた。配属された支社のみならず、異動可能性のあるあらゆる支社に、可能な限りアクセスしやすい場所を選んだ。
それが功を奏したのか、結局10年以上、その街に住んでいた。転勤は何度もあり、そこそこの遠距離通勤をしていた時期もあったのだが、なんだかんだで引っ越しもせず通っていた。
そこまで快適な家というわけでもなかったのだが、頑ななまでに引っ越さなかったのは、いつどこに転勤を命じられるかわからなかったから、であった。引っ越し直後に転勤でまた引っ越し、となっては目も当てられない。
来年の自分は、どこに住んでいるだろうか。
毎年首をもたげていた不安から解放されたのは、転職が決まったときだった。
転職先には転勤が無かった。皆無というわけではないのだが、可能性はかなり低い。
私は考えた。
もう、転勤に怯えなくて良いのだ。
思い出の詰まった部屋だけれど、愛着のある街だけれど。
自分で、住む場所を決めよう。
住みたい場所に、住みたい家に住もう。
そう決めて、私は家と街を探すことにした。
今から1年前のことである。
住みたい街が決まっていたわけではなかった。けれど条件は明確だった。交通の便が良い場所、である。
私はとあるバンドを偏愛して追いかけ回している。遠征する機会が多いので、各種交通機関へのアクセスは譲れない条件だった。
また、条件というほどではなかったが、いわゆる住宅街に住みたい、とも思っていた。繁華街の真ん中で暮らしていくイメージはどうしてもわかない。スーパーマーケットや病院に、気軽に行けるような街が良い。華やかというよりは、穏やかな街で静かに暮らしたい。
ずいぶん漠然とした条件だと思われるかもしれない。それでは、選択肢など無限にあるだろうと。
ところがそうでもなかった。私が探していたのは、単身向けの分譲マンションだったのである。
そもそも、分譲マンションというのは圧倒的にファミリー向けが多い。そして、単身向けの分譲マンションは、どちらかといえば繁華街近くに立地していることが多かった。もちろん、予算が無限というわけでもない。
しばらく悩んだものの、答えは唐突に降ってきた。
流されるように見学に行った最初のマンションが、理想の条件をほとんど満たしていたのだった。
そこは、子供の頃のほんの一時期、住んだことのある街だった。
実家はささやかな転勤族だった。小学生の頃は約2年ごとに転校し、3つの学校に通っている。中学生活でいちばん嬉しかったのは、入学した学校で卒業できたことだった。
その、2番目の小学校があった街。厳密に言えば2年にも満たない期間しか暮らさなかった街だった。
当時の友人とは、もう残らず疎遠になっている。あらゆる記憶が曖昧な、空白の街。
これは縁だ、と思った。
住んで暮らせる場所だと判っている街。馴染みと呼ぶほどの思い出は残っていないけれど、今の私にとって便利な街。そして、今の私にとって魅力的な家。
薄い縁しかない街だけれど、この街に帰ってみよう。否、薄い縁しかないならば、むしろこれから深めれば良いではないか。
私はマンションを買った。
そして再び、この街で暮らしはじめた。
新しい生活は快適だった。住宅街に暮らしたいという望みはほぼ叶った。それでいて、通勤にも遠征にも困らない、便利な街だ。少し難を挙げるならば、家が快適すぎて出不精に拍車が掛かってしまったことくらいか。
せっかく帰ってきたのだから、街も開拓しなおさないといけない。かつて住んだ街といっても、昔とは様子が変わっているし、私の行動範囲も広がっている。目にする景色はどれも新鮮だった。
先日、最寄りの神社まで足を伸ばした。五円玉でご挨拶をする。――こんにちは、初めまして。この街に帰ってきて、また暮らしはじめました。改めて、よろしくお願いします。
新しい街での新しい生活だが、ふと、子供の頃の記憶が重なることもある。かつての通学路をなぞるように歩いて、不思議な気持ちになることもある。
どこにでも住めるようになった結果、選んだのは縁のある街だった。
私は今、快適で穏やかな生活を送っている。
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