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【連載小説】黒き夢みし vol.16

 マルオは緊張感のない男だった。椅子の上にどっかりとあぐらをかいて、ストローを差した一リットルの紙パックのお茶を飲みながら、ニコニコ動画や2ちゃんねるまとめサイトを見ていた。その様子を明彦は怪訝そうな顔で見ている。
「あ、メールチェックぐらいしないのって顔してますね?」
 マルオはにやにやと笑みを浮かべながら言った。明彦は頷いた。
「そりゃ、もちろんチェックしますよ。でも自分、昨日も夜勤だったんで、だいたいメールの内容分かってるんですよ。本当に大事なことがあったら、雰囲気で分かるんで後回しでも大丈夫です! 日課が終わったら見ますから!」
 マルオはそう言って日課の処理を再開した。日課ということだけはあり慣れているのか、十五分ぐらいでそれは終わった。
「さあて、じゃあ仕事しますか」
 マルオは大きな伸びをして、サンダーバードを開いてメールをチェックした。日課と違って、じっくり確認することもなく五分で終わった。
「昨日の夜勤から特に変わったことはないですね。だいたい今日は終わりみたいなものですよ!」
「そうなんですか」
「夜勤初日だから分からないことだらけだと思うんですが、気楽にいてもらえればいいですよ。あ、そうだ」
 マルオは引き出しを開けてコクヨのフラットファイルを取り出し、明彦に渡した。
「なんですか、これは」
「夜勤スタッフの定常業務リストですね。ここに書いてあることをやるのでそれが理解できていれば、とりあえずO Kですよ」
 明彦は渡されたファイルをパラパラ開いて内容に目を通した。先週にシャドウから共有された共有ディレクトリ上の資料の内容と同じように見えた。
「これって、もしかして共有ディレクトリにある資料と同じですか?」
「へっ? その資料をもう見てるんですか?」
 マルオは驚いたような甲高い声をあげた。明彦は頷いた。
「いやあ、優秀ですね! 先回りしてチェックしているんですね! なんなら共有ディレクトリの方が最新だから紙資料の方が古いからもしれませんね。自分のやることが間違ってたら教えてくださいね!」
 マルオは笑いながら、椅子に大きく背を預けてリラックスした様子を見せた。どうやらマルオから明彦にレクチャーすることは何もないらしい。
「定常業務の内容が頭に入っているなら、あとは障害対応だけですよ。とはいえ障害はいつ起こるか分からないですし、起こらないのが一番いいので、障害早く起きてくれー、なんて言えないですからね」
「まあ、そうですかね……」
「今日はゆっくりしましょうよ、ねっ!」
 先週までの日勤帯では社会人としての振る舞いや、シャドウの強いプレッシャーを受けていた。日勤帯は常に緊張感を持っていたが、夜勤帯の雰囲気は大きく異なる。マルオはまるで自分の家にいるかのようにリラックスしながら、ニコニコ動画や2ちゃんねるを見ている。マルオは定常業務リストさえ理解していれば特に今はやることがないと言う。明彦は今日の出勤前に張り詰めていた気持ちが拍子抜けしてしまった。
 マルオはパソコンを見ながら、コンビニ袋からサンドイッチを取り出して頬張った。
「あ、お腹空いたら気にしないで適当に飯食ってくださいね!」
 マルオはサンドイッチを食べながら言った。明彦は出勤前に少し食べてきたので、まだ空腹ではない。
 特にやることもなく、時間は過ぎていった。マルオのようにニコニコ動画を見る気もならなかったので手持ち無沙汰だ。マルオのパソコンからはゲームの実況動画の音声が聞こえてくる。何もない時間が過ぎていく。

「ところで夜勤初めてですよね? 寝れました?」
 更新された動画のチェックが終わったのか、マルオが明彦に話しかけてきた。時刻は二十三時になろうとしている。
「いや、全然寝れなかったです」
「でしょうね、最初はそうですよ。今はまだ眠くないかもしれませんが、二時ぐらいは魔の時間帯って言われているんですよ」
「魔の時間帯?」
「その辺が眠くて眠くて仕方ないんですよ」
 マルオは楽しそうに言った。
「いつも二十三時ぐらいに寝るので、もうちょっと眠いですけどね」
「そういう時は夜の散歩とかいいですよ」
「散歩ですか?」
「そうです、真夜中の新宿を散歩することなんてあまりないじゃないですか? 最初は面白いですよ」
 確かに新宿で終電を超えた時間帯に歩き回ること自体はない。それにそろそろ空腹になってきた。コンビニに行くついでに散歩するのも良さそうだ。
「じゃあ、コンビニ行くついでに散歩に行ってきますね」
「どうぞどうぞ、ごゆっくり。あ、出かける時はこれを持っていってください」
 マルオは机の前の充電器にセットされているP H Sを明彦に渡した。
「これはなんですか?」
「これの説明を忘れていました。丁度いいから今説明します。このP H Sのメールアドレスに障害発生メールが送信されるようになっているんです。このオフィスにいれば障害発生に気付くんですけど、コンビニに行ったら気づかないじゃないですか。だから出歩く時はこのP H Sを持ち歩くんです」
「なるほど。それなら障害気付きますね」
「先週の今頃、けっこう大きな障害あったじゃないですか。障害メールが何百通きたから、そのP H S は鳴りっぱなしだったみたいですよ。いやあ大変大変。自分が夜勤当番じゃなくて良かったですよ」
「そういうときの当番の人は大変ですよね」
「夜勤メンバーの中だとそういう日はハズレって呼んでます。もう本当に大変ですよ。このフリーな夜勤空間に日勤の人が叩き起こされて駆けつけてくるんですよ。一気に緊張しますよ」
 確かにこの緊張感のない空間に不機嫌なシャドウがやってきたから、一気に雰囲気が変わるだろう。急な落差に体が対応できないかもしれない。明彦は持たされたP H Sが鳴らないことを祈った。
「じゃあ、ちょっとコンビニ行ってきます」
 マルオは行ってらっしゃいと声をかけてニコニコ動画を見始めた。

 当たり前だが、外を出ると辺りは暗い。出社前はまだ少し明るさがあったが、今はすっかり夜だ。オフィスには窓がないので、外の変化を感じとることができない。気がついたら一気に夜になっている感覚に少し戸惑う。
 真夜中とはいえ新宿なので夜でも煌々と光る街灯や走行する車のヘッドライト、コンビニの証明など、夜でも外は人口の灯りで照らされている。少し前まで眠かったが、外の空気を吸うと頭も少しクリアになる。
 ビルの近くにファミリーマートがあるが、先に辺りを散歩することにした。明るい国道沿いではなく、ビルの裏に回って歩いてみることにした。
 ビルの裏は住宅街になるので暗くなった。近くに公園に人影が見える。若い男女の声が言い争うような声が聞こえた。甲高い声で何か言っている。二人とも酔っているのか声が大きい。あまり近づくと危険な気がしたのが、少し離れた位置からその様子を眺めた。
「一体どういうこと!」と若い女が叫びながら、男に平手打ちをした。男は何か喚きながら女を突き飛ばした。女が倒れた。痴話喧嘩だろか、静かな住宅街の夜に男女の声が響く。明彦は興じるようにそれを見ていた。すっかり目が覚めている。
 しばらくすると警官がやってきた。近くに交番があったので声を聞きつけてやってきたのだろう。男女はまだ何か喚いていたが、後は警官がなんとかするだろう。明彦は散歩をやめてコンビニに寄ってビルに戻った。
「散歩どうでした?」
 オフィスに戻るとマルオがにやにやしながら言った。
「痴話喧嘩に遭遇して、すっかり目が覚めました」
「良かったですね! 毎回何かあるわけじゃないですが、新宿の夜は面白いんですよ」

 その後は仕事に関係ない雑談をマルオと延々に話した。マルオはニコニコ動画で子供の頃に遊んだゲームの実況動画をよく見ていたのだが、そのゲームは明彦も好きなゲームだった。
「ドラクエとF F好きなんですか?」と明彦が聞くと、マルオは大きく頷いた。
「自分、大好きで全部やってますよ!」
「全部はやってないですが、僕もかなり好きですよ」
「ドラクエ何が一番好きですか? 自分は3が好きですかね!」
「いやあ、どれだろうな。僕は4ですかね」
「渋いところいきますねー」
 深夜のオフィスでマルオと明彦は大きな声でゲラゲラと笑いながら過ごした。日勤帯のシャドウやギンガム、またB V Tにいた先輩社員たちとは全く違う社会人の先輩に出会った。マルオは三十歳を過ぎていると思うが、このように意識の低い社会人を近くで見るのは初めてだった。マルオのように生き方は楽だなと思ったが、明彦が三十歳の時にこうなりたいかと言われるとそれはまた別だと思った。

 午前二時になると大きな眠気がやってきた。瞼がとても重い。ブラックコーヒーを飲みながら眠気と戦った。マルオは連日夜勤なので日中もしっかり眠れているようだ。
「あと五時間ですよ。がんばりましょう」
 マルオが眠そうな明彦に声をかける。少しだけ先輩らしさがした。
「そうですね」
 明彦が力なく答えた。そのときP H Sが大きく震えて、設定された着信音が鳴り響いた。リンリンリンという昔の黒電話の音だ。
「お……、障害ですね」
 マルオの声のトーンが小さくなった。障害の内容を確認すべくサンダーバードでアラートメールをチェックした。P H Sのアラーム音は一度で鳴り止まず、二回三回と鳴り響く。
 マルオの顔に一気に緊張感が走る。少し前までも何も受信していなかったサンダーバードにメールが何通も受信していく。
「これはまずいぞ!」
 マルオが大きな声を上げた。


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