で、何を歌うの?<演奏曲解説(3)>
ライブの後半戦は「大和田橋を渡る」という曲から。会場となるDOMAのマスター・廣井さんとの雑談のなかで「大和田橋を題材に歌詞を書いてみれば?」と提案されたのがきっかけとなってこの曲が誕生したのは、マガジンの最初の投稿にも書いた通りだ。
大和田橋は、私が生まれ育った八王子市を流れる浅川に架かる橋で、国道20号線でもある甲州街道の一部である。DOMAのある明神町からほど近く、10代の頃の私にとっては、元本郷町の実家から日野市にある高校まで自転車通学する際に毎朝必ず渡っていた橋である。
いま調べたところ、橋の長さは121.1メートル、幅は18メートル。決して大きな橋ではない。ごくごく普通の橋である。しかし歌詞の題材にするべく見つめ直してみたら、いろんな感情が沸き上がってきた。歌詞には、毎朝、自転車のペダルをこいで大和田橋を渡る間に感じていたあらゆることを全部詰め込んだ。
廣井さんとの最初の構想では「大和田橋ブルース」という題名の曲にする予定だった。原付に乗っている最中に「どんな歌詞にしようかな」とぼんやり考えていたら、「ここじゃないどこかへ、しゃかりきペダルこいで大和田橋を渡る」という歌詞が、メロディーと共に降ってきた。忘れてしまわないように繰り返し口ずさみながら家に帰り、生音のエレキギターでメロディーに合うコードを探していく。思いがけず8分の6拍子。「大和田橋を」の部分のC♯dimが感情を揺さぶる。Aメロ、Bメロを作りこんでいくうち、ブルース的な構成からかけ離れてしまったので、曲名は変えることにした。
歌詞は、スマホのメモに毎日少しずつ作り足していった。表現したい世界観を深堀りするため、感情はいったん10代前半までさかのぼる。
近頃のことは分からないけど、私が中学生だった80年代中頃は、運動神経のいいスポーツマンと、ケンカ自慢の連中がいまで言う『一軍』で、それ以外は勉強ができようが学級委員をやっていようが、イケてないグループ扱いだった覚えがある。体育の授業を休まず、サボらず、それでも成績表に「1」を付けられるほど運動音痴だった私は、スポーツ以外であれこれ頑張ることでなんとか自分を保っていた。それでも、どうしても居心地の悪さからは逃れられない。蔑まれないように、こちらも密かに周りを蔑む。
ケンカには興味がなく、それっぽい同級生たちを冷めた目で見ていた(この前まで、みんな半ズボンをはいて、母親に甘えていただろうに、みんな突然どうした?)。思春期特有のこじらせもあり、いつしか物事を斜めに見るようになっていく。音楽、テレビ、ラジオ、マンガ、テレビゲームなどの趣味がバチンと合う友達がいない。そんなこともあって「自分の居場所はここじゃない気がする」とうっすら感じていた。
高校は、内申と模試の結果で行けそうなところの中で、進学率が一番高い都立高を選んだ。地域で学力ナンバーワンの都立高を通り過ぎた先にある、隣の市の高校。何を期待していたわけではなかったけど、そこには、同じような気持ちで10代前半をやり過ごして来たと思しき同級生がたくさんいた。シンプルに話が合う。飛び交う冗談にもふわっとした知性があり、皮肉っぽいところもみんな似ていて、バカみたいに虚勢をはるヤツもいない。めちゃくちゃ居心地がいい。
高校入学直後は電車通学をしていたけど、自転車のほうが早く行けることがわかり、すぐにチャリ通になった。授業中はずっと寝ていたけれど、雨の日も風の日も、高校に行くのはイヤじゃなかった。行けば片思いの子にも会える。話の通じる友達もたくさんいる。天体観測がしたくて入った地学部での活動も充実していた。
朝、浅川の南側に沿うサイクリングロードをひた走ると、やがて大和田橋が見えてくる。八王子市内と日野方面を隔てる要衝。「橋を渡り切れば、その向こうには自分が自分らしくいられる場所があるんだ」と、そう信じてがむしゃらに自転車のペダルをこいだ。15~18歳の頃、私にとって大和田橋は、灰色の世界が一気に色づく切り替えポイントのような場所だった。
自分にとって大和田橋は、始まり、幕開けの象徴。夜明けや朝のイメージが強い。高校からの帰り道は、甘酸っぱい理由から大和田橋を渡らないコースで家に帰ることが多かった。橋の手前から浅川の北側の裏道を走り、途中のコンビニに寄り道しながら大回りのコースで元本郷町までダラダラ帰っていた記憶ばかりで、夕方の大和田橋をあまり思い出せない。
いままで無意識だったが、橋には『こちら側から向こう側へ』というドラマが常に伴う。行き先があこがれの場所なら希望の架け橋、行きたくない場所につながる橋なら絶望世界への入り口となる。橋の向こうは異世界、だと考えると少し恐ろしい存在にも思える。雑談のなかで、軽い気持ちで大和田橋を題材に選んだけれど、思いのほか熱い歌になった。
なお高校時代は毎日が楽しく、部活、文化祭、バンド活動に熱中しすぎたこともあって、完全に落ちこぼれになった。人生いろんなことがある。
お次は「笑っていよう」という曲。ライブの2曲目で歌う「きみのために僕は祈る」と同じ「青のクラウン」の曲だ。作詞作曲は2006年。「きみのために〜」は自主制作アルバムに収録されているが「笑っていよう」は未収録だ。2012年にYouTubeに公開したサウンドが、これまでの12年間で66回再生されているのは把握した。底辺ユーチューバーもびっくりな再生数の少なさだけど、無名なバンドのなんの情報もない曲を、通りすがりに聞いてくれた人がいると思うとありがたい。
この曲を作った2006年は、まだ音楽で身を立てるのをあきらめていなかった時期だ。しかし、このすぐあと「もういいや」と投げ出して音楽と距離を置いた。それから数年後に、青のクラウンのメンバーから「また何かやりましょうよ」と声をかけてもらい音楽活動を再開させることになり、ハードディスクに保存してあったデモ音源のなかから「笑っていよう」をYouTubeにアップした覚えがある。
「今度会うときは天国か」以降の歌詞は、今回弾き語りライブをやるにあたって書き足した。いつ書き写したのか覚えてないけれど、スマホのメモ帳にかつて作りかけた歌詞が残っていたので、それをまとめ直した格好だ。
「青のクラウン」というバンド名の「クラウン」は、サーカスにおけるピエロのこと。王冠やトヨタ車の名前ではない。本来的には道化役全般が「クラウン」で、ピエロはそのなかのひとつの役柄を指す言葉だという。言わずもがな、クラウンはサーカスの花形である。泣き顔のメイクをしていても人を笑わせるために徹底的におどける。目の前の人を笑顔にするためなら、バカを演じることも厭わない。その精神にあこがれる。
サーカスの道化師や曲芸、そして〝笑顔〟を重要なテーマに据えた「からくりサーカス」という漫画がある。作者は藤田和日郎。興奮と感動の連続で、好きな漫画ランキングを作るなら、絶対上位に選びたい作品だ。何度も泣いた。そんな「からくりサーカス」から影響を受け、青のクラウンの歌詞は〝笑おう!〟をテーマに書くことが多かった。その代表格といえるのが、ストレートな曲名を冠した「笑っていよう」である。世界が終わるというのなら、一人で部屋にこもって泣きべそをかくのではなく。大切な人と一緒に笑いながらそのときを待ちたい。そういう歌だ。ツラくても笑う、笑い飛ばして強くなろう、といった感覚は、当時からいまも変わらず自分の中心軸となっているので、ライブのセットリストに加えることにした。
歌詞だけ見るとポップな曲調が似合いそうだが、コード進行はEマイナーのブルースである。ややルーズに、やさぐれた雰囲気で歌う。どこかで聞いた曲のような気がするけれど、ブルースの教科書で序盤に出てくるような作りなので、その点は生暖かく笑って見逃してほしい。
歌い出しの「あした世界が終わるってニュースじゃヤイヤイ騒いでる」という歌詞は、ノストラダムスが世界の終わりを予言した1999年から7年を経た作曲当時よりも、都市伝説界隈で2025年7月の大災難が噂されるいまのほうが、時代的に合っている気がする。本当かウソか。どうなるかわからない未来に怯えるよりも、笑って過ごした方がいいと思う。楽観的に過ぎるかな。
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