映画「キャラクター」を見て

6月10日かな?から公開された「キャラクター」今日見てきました。
あまりに面白くて、見た後面白かった以外の語彙が出て来なかった笑
ネタバレ注意です。
とにかく伏線回収が上手かった。
これ…伏線かな?って思ったところがものすごく気持ちよく回収されていた。
大筋として、犯人が「幸せな4人家族(子供は男女1人づつ)」を狙うのに対し、主人公の実家は4人家族(主人公は父親の連れ子、妹は母親の連れ子の4人家族)
そして主人公と結婚した妻はお腹に子供を宿しておりラスト直前で二卵性男女の双子であることが明かされて…って言う感じで伏線だろと思ったところが全て絡んでくる。

そして考察できるところが多い!
犯人の両角は、カルト団体のようなコミニュティ出身。家族のもっとも幸せな単位は家族が4人であること、言う教えのもと閉鎖的な村で暮らしていた。そこで生まれた子供たちは無戸籍で育てられており、ある日国による摘発があり子供たちは国にも認められず…という設定(新聞記事)が出てくるが、そのあと両角が4人家族を殺害する理由が出てこない。
本編で、「やっぱり家族は4人ですよね…」のような「教え」を踏襲した思想を言うのに対し、殺すのは4人家族。家族といえば「4人」なら、例えば三人家族や、五人家族を皆殺しにする方が理屈に沿っているような気がする。
でも殺すのは幸せそうな4人家族で…
私は最初、国や世間に認められなかった自分たちの「4人家族」の形を永久に残したい…のような思想なのかなと考えていたけど、
ターゲットになった二軒目の家族(もちろん4人家族)の車に山道で同乗させてもらうシーンで、あまりに異質に描かれすぎているなあと思った。
乗り込むとき、席順が運転席が父親、助手席が母親、後部座席に子供2人で、両角は子供たちに詰めてもらって後部座席に乗り込むのだけど、そのとき「狭くなってごめんね」みたいなことを言っていた。その後の父親との会話でのやりとりであまりに的外れなことばかり話していた事と比べると、ちゃんと相手を考えるような言葉が出てくるのがなんとなく逆に違和感。それに、二軒目の家族が殺された舞台は、両角の出身である「カルト村」の跡地近くだったことも加味すると、もしかすると「家族の最高の単位は4人」と言う教えの村のなかで、唯一生まれた5人目の家族(つまり後部座席に座っているふたりの子供たちと合わせて三人目となった?)だったのでは?もしそうだとすると、教えの絶対だった村の中で全てが異質だった五人目の家族である両角が「4人家族」に拘って殺そうとする理由もなんとなく見えてくるような気がする。そして国からも認められない「無戸籍」…村にも、日本にも、世界中のどこにも両角の居場所はなかったのかも知れない…
それで考えると、一軒目の事件で4人家族を殺した後、夕食団欒の形に全員を並べてしばらくその場に滞在していたことも、異質な上で存在する自己の形、村での関係性の踏襲なのかな…と考えたり。
その上で自分の起こした事件を、自分の思想をまるで「理解した」ように書く主人公の上城に対して強烈な同類意識を持つのもわかるようなきがする。
(もし、Blu-rayとかDVDが発売されたら、カルト村の記事が出るシーンを止めて記事を読みたい)

両角の異質さを踏まえて見る「異形」と「34」
村からも、世間からも認められることない「異形」と化した両角…そしてその両角とシンパシーを感じて繋がる辺見。辺見は10代の頃に4人家族を殺したことで両角から接触し、そして辺見は両角のしもべ(両角から言わせるとファン)になる。
それと対応する様に、両角を追う刑事二人組。
清田は、元は族の成り上がりで、その面倒を見ていた真壁と言う組み合わせ。
そしてその2組を繋ぐ中心に主人公の上城。
上城は、刑事に協力する反面、漫画を描いていく上で両角の異形な面に惹かれ、両角の言う通りに漫画の展開を描いてしまうシーンもあって、「異形」と「人間(理性?世間?)」の両面を持って揺れ動く。
「34(さんじゅうし)」は、上城の描く漫画のタイトルだけど、4人家族殺しを行う犯人を3人の34才刑事が追う、以外にももっと意味がありそうな気がするなあというところで、もしかしてそれぞれの三角形の中心にいる主人公と、主人公を取り巻く4人で「34」なのかなあ…と思ったり。
上城と両角が最後殺し合うシーンで、笑顔(?)になった(ここで2人とも笑顔(?)シーンで、完全に彼らは殺し殺されることで同調し、異形として同化してしまった?)両角を刺し殺そうとする上城は人間の姿を捨てて異形になりかけたから、漫画とは上下の体勢が逆転していたのかな…一歩間違えたらお互いが逆でもおかしくなかった。

そのあとの、上城の病室の窓を妻が閉めるシーン。画角を見たことあるなあと思ったら最初のシーンで上城がタバコを吸うために窓を開けたシーンとそっくりだった。当時の彼は、デジタルではなく紙に直接インクとスクリーントーンで漫画を描いていたころだった。その後売れて、デジタル作画になったが、最終巻目前でやはり紙で描く、紙でなら、最終巻を描くと、紙で漫画を書いた。
紙で描いた後、殺し合いをして、病室に運ばれて、窓の画角になる。
窓→異形(両角を見る)→紙で書く→(売れる、世間に認められる)デジタルで書く→異形(両角に絡まれるようになる)→紙で書く→殺し合う→窓
みたいな順番に進むので、異形に傾いた上城が人間側に帰ってきた象徴の「あの頃」が窓だったのかな…まだ異形に触れる前だったころ…


もしも「両角なんで人間は存在していなかったら」
途中まで見ていく中で、もしかしたら両角という存在も、全て上城の脳内にいるダガーの幻覚で、話しているのも、家族を殺しているのも、両角を恐怖していることも全て「己の異形の姿」が現れているのではないか…???とも疑った。
そのカルト村もこじつけで、本当は全て自分の妄想なのかも知れない、そうしたら、両角(漫画の中ではダガー)が人を殺すシーンを漫画で描くことも、自分自身だったら経験しているわけで知っていて描けるのもおかしくないかな…と思ったけど、私は両角が存在しててよかった…と思った。
だってそうでもなかったら、この映画は多分こんなに面白くなかったと思うから。
最後のどんでん返しとしてはもちろん「あっても面白い手法」だと思うけど、そうなると今まで描かれていたことも、葛藤も、全部が机上の空論だったというか…なんか、あっけなーく終わっちゃってた気がするから…それか続編匂わせみたいな感じで、最後の病室シーンで両角を思わせる表情するみたいな。そんな終わり方だったら「まあよくある感じだったよね」みたいになってたと思う。
あれは、誰からも存在を許されない異形と化した人間と、その人間に魅力される半分半分と、そして人間としてあろうとする人間と、それぞれが対立してたからより綺麗だったと思う。

映像について
人間らしい暮らしをする主人公上城の仕事スペースは、壁中に写真や設定資料や普通の資料やメモ書きなどが貼り付けられていたんだけど、それと同じように両角の部屋もたくさんの紙、写真。特に漫画を踏襲した殺人をしている両角は、漫画場面と、実際の殺人現場の写真を比較できるように、壁にたくさんの紙が貼ってあって、主人公の部屋と本質的に同じような部屋になっていておもしろかった。
ああ、この狂気はきっとこういうところが似るんだろうなあと思ってゾクゾクした。

これからまだ追記するかも知れないけど、眠いから今日はやめた…
お休みなさい

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