連想エッセイ「ペン」(リレー#2)
アルパカとみーくんのnoteでリレーエッセイ企画がスタート。
投稿のなかで次の書き手として指名を受けた。
さて、いきなりでなんなんだけど、記事タイトルは “リレーエッセイ「今回のテーマ」(連想#ナンバリング)” のほうがしっくりくる気がするんだけど、とみーくん、どうかな? 今回なら『リレーエッセイ「ペン」(連想#2)』という感じで。
“リレーエッセイ”という文言を冒頭に置いたほうが、何が行われているのか読んでくれる人に分かりやすいし、“リレーの回数”を数えるよりも“連想の回数”を数えていくほうが企画の趣旨に合うのでは?
……と、いきなり理屈っぽい書き出しになってしまったが、改めまして、アルパカとみーくんからエッセイのバトンを受け取りました、はじめと申します。仕事はエンタメ系フリーライター、趣味は音楽活動。お笑いと都市伝説とカレーライスが好きです。
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とみーくんとは高校時代の友人で、一緒にバンド活動をしたり、自主制作映画を撮ったり、ライブハウスを借りて何度もイベントを企画したり。面白いことをやるときは常につるんでいる間柄だった。この辺りはとみーくんのnoteにも同じような話が書かれている。
20代前半、私が暮らすアパートの一室に寝泊まりすることも多かったとみーくん。大学をさぼったとみーくんが、バイト帰りの私を「おかえり」と出迎えてくれたり、まとめ買いしておいたコーラを留守中に飲み尽くされたり、どれもこれもいまとなっては愉快な思い出だ。
なお、とみーくんのことは、長年“別のニックネーム”で呼んでいる。とみーくんって書くのがだいぶムズムズするんだけど、これはどうしたものか。
とみーくんが地元を離れ、若い頃のように面白そうなものを見つけて一緒に熱くなったり、ファミレスで無駄にダベったりすることもなくなって10数年が経った。ついに今年で50歳。お互いにだいぶ年齢を重ねた。
そんなある日、仕事でお世話になっている20代の雑誌編集者さんから「社会に出てから楽しそうなことに飛び込めなくなった。“夢中になることに何の意味が?”と思うようになっちゃって」という声を聞いた。ふむぅ、さもありなん。
私も10代、20代の頃は、意味なんてろくに考えず楽しそうなら飛び込んでいた。もちろん失敗もするし、誰かを傷つけてしまうこともあった。でも、理屈抜きに突き進んだからこそ経験できたことがたくさんあったし、突き進んでいる瞬間は充足感があった。
いまの自分はどうだろう。気付かぬ間にすっかり打算的になっていたのでは? 「面白そう!」と思ったら、とりあえずやってみる勇気はあるだろうか? いや、そもそも楽しそうな何ごとかに飛び込むときに、勇気なんていらない。意味付けや理由もいらない。直感を信じて飛び込んで、面白そうなら深くのめり込み、自分に合わなければやめればいいだけだ。
と、そんなことを考えていた時期に、とみーくんと数年ぶりにzoomで近況報告をする機会があり、「なんか一緒にやりたいね。まずは手軽にお互いにnoteでエッセイでも書きあってみる?」という話になった。
無名なオッサンたちが書く駄文を誰が読むのか、求められてもないのにツラツラと文章を書いて何の意味があるのかーー。少し前の私だったらそんな風に考えていたかもしれない。でも、編集者さんとの会話で自分を見つめ直した直後だったので、余計なことを考えるのはやめた。とみーくんが「やろう」というならまずはそこに飛び込む。必要なのはそれだけだ。
何年か前にアカウントを作り、なんとなく水が合わない感じがして放置してしまったnoteだったが、この機会にしれっと使い出してみよう。「突然どうした?」みたいなツッコミは「えへへ」と愛想笑いでやり過ごせばいい、きっと。
実を言うと、zoomでとみーくんと話をしていたときは、2人でエッセイを書き合う“交換日記”のようなものになるのかなと思っていた。私ととみーくんならではの話題が中心の、読む人を選ぶタイプのディープな企画に育っていくんだろうと想像して、ちょっぴりニヤニヤもしていた。
しかしどうやら、われわれに縁のある人をリレーの輪に巻き込んだり、飛び込んでもらったりするルールらしい。誰かにバトンが回ったきり、自分に指名がこなかったら寂しいのでは? でもOK、わかった、問題ない! 新しい出会いもあるだろう、大歓迎だ。仮に先々ワヤクチャになったとしても、それもひっくるめて楽しんで、あとあと振り返って笑えばいいだけだ。いままでもそうしてきたわれらだ。とみーくん、最初の旗振りをありがとう!
それにしても、とみーくんという呼び方が、やっぱりしっくりこない。
さて、ここまでが前置き。そろそろ連想リレーエッセイっぽいことを書き始めていく。とみーくんは「マンガ」をテーマに、好きな作品や少年時代のマンガライフについて書いていた。同級生なので、読んでいた作品や好きな作品は、私もほぼ似たような感じ。
ただタイトルが挙がっていたなかで「月とスッポン」(柳沢きみお)だけがまったくの未見で、ジャンルもあらすじも知らないので、機会があったら読んでみようと思ったかな。
私の好きなマンガは「火の鳥・未来篇」「アドルフに告ぐ」「ONE PIECE」「AKIRA」「からくりサーカス」「北斗の拳」「To-y」「まんが道」「究極超人あ~る」などなど。何気に「名探偵コナン」は全巻おさえている。
読んでいた漫画雑誌は「週刊少年ジャンプ」と「週刊少年サンデー」。あとは「コロコロコミック」も。各作品や各雑誌について語ると長くなるので、それはいつか別の機会に。
とみーくんも、エッセイのなかで〝車田正美先生にあこがれてマンガ家を夢見た”と書いていたが、私も子供時代にマンガ家になりたいと思ったことがある。描きたい題材があったわけでもなく、とみーくんみたいに絵が上手いわけでもないけど、マンガ家が激務であると知らなかったはじめ少年は、浅はかに「楽しそうな仕事」だと思ってあこがれていた。
小5~6の頃に、どこで知ったのか“マンガを描くためにはGペンが不可欠”みたいな情報をキャッチし、母親にせがんで家から少し離れた場所にある大き目の事務用品店・ヒノデンで、ペン先、ペン軸、インク、ケント紙を買ってもらった。しかし、鉛筆やサインペンで描くようなわけにはいかず、1時間足らずで挫折。マンガ家の夢はなかったことになった。
その後、高校時代に所属していた地学部の機関誌に、部活動とは全く関係のないサインペンで描いた変身ヒーローマンガを載せたり、プロを目指してバンド活動をしていた時期にライブ告知のチラシ用にマーカーでマンガ風のイラストを描いたりすることもあった。
でも、残念ながらどれも素人レベル。書いている最中は楽しいし、描き上がった直後は高揚感もあるのだが、少し時間を置いて冷静になって見返すと気が萎える。それでも、たまに何か描きたくなることもある。いまは、住まいが狭く、用紙を広げてペンを繰るようなスペースを確保できないし、相変わらず下手っぴなままなのだろうけど。
絵やイラストを描きたい欲求が時折疼く一方で、私はフリーライターを生業にしているので文章を「書く」ことが多い。“描くより書く”な日々だ。ただし、原稿はパソコンで書いてネット経由で編集部に送るので筆記具で手書きする機会は少ない。取材現場でメモを“走り書き”することはあるけれど、字が汚すぎてあとから判読できないケースも多い。笑うしかない。
記者会見などに出席すると”ペン取材””ペン記者”というくくりで扱われる。スチールカメラやムービーカメラを携えた報道関係者と区別するために、ライティングのみを担う取材者はペン取材者のエリアに案内され、その場でメモを取りながらICレコーダーを回す。
「回す」というのは、テープレコーダーを使っていた時代の名残である。見過ごせない言いまわしだが、今回はひとまず気にせず書き進めよう。今回はマンガにも文筆にも不可欠な「ペン」についての私見を書こうと思う。ようやく本題にたどり着いた!
インクを用いた筆記具の総称、それが「ペン」である。墨汁というインクを使って文字を記すという意味では、書道用の和筆もペンと言えるのかもしれない。鉛筆やクレヨンなど“細長い形状の何かを書く(描く)道具全般”も含めると、相当な種類の筆記具が身の周りにあふれている。
筆記具がない時代には、人は石に文字を刻み、岩壁に顔料を用いて絵を描いた。いつしか筆記具が手軽なものになり、われわれは日常的に文字を書き、絵を描き、記録やコミュニケーションに利用してきた。また、ペンなくしては誕生しなかった文学や芸術も、この世には数多ある。
近年は、パソコンを使って文章を書くことが増え、手紙も電子メールに切り替わった。ついにパソコンからAIに命令を出して絵が描ける時代も到来し、ペンを使う機会はこの先ますます減っていくのだろう。ペンが極端に特別なものになり、マニア向けの高級品になる可能性もある。「マジかよ、ペンで手書きだなんてマニアじゃん」と、手書き文字を見た人がざわつく未来だって、やってこないとは言い切れない!?
一番最近文字を書いたのは、宅配便の送り状に書いた自分の名前、自宅住所、電話番号だ。書いてみると、自分の文字が昔よりも下手くそになっていてびっくりする。元々、きれいな文字を書くのが苦手だったので、50歳になったいま、自分が書く文字のぐにゃぐにゃ具合はなかなかのものだ。
文字を書きつけなくなって久しいが、手元の筋肉も劣化しているのだろうし、何しろ近眼と老眼のミックスなので、ペン先がボヤけてよく見えない。仕方なく、なんとなくの勘でペンを走らせてチャチャッと書く。書き上がった自分の文字をまじまじとながめ、あまりにもアレな感じだったのでペン字のハウツー本を買って読んだこともある。効果はあったのだろうか。どう考えても読むだけじゃダメだよな、練習しないと。
うまく書けないからペンを使うのが億劫になる。ペン離れが進む。スマホでメモを取る機会も増えた。
でも、取材の場で素早く記録を取るときはペンを使う。あとで読むなくて苦労するのはわかっているけど、スマホで文字を打つより俄然早く書けるのでペンに頼る。何かを学ぶときも、ペンや鉛筆でノートに情報をまとめたほうが頭に入るし、自分の曲に詞を書くときも、紙にキーワードを書き出しながらまとめていく。イラストを描くときは、ペンと紙のこすれる感触を指先で味わいたいし、手描きだからこその描線のゆらぎが愛くるしい。
われら団塊ジュニアはペンに慣れ親しんだ世代だ。デジタルネイティブな世代とは、ペンに対する感覚がずいぶん違うのかもしれない。いろいろと思うところはあるが、結局のところ私はペンが好きだ。
かつてドリフターズの荒井注さんは「ディス イズ ア ペン」というギャグでお茶の間を沸かせた。荒井注さん脱退後の“志村ドリフ”を見て育った世代なので、リアルタイムで「ディス イズ ア ペン」を浴びた経験はないが、それでもこのギャグを知っている。すなわち、荒井注さんのギャグは時代を超えたわけだ。
しかしながら、冷静に考えて「ディス イズ ア ペン」の何が面白いのかが判然としない。きっと、言い放つタイミング、表情、シチュエーションなどが相まって笑いが生まれていたのだろう。それと同時に、現代人が当たり前に認知しているペンというアイテムを、あえて「これはペンです」と言ってのけることによて生まれる超然的な驚きが、シュールな笑いにつながっていたとも言える気がする。
意識するまでもない当たり前のアイテムだからこその「こいつ、真顔で何言ってんだ?」という笑い。一連のくだりが、“当たり前の極み”である「ペン」に帰結することによって起こる“拍子抜け”の感覚も、ギャグに触れた者をズッコケさせたと考えられる。
ギャグが生まれた当時は、日本人にとって英語がいまほど身近ではなかった。そんな時代に、教科書で最初に習う「ディス イズ ア~」の構文をカタカナ読みの発音で茶化す感覚もひねりが効いている。
こうして分析してみると、多くの要素が複雑に絡みあったアクロバティックなギャグだ。荒井注さん、すげぇ。どこまでが計算だったのかは不明だが。
ピコ太郎さんの「ペンパイナッポーアッポーペン」にも笑わされた。こちらは言葉のリズム、ユニークな音楽とダンス、奇抜なルックスなどに加え、“ペンと果物”という、ジャンルの違うアイテムを一緒くたに扱うシュール性が絶妙である。そしてわれわれにとって至極当然な存在だからこそ、ペンが笑いの題材として絶妙である点は、荒井注さんの「ディス イズ ア ペン」と同様だ。
いつからかペンは現代人の生活になじみ、意識せずとも“そこにあるもの”になっていた。地球上にはペンを手軽に入手できない地域があったり、鉛筆一本、ボールペン一本を買うのが難しい人もいるとも思うので絶対論ではないけれど、先にも述べた通り、有史以来のあらゆるカルチャーを形作る上で、ペンが果たしてきた役割は絶大だろう。
刃物や工具のような極端な危険性をともなうアイテムと異なるため、筆記具は子供が幼い頃に手にする道具の代表でもある。筆記具の先端を狙った場所にこすりつければ、文字なのか絵なのかはともかくとして“無から有”が生まれる。そこにはプリミティブな感動があるはずだ。
「ペンは剣よりも強し」という格言もある。“言論は武力に勝る”という使われ方をするケースが多いが、本来は“どんなに剛腕な部下たちも、上役のサインひとつで従わせられる”という意味なのだとか。どちらの用法も核心を突いているのだろうけど、いずれにしても傲慢な印象で、個人的には好きではない。
ライターとして私が普段扱う題材はエンタメ系が中心だ。“楽しい”を届けるのが好きな人間なので、上記のような「ペンは剣よりも強し」という感覚からは縁遠い。しかしながら、世知辛い現実を一瞬でも忘れてほしいと切に願いながら、エンタメの伝え手として立ち回ってきたつもりなので、ペンの強さは信じている。「剣と比べなくてもよくない?」というだけのことだ。
現代文化の発展に欠かせず、極端に身近で、人の原初的な衝動とダイレクトにつながる強力なアイテム。それが「ペン」だ。こうして、ペンについて深く考察したのは今回が初めてだし、誰かとペンについて語りあった記憶もほとんどないので、こんなにもペンについて語れるとは思ってもみなかった。考えれば考えるほど深い。
思い返してみると、子供の頃に文具店で筆記具のコーナーを訪れるのが好きだった。これまで書いてきたような、ペンの世界の深さを無意識に感じていたのかもしれない。いや、それはさすがにこじつけが過ぎるか、むふふ。
棚上の区分けされたアクリルケースにずらりと並んだ、さまざまなタイプの筆記具たち。メーカー別、ペン先の太さ別、黒、赤、青の色違い。カラーマーカーのコーナーでは、何10色もの色違いの筆記具がずらりと並び、美しいグラーデーションを織りなす。その陳列美に思わずうっとりする。
陳列棚の棚板の手前に、幅数センチの白紙を貼って作られた“試し書きエリア”に、さらさらっとペンを走らせて、書き味の違いを比べるのも楽しい。
これまでたくさんのペンを手に取ってきた。急にメモを取る必要に見舞われて出先でペンを買うことも少なくないし、記念品として店名やイベント名が刻まれたペンをもらうこともある。所有しているペンをかき集めれば、一生かけてもインクを使いきれないくらいの本数になるはずだ。
せっかくの機会なので、自分がこれまで使ってきった数あるペンのなかでお気に入りのペンについて書き留めてみる。
一番好きなペンは、ぺんてるの「サインペン」だ。よく使うのは定番の黒。みずみずしさをともなうくっきりした色味と、アクリル繊維でできているというペン先の書き味がすばらしい。おろしたての固めの芯は細書きにも向いているし、ペンの角度を変えれば太線も書ける。少しペン先がヘタってくると中細書きのペンへと育つ。ペン先の成長を味わい、描線の太さを使い分けるのも楽しい。
イラストを描くのにも向いてるけど、歌詞を書くときにおろしたてのサインペンを使うのが気持ちいい。鉛筆や適当なボールペンで走り書きをしておいた歌詞を、サインペンで清書をすると言葉に気持ちが入る感覚があるので、音楽活動に夢中だった時期にこだわって使っていた。安いし、どこでも売っている点もお気に入りの理由だ。
「トラディオ プラマン」も好きだ。これもぺんてるの製品。万年筆を模したペン先は文字書きに最適で、筆圧によって描線の太さや、文字の“とめ・はね・はらい”のニュアンスも表現しやすいのがうれしい。他のペンよりも、自分らしい文字が書ける気がする。
いつ出会ったのかは忘れたが、何かの折にプラマンを借りた際に「なんて書きやすいペンなんだ!」と激しく感動した。借りたプラマンはだいぶ使い込まれいて、本体に印刷されていた製品名表記が薄れていたので、スマホで外見全体の写真を撮り、同じものを売り場で探しまくって購入したのを覚えている。
黒、赤、青ともに、替え芯をまとめ買いして使うほど気のお気に入り。何が原因なのかたまにインク漏れしてしまうのが難点だが、それでも使いたくなる。お値段以上。以前は大きめの文具店で探して買っていたけど、いまはネットで買えるので助かる。
三菱鉛筆の「BOXY」シリーズのボールペンも思い出深い。アラフィフ世代にとっては、スーパーカー消しゴムを「パチン」とはじくのに使ったボールペンとして記憶に残っているのではないだろうか。BOXYというブランド名がどういう意味なのかいまだによくわからないが、子供心にその響きやロゴデザインが無性にかっこ良かった。
黒いボディにオレンジ色のノックボタン。たまに、ボディが緑、青、赤というレアなタイプを持っている友達もいたけど、やっぱりブラックボディが一番クールだ。先端は握りやすく丸みを帯びているが、ノック部分が四角柱っぽいフォルムなので机にペンを固定しやすく、また、バネも強くてスーパーカー消しゴムをはじくのに適していた。
ペンを分解して、バネをカスタマイズするチート技があったのだと大人になってから知ったが、そんなことをせずとも十分楽しかった。ただ、大人になったいま、何が楽しかったのかを的確に説明できないのが歯がゆい。
ちなみに世界消しサカ協会の会長でもあるナイツの土屋伸之さんも、動画のなかでBOXYのボールペンを使っている。「さすが! 分かってるなぁ」と唸らされる。
数年前に復刻したらしく、いまもネットでBOXYのボールペンを買える。三菱鉛筆社の最新カタログには載っていないので、ショップの在庫限りなのかもしれない。消しゴム遊びの予定はないが思わずポチってしまった。到着まで数日かかるらしく待ち遠しい。古い製品とは微妙にデザインが違うみたいだけど、気にしない。
他にも、三菱鉛筆の「ポスカ」、ゼブラの「ハイマッキー」、Too,の「コピックClassic」、サクラの「ふちどりマーカーメタリック」などにも、思い入れや思い出話がある。
こうしてあれこれ書いてみると、めちゃくちゃこだわりが強くて面倒くさい人間に思われるかもしれない。しかしながら、最終的にペンについて思うことは「書けりゃなんでもいい」だったりもする。お気に入りが手元にあればうれしいけど、実際のところそれほどまでのこだわりはない。
最後の最後に「こだわりはない」とか言うとエッセイが台無しな気もするが、それが本心だ。
それにしてもずいぶんと長く書き過ぎた。初回ゆえに、書き記しておきたかった前置きもあったのでこんなことになってしまったが、まぁ、別に誰に怒られるわけでもないだろう。今後も書けるときは長く書くし、そうでもないときは短く書くと思う。
さてさて、次の書き手については、まだまだこの企画の空気感を作り上げていく段階だと思うので、ひとまずとみーくんにバトンを戻します。今回私が書いたエッセイから何を連想し、何を書いてくれるのか楽しみ!
それにしても、やっぱり“とみーくん呼び”がしっくりこない(笑)。