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「~とは何か」

「~とは何か」については6回に分けて投稿済みですが、今回はまとめるとともに、目次を追記しました。


本質とは何か

ものごとの本質をつかみ取ろうとするとき「「~とは何か」という問いを発することになる。このとき、どうしても身構えてしまう。

どうしてそうなるかといえば、すでにその答えがあらかじめわかっていて、それは永遠不変の真実在そのものがあるに違いないと思い込むからかも知れない。

「嫉妬とは何か」、「執着とは何か」「センスとは何か」等々を議論するポッドキャストの番組を聴いていると、出演者がそれぞれ自分自身の体験から発言して、その中から、「あるあるだよね」と皆が納得するものを見つけ出していくという進行となっていた。

何を喋ってもよいが、一定の約束事があり、それは「他者の話しをよく聞く」「えらい人(有名な哲学者など)の言葉をつかわない」「人それぞれにしない」の三つです。

これは、プラトンの初期対話篇で示されたような様々な事例(「徳とは何か」、「勇気と何か」「正義とは何か」など)を出しながら、それらのなかで直観されている共通な意味を言葉でつかまえようとする、という意味での哲学対話のようなものになっている。

さらにフッサール現象学では、この手法を、つまり諸体験のなかで直観されている共通な意味を取り出す作業を「本質観取」と名づけている。

この「本質」という概念が、中々やっかいなことになっている。

この本質という言葉には、中期プラトン以来の「永遠不変なイデア」というニュアンスがつきまとっている。

そのため、この「本質観取」もまた、「諸体験に含まれる永遠不変なものを、そのまま取り出すこと」と理解されてきた。

これに対して、20世紀以降のほとんどの哲学が、永遠不変なイデア的なものの存在を疑い、また、そうした永遠不変なものをそのままに取り出すことを疑ってきた。

なぜなら、こうした見方は、「そもそも認識とは、特定の関心や言語や社会関係のなかで形づくられるものだ」ということを意識したとたん、疑わしいものになるからである。

具体的には、欧米の哲学者は下記のように、本質という概念に疑いをもっている。

  • 英米哲学のウィトゲンシュタインは、本質は存在せず、家族的類似性があるだけだと述べている。

  • 同じく英米哲学プラグマティズムのローティは、本質の概念を悪しき形而上学だと見なしている。

  • ポスト・モダン哲学のデリダやフーコーは、本質や真理をを求めようとする志向じたいを解体しようとしている。

  • 「社会構築主義」は、永遠な本質などはなく。本質とされてきたものは社会におけるそのつどの社会的文脈や権力関係において構築されたものにすぎない、という考え方をとる。

何故このように、本質が避けられることになったのだろうか?

  • 言語や社会的文脈以前にあらかじめ永遠不変な本質が存在することを疑う。

  • ポスト・モダン哲学に大きな影響を与えたニーチェは、認識を根源的に欲望のなす賛否として捉えるーーー 一切の対象を欲望と相関するものとして捉えるーーー見方も、やはり永遠不変な本質の存在を破壊した。

こうして20世紀には、認識とは「言語(文化)」「社会的文脈(権力関係)」「欲望」などによって形作られるものである、という見方が広まった。

さらに、本質の否定にはより現実的な理由があった。唯一不変の本質という観念は、人々の求める自由な生き方を抑圧することになるという感じ方が広まったことにある。

20世紀は、世界大戦争と冷戦の時代であり、民主主義の正義と共産主義の正義と、それぞれが自己の正義の正統性を声高々に主張しあった結果、相手を攻撃し、殺し合うという時代であった。

こんな時代にあっては、「唯一の真なる正義」や「唯一の本質」という観念をイデオロギーに捉われているもとして批判し相対化することがポスト・モダン哲学者たちにとって、大きな政治的課題だった。

その他、フェミニズム、人種なども問題も本質主義への批判となった。本質という言葉は、党派的思考や差別や不自由を生み出す悪しきものとされてきた。

こうしたことが重なって、フッサール現象学は、ポスト・モダン哲学者たちそしてポスト・モダン後の、新実在論主義者たちから否定、ないし無視されてしまっている。

さらに、西研氏、竹田青嗣氏、苫野一徳氏たちのフッサール現象学解釈は、他の現象学者からは異端とされている。どうにも不思議な現象だなぁ~
と、モヤモヤしたものがあったので、それを解消する作業を、今後細々と続けていく予定です。

本質は、欧米の哲学者から忌み嫌われ、避けられてきたことを描きました。だが、フッサールのいう本質は、ソクラテス以来の「~とは何か」の問いに直接に由来している。

「本質」に関する前置きはこれで終わりにし、現象学とは何かについて、竹田青嗣著『哲学とは何か』に基づいて学ぶことにします。

哲学の謎

ギリシャ哲学においてこの哲学の謎を象徴するのは、ソフイストとして知られたゴルギアス(前5世紀~前4世紀)による、次の三つの論証(ゴルギアス・テーゼ)がある。

  1. およそ何ものも存在しえない。あるいは存在は証明されない。(存在の謎)

  2. 万一存在があるとしても、決して認識されない。(認識の謎)

  3. 万一存在が認識されたとしても、決して言語によって示しえない。(言語の謎)

これら「存在の謎」「認識の謎」「言語の謎」は、現代哲学にいたるまでの一切の哲学的相対主義=懐疑論の源泉である、と竹田氏はいう。

これら三つの謎の要の部分をなすのが、普遍認識が可能か不可能かという問題なのが、ゴルギアス・テーゼに象徴されるこの認識上の難問は、じつをいえば近代の最後にきて、ニーチェとフッサールという二人の哲学者によってほぼ解明されることになる。

ところが、このことはいくつかの事情のためにほとんど理解されないままなのである。そしてそのために哲学の「三つの謎」は未解決のまま現代哲学に持ち越されており、現代分析哲学の中心問題として(とくに「言語の謎」の形をとる)議論が延々と続いているのだ。

竹田 青嗣. 哲学とは何か NHKブックス (p.20). NHK出版.
Kindle 版.

上記のように、竹田氏は、彼のあらゆる著作で主張しているが、ニーチェはともかくとして、フッサールについては、一時期を除いて、現代哲学に至るまで、取り上げられる兆しはない。

大多数の哲学者は「哲学の謎」だと述べている一方、竹田派(西氏、苫野氏、竹田氏の子弟たち)は「謎はすでに解明している」と主張しているこの奇妙さの居心地の悪さには耐えがたいものがある。

苫野氏は「竹田先生の説は、ニーチェ、フッサールを引継ぐものであり、世界にも理解を広めるべく、先生の著作の英語への翻訳を進めているところだ」と述べている。実際、最近英語版が数冊刊行された。

苫野氏のアジテーションに、100%納得しているわけではなかったが、約2年間ほど、竹田氏の著作や動画などで勉強しているうちに、信頼性は高いものと思うようになってきた。

認識の謎

哲学の中心的な謎は「認識の謎」であり、そこから他の二つは派生的に現われた。そしてまた、さらに派生的に現われる謎ーーー「時間の謎」、「同一性の謎」、「意味の謎」、「美の謎」「価値の謎」ーーーは、とくに現代哲学において膨大な議論の山を築いているのが、重要なのは、これらの哲学的謎は、「認識の謎」を解明することによって、解かれうるという。

哲学者たちが「認識の謎」を解明しようとするのは、もちろん普遍認識の可能性を求めるためである。だが、そもそも、なぜ哲学は普遍認識を必要とするのか。

現代哲学ーーー言語哲学(分析哲学)、ポストモダン思想ーーーではしかし、普遍認識を探求としての哲学を否定する考えが主流である。

「普遍性」や「原理」の考えは形而上学や独断論的世界観に結びつけられ、全体主義やスターリニズムの後ろ盾になったと見なされた。そのために、世界について多様な考えがあっていいのではないか、むしろさまざまな考えがあることが重要ではないか、という相対主義の主張が強い説得力をもつことになった。

確かに、今でも、「多種多様な考えがあるのを認めるべきだよね」や「人それぞれだよね」という言葉をよく聞く。

だが、哲学のそもそもな成り立ちは、多様な考えをもつ人間が集まって、ある問題について共通の了解を創り出そうとする、「開かれた言語ゲーム」として現われた。ここに、哲学が「普遍認識」を求めるゲームだということの意味があるという。

ただ、哲学には弱点がある。宗教のような物語や教説ではなく概念を論理的に使うという哲学の方法は諸刃の剣であって、これが普遍認識に対する相対主義=懐疑論の中心的な武器になるというのである。

しかも、相対主義=懐疑論は、普遍的な考えなどは存在しえず多様な価値観が重要だと主張するが、じつはその主張を追いつめると、「力がすべてを決定する」、という論理に行きつく。

国会の議会であれやこれやと議論しても何も決まらないので、閣議内で何でもかんでも強引に決めてしまう、今の政府の運営の仕方みたいなことになるということでしょう。このような場では、数の論理で、マジョリティが決定し、マイノリティの意見は無視される。つまり、多様な価値観はまったく禁じられる、という矛盾に陥る。

なぜ「言語の数学化」はうまくいかなかったのか

現代言語哲学は、フレーゲとラッセルに現代論理学の試みとこれをうけた論理実証主義からはじまるが、彼らの主たる動機は、論理学の厳密化することで形而上学的哲学のあいまいさを克服することにあった。これを「言語の数学化」という概念で示すことができる。

様々な自然対象物は、重かったり、硬かったり、熱かったりという性質をもっているが、それらは、重量計、硬度計、温度計といった計測器で数量化して誰にも分かるように客観化できるものである。

自然科学においては、この方法によって存在ー認識ー表現(言語)の一致がなしとげられ、ゴルギアス・テーゼの難問は克服された。

現代論理学も、ほぼこれと同じ発想に立っている。すなわちそれは、「言語を数学化」することで、意味(認識)と言語の一致を保証しようと試みたのである。

ところが、「言語の数学化」においては、哲学にとって重要なのは「自然領域」ではなく、むしろ人間や社会にかかわる問題領域である。

人間の本質、社会の本質、ある人間の性格・気質・精神・思想信条、人生の目的などについて数学化するのはむずかしい。いわんや、人間どうしの関係、その意味、またその変容などを厳密に数学化することは不可能だ。したがって、この方法によるゴルギアス・テーゼの難問の克服は失敗した。

ところが、オーギュスト・コントが、人文系における学問も自然科学の客観認識の方法をとるべしという「実証主義」宣言があって以来、社会学、心理学などの人文系の学問は、この方法で、突き進んでいる。どのように折り合いをつけているのだろうか、と不思議な気持ちでいる。

認識論の解明

フッサールの方法によって導かれる、認識論の解明の根本課題は次の二つです。

  1. ある領域で普遍認識が成立するその条件と構造を解明すること。

  2. なぜこれまで普遍認識が自然科学、数学の領域で限定されていたかを解明し、ついで、人文科学の領域でこのことが可能となるその可能性の条件を解明すること。

この二つの課題を遂行するための方法が「現象学的還元」である。すなわち、一切の認識を「対象確信」として説明する方法的独我論としての「現象学的還元」である。

まずフッサールは「主観ー客観」の構図自体を認めないので、「主観と客観の一致(的中)」という考えを停止(エポケー)する。ーーーというのは、人間の内部は外に出ることができないので、対象物を客観的に見ることは不可能だからです。ーーーその代わりに、「内示と超越」の一致を示唆する。

つまり。われわれが知覚した「客観的対象」と見なしているもの(=超越)は、じつは「内在」のうちでの「確信の成立」である、ということになる。

①の自然的態度では、原因として客観的に存在するリンゴがあれば、その「結果」として私に「赤くて丸くてつやつやしたリンゴ」が見えているという構図になる。

②の現象学態度では、自然態度のものの見方をいったんエポケー(停止)し、ものの見方を変更(視線変更)して、ここでの「原因」と「結果」を逆に考えることである。(下図2-5参照)

つまり、いま私に「赤くて丸くてつやつやしたリンゴ」の像が見えており、その結果、私は目の前に「一つのリンゴ」が存在するという「確信」をもつ、と考えるということである。これを現象学的還元という。(下図2-6参照)

この現象学的還元という視線変更によって、外側にあるリンゴは内在し、そのことで、認識問題において、外的「客観」と内的「主観」の一致を確かめる必要がなくなる。その代わりに、現象学的主観の中で、内的な知覚像からどのように「客観」の確信(これが「超越」)が構成されるかを、確かめることが可能になる。

かくして、主観ー客観の一致は誰にも確かめられないが、「内在と超越(確信)」の関係の構造は、誰にも必ず内省によって確かめられるものとなる。

リンゴにようなものであれば、視線変更は必要ないが、哲学の中心主題は、人間や社会の問題である。大きなスケールの世界像の問題である。そこでは、この視線変更が不可欠である

たとえば人がキリスト教的世界像をもつ理由は、生まれたときから両親に神様がいると言われ、いつも教会に行って牧師の説教を聞くなどという経験にある。ここでは明らかに、「主観」(=経験)が原因であり、世界像はその結果である。

竹田氏は、次のように、主張している。

現象学的還元という方法の核心が、一切の認識を「確信成立」の構造と見ることによって認識問題を解明する、という点にあることを、ほとんどの現象学者が、そしてまた現象学の批判者がまったく理解していない。そのために認識問題は、現代哲学ではいまだ解決されないまま議論が続いているのである。

竹田 青嗣. 哲学とは何か NHKブックス (p.72). NHK出版.Kindle 版.

竹田氏は、構図を用いて説明してくれているので、理解しやすい。こうした構図もない、難解なフッサールの原文からのみでは、優れた頭脳の持ち主の哲学者たちでも読み取れないということなのだろうか。俄には、信じられないことです。

存在の謎

竹田氏によれば、哲学は東西を問わず、存在の問いに対して、伝統的に「形而上学」(物語=神話)を用いてきたという。

宗教の世界創成神話はそのプロトタイプであり、アリストテレスの「不動の動者」やヘーゲルの「絶対精神」もこの形而上学に属する。

メイヤスーやガブリエルの哲学は存在論を含むが、思弁によって世界を存在のありようを思索するという点で、これも存在についての思弁的な形而上学といえる。(現代分析哲学にもその流派がある。)

ニーチェの「本体論の解体」とフッサールの「認識論の解明」のみが、「存在の謎」を形而上学ではない方法で答えを導くという。

ニーチェは「本体論」、世界それ自体の存在という観念は解体した。単に「世界は存在しない」と主張したのではない。この主張はニーチェの「力相関性」の構図から必然的に現われたものであり、その構図が意味しているのは、第一に、「世界」とは、根源的に。つまり客観的な存在である前に、個々の生き物によって生きられている「生成の世界」(生世界)であるということである。(下図4-2参照)

それぞれの生き物は、それぞれが見えているように世界を理解し、それぞれの世界で生きている。全知の存在者(神)はいないので、世界の本体についての完全な認識というのは不可能である。

さらに、世界は、それぞれの生きている世界(生世界)でのみ存在し、「物自体」(世界の本体)としての世界は、何者によっても経験されえず生きられない世界であって、そのような世界は現実に存在する世界とは言えない。

一方、フッサールの「間主観的」な共同的確信という観点からみれば、人間は他者をもち、言葉によって互いに自分の「生世界」(実存世界)を交換しあう。そしてまさしくこのことが、われわれが「客観世界」の存在についての不可疑な信憑(世界確信)をもつことの根拠なのである。

世界における何らかの「原存在」の存在は、われわれの「生世界」の根拠として絶対的な不可疑性をもつ。つまり、「自然世界の実在」は人間にとって完全に不可疑なのである。

こうして、われわれが「生世界」を生きているという現実自体が必然的に要請する、世界の存在についての根本的な想定ー信憑を、竹田氏は「原存在信憑」と呼んでいる。

哲学における「存在の謎」ーーー世界の全体はどうなっているか、世界の存在理由が何であるか、世界の究極目的が何であるか、また、そもそもなぜ世界が存在するのかーーーといった問いは、世界の「本体」はそもそも認識の対象ではないが、しかし世界の現実存在はわれわれにとって不可疑であるという「原存在信憑」の概念によって終わりにすべきものとなる。

だが、この原存在信憑が成立するのはただ「自然世界」においてのみであり、それゆえ、「本質領域」(人文領域)の世界では、「本体」は完全に解体されねばならないということだ。

本質ー意味ー価値の世界の本体はどこにも実在しない。それはわれわれ人間の世界においてのみ創り出される、関係的な意味ー価値の世界だからである。

言語の謎

「言語の謎」も、「認識の謎」に解明によって解かれる。ニーチェとフッサールのスキーマは、なによりまず「主観ー客観の一致」構図を解体する。これは、「認識と言語の一致」の構図、つまり、「現実ー認識ー言語」の一致はあるのかという問い自体を解体することになる。

するとどうなるのだろうか?

現代論理学の暗黙の前提は、言語の意味の一義的な規定が可能となれば、「認識と言語の一致」は可能というものである。

しかし、ニーチェとフッサールの認識論の解明は、「世界それ自体」の観念を解体することで「現実そのものの正しい認識」という観念を解体し、つぎに「現実ー認識ー言語」の「一致」の可能性の代わりに、現実と認識の間、認識と言語の間の「確信ー信憑」成立の構造におく。これを言語の問題にそのまま適用することで、ここで見てきた「言語の謎」は解明されることになる。

言語行為における基本的な発語(語ること)ー受語(聞くこと、読むこと)の関係を「言語ゲーム」として以下に示すことができる。(下図4-1)

論理学者たちは、語り手の「意」と「言葉」の一致、そして「言葉」と聞き手の「了解」の「一致」の可能性を論証しようとする。

相対主義者たちは反対に、この「一致」の成立は不可能であることを論証する。しかし両者とも「一致」が可能か可能でないかを問題にしているのである。これは「一致」の図式を前提にした可能性、不可能性の論証であって、言語の意味の本体論となる。本体論はニーチェによってすでに解体されている。現象学の「確信条件」の解明は、この前提を完全に顛倒する。

言語の信憑構造を内省によって洞察すると以下になる。

  • 図中①で語り手は、まだ不明瞭の場合もあるが何かを言いたい(=意)。そしてそれを言葉にする。ここで本質的に生ずるのは、自分の言葉が「意」を伝えている、あるいはいないという内的信憑である(「適合信憑」)。

  • 図中②で聞き手は「言葉」を受けとり、相手の「意」はかくかくだろうというやはり「適合信憑」を形成する。もちろん間違っている場合もある(会話ではそれを確かめられるが、テクストでは確かめられない)。

これですべてである。現実の言語行為は本質的にこうした構造をもち、この構造のうちで意味のやりとりが生じる。

本質観取

本質観取の方法は、基本的には、認識問題の解明のために内在的意識における事象の確信形成の構造を観て取るための(内的洞察の)方法である。

したがって、現象学が「確信成立の条件の解明」として理解されなければ、つまり「構成」や「ノエマ」の概念が正しく理解されなければ、「本質学」という理念も適切に理解されえない。

本質観取と言語ゲーム

本質観取は、そもそも「認識の謎」の解明のために、対象の確信構成の構造を観取する方法である。しかし、これはそもそも哲学の基本方法、つまり哲学の「言語ゲーム」の方法を原理化したものと考えることができる。

「言語ゲーム」は、ウィトゲンシュタインの『哲学的探求』に現われる概念だが、その主旨は、言語の「意味」は、「言語」に内在するものではなく人間どうしの言葉のやりとりの中で、相互に関係的な了解性として生成する、という点にある。

哲学者は何らかのキーワード(原理)をおいてこの「本質」を示そうと試みる。つまり哲学の原理とは、どのような言葉が「ことがらの本質」をもっともうまく説明できるのかを求めるものであって、何が真理であるかを示すことではない。

科学の観察と測定の方法は、事実(事物)の領域ではきわめて優れた客観認識を生み出すが、これを人文領域にそのまま適用することができない。

たとえば、「認識の謎」を解くためには、われわれ自身の内在意識における「確信構成の構造」を把握しなければならないが、この構造は実験装置によっては捉えられない。

各人の内省による内的な洞察を「言葉」に置換え、これを各人の間で(間主観的に)吟味してどういう言葉が誰にも納得できるものとなるかを確証するほかはない。

ハイデガーによる不安の本質観取を展開する

ハイデガーは『存在と時間』で人間実存についての優れた本質観取を行った。それは情状性、了解、語りという三契機で取り出したというものである。そこでは情状性、つまり「気分をもつこと」が現存在(=人間)の第一の本質とされたが、さらにハイデガーは「不安」の気分を人間の「根本情状性」と呼びその本質観取を行っている。
ハイデガーによる考察は以下である。

  • 恐れは、たとえば強盗や病気、台風などという対象をもつ。

  • だが、不安は恐れと違って明確な対象をもたない。

  • 不安の対象はいわば世界そのものである。

  • 不安の主体は人間自身であり、不安の内実は、われわれの実存可能性(よりよく生きられること)に対する不安である。

  • 不安の気分の本質は、「不気味さ」の気分、慣れ親しんで安心している世界から引き離されるという情動にある。

  • そのことから、その最も底には「死の不安」があることがわかる。

  • 死の不安が差し迫るとき人間は日常的な世事から切り離されて「単独化」される。

  • こうして不安は、われわれを「平均的な居心地のよさ」の世界から引き離し、人間の存在の根底にある「寄る辺なさ」を露呈するものである。

竹田氏によれば、これが「本質観取」といえる理由は下記であるという。

  • 第一に、ここで不安の本質は、外的な知識や情報に依拠せず、ただ自身の内的経験への内省だけから洞察され観取されていること。

  • 第二に、他の情動である「恐れ」と対照しつつ、その特質が取り出されていること。このことで何が「不安」の本質と言えるかについて、誰にも納得される形で記述されていること。

  • 第三に、誰であれハイデガーの内省による洞察を自分の内省によって追検証できるということ。

  • 最後に、これがとくに重要だが、ハイデガーの洞察が不安の本質の最後の結論というのではなく、誰もが自分自身の内省によて不安のより深い特質を、これに付け加えてゆくことができるということだ。

量的研究と質的研究の本質連関

現在、量的研究/質的研究という区分が臨床心理学、教育学、看護学、介護学などの領域で行なわれ、量的研究が実証主義にもとづくデータ(エビデンス)を基礎とした研究を意味し、これに対して質的研究は、データでは捉えきれない人間的側面をカバーする方法とされている。そしてここでは現象学の応用ということがしばしば言われている。

この区分は、人文領域が、事実学的な実証主義だけでは捉えきれない側面をもつことについての自覚の高まりといえる。ただ質的研究における現象学の応用という点では、そもそも現象学理解が十分とはいえずーーー 一般には、本体論の解体、認識論の解明、本質観取といった現象学の根本方式はほとんど理解されていないーーーそのため質的研究のためのさまざまな方法が提案されてはいるが、基本的に主観的な解釈理論の域を出ていないように見える。

竹田 青嗣. 哲学とは何か NHKブックス (p.189). NHK出版.
Kindle 版.

【私見:哲学は、個人的な思考に耽っているだけで、何も社会の役に立っていないと言われている中で、現象学は広い分野で応用されている。それが適切に応用されていないということであれば、竹田青嗣、西研たちの現象学解釈を採用されていないからなのではとさえ思っています。

基本的に、ハイデガー流の「解釈的現象学」に基づいて刊行された放送大学の教材『現代に生きる現象学ー意味・身体・ケア ー』について数回以上投稿記事を書きました。それは、本書にも書かれていたように、看護については、ハイデガーの後期思想である彼独自の存在論的形而上学である「本来性」に踏み込まない範囲で応用するということであったので、竹田解釈とのズレを感じていなかったからです。

竹田氏も、ハイデガーの後期思想については批判的ではあるが、人間実存の本質観取については優れているということでしたので、問題ないものと、個人的には解釈している。】

引用図書:竹田青嗣著『哲学とは何か』


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