「成長できない」悩みと戦う話
消化不良の毎日
私は、冴えない40代。
「このまま終わってたまるものか!!」「何とかひと花咲かせたい!!」
という野望は……
ない。
叶えたい夢があるわけでもなく、喉から手が出るほど欲しいモノもなく、現状が不満なわけでもなく、食うに困っているわけでもない。
ところが、ただのんびりと日々を過ごしていると罪悪感が募る。
「このままじゃだめだ」「もっとがんばらないと」
私には人に自慢できるような特技がない。
ちゃんとした教養も身についていなければ、新しいことの飲み込みも遅い。
根気もないから、何もやっても中途半端。
毎日、何かに追い立てられている。
いつも「何かしなければ…」と謎の焦りに苛まれている。
「時間を無駄にしてはいけない。」
「もっと有意義に過ごさなければならない。」
「もっとたくさんのことを学ばないといけない」のに、体とアタマがついていかない。
それらの原動力となるはずの強い好奇心や必要性がないから、何も成し遂げられないのだ。
本には、「成長に目を向けよ」とある。
他人と比べず、過去の自分と比較すべし、と。なるほど。
何より成長を大切にしているからこそ、成長していない自分に嫌気が差す日々が続いていた。
成長からの解放
この年齢になると、SNSでは同年代の自虐ネタが目に付くようになる。
「自分の話はつまらないと思え」「若い人は合わせてくれているだけ」「40歳をすぎたら老害」……
私は他人からどう思われているかを気にするタイプなので、こういう意見を真に受けて鬱々とした気分になることも多い。
あまりにも耳にしすぎて、とうとう爆発してしまった。
「他人の気持ちなんてわからないよ!」
自分がどれだけ他人に親切心を起こそうとも、相手が余計なお世話だと思えば私はただの「おせっかいな老害」である。
でも、親切にしなければそれはそれで「若い人に冷たい老害」と思われる可能性がある。
……エスパーじゃないんだから、そんなのわかりっこない。
相手からどう思われているかなんて気にしたところで、自分ができることなんて1つもないことに気付いた。
「自分にコントロールできないことはたくさんあるんだ」
今、20代に戻れと言われてもなれない。
東大に入れと言われても、プログラマーになれと言われてもなれない。
どんなにがんばっても絶世の美女にもなれないし、アーティストにもなれない。
同じように、努力しても成長できるかどうかはわからない。
では、すべての努力を放棄して自暴自棄になりたいかといえば、そうではない。
そんなことを考えているうちに、私には、こうありたいと思う自分の姿があることに気付いた。
自分がありたいように生きる
こうありたい自分の姿、は佇まいのようなものだ。
肩書や実績でなく、醸し出す雰囲気のような。
私は、「やさしい人になりたい」とずっと思っていた。
よくよく考えてみれば、やさしい人になりたいなら、今この瞬間に目の前の人に親切にすれば、やさしい人になれる。(相手がどう思うかは知らないけど)
私は、「誠実な人になりたい」と思っていた。
今、目の前の人に嘘をつかなければ、私は誠実な人だと言って良いだろう。
私は、「創作する人になりたい」と思っていた。
だから、今、文章を書いている。
質はさておき、何かを創っていることには変わりない。
自分が「こうありたい」という行動を続ければ、それが地層のように積み重なって私という人間を形づくる。
たくさんのやさしい行動を積み重ねたら、「やさしい人」は私の強固なアイデンティティになる。
大切なのは、達成できない未来を追いかけることでなく、成長できなかった過去を悔むことでもない。
「今、どうあるか」だったんだ。
だから私は努力を続けることにした。
私は「努力を続ける人になりたい」からだ。
そう考えると、心がスッと軽くなっていろんなことが楽しくなった。
成長しない自分にイライラして誰かに冷たい態度をとったり、やたらと自分の存在を否定することもなくなった。
そんな人にはなりたくないからだ。
私は、未来の成長に目を向けすぎて、自分がありたい姿とは違う行動をとっていた。
だからあんなに苦しかったんだ。
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