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#1 本を語るとは、偏愛を語ることである

 むしむしとした暑さが、むくむくと坂の下から昇ってくる季節になった。
 いつの間にやら春は遠く過ぎ去り気が付けば一年も半ばを過ぎ、驚くなかれ七月である。
 梅雨がまだまだ明けないせいで湿気に髪が膨張し、濡れ雑巾ばりにじっとりとした風が頬を撫でるこの暑さの中、元気にきゃいきゃいとはしゃぎながらかけっこをしている子供たちが羨ましい。かつては片手には蟬、片手にはサワガニを誇らしげに掴み野山を駆けずり回っていた私だが、いつの間にやら蝉の声など全く届かぬ冷房の効いた図書館で黙々と書物を読み漁って夏休みを過ごすタイプの人間へと成長を遂げていた。
 今では道端でひっくり返っている蝉を見つけただけで仰天して金切り声を張り上げ、挙句こちらがもんどりうってひっくり返ってしまう始末である。あまりにも情けない。情けないがこればっかりは仕方ない。蝉は爆弾なのである。蝉がまだ羽化していないこの静かな時間を今は楽しみたいところだ。
 

 さて、これくらいの季節になると「夏休み的におい」が一斉に香りだす。
 小学校の頃、ラジオ体操に向かうべく弾けるように家を飛び出して吸った、早朝のひんやりとした空気のにおい。
 町内会の納涼祭にて盆踊りなぞには目もくれず、屋台で買ったビニール剣を手に走り回って服を汚した、土埃のにおい。
 プール後にうつらうつらと眠気に包まれるなか、髪から香る仄かな塩素のにおい。
 普段は厳しい先輩が部活帰りに「先生には内緒な」といってコンビニでこっそり買ってくれたアイスバーと、夕景を吹き抜ける風のにおい。
 友人達とキャンプに出掛けて、時間を忘れて楽しんだ花火の煙と、河原の水のにおい。
 
 我が記憶における「夏休み的におい」は数多く存在する。
 その中でも一等色濃く香り立つのは、「図書館独特のクーラーと本が混ざり合ったにおい」である。夏真っ盛りの炎天下、ジーワジーワと蝉の声が降りしきる道を自転車あるいはバスで駆け抜け、目指したのはいつも図書館であった。図書館の入り口をくぐった瞬間に全身を包むクーラーの清涼感と、新しい本や発見との出会いを期待する高揚感、そしてひっそりと静まり返った静寂が相混ざり合って生み出すあの独特の「におい」は、夏休みという概念がなくなってしまった今でも夏の風物詩「夏休み的におい」として私の脳内を入道雲のようにむくむくと占領する。
 

 夏休みに行く図書館は面白い。
 
活気のある図書館はもちろんのこと、普段はあまりイベントやフェアをやらない図書館も、夏休みになるとここぞとばかりに特別な展示を施し始める。
 「自由研究特集」や「怪談ウィーク」、「“海”にまつわるストーリー」「夏に読みたい名作百選」などの色鮮やかなポップが入り口付近や特別展示エリアに現れ、それぞれにちなんだ書籍がずらりと並ぶ。私はそういった書棚の前をうろうろするのが好きだった。普段自分では目に留めることも、手に取ることもないような本たちが存在を主張して読んで欲し気に待っている。そしてばっちりと目が合った本を掴みいそいそと机に持っていってページを開くのだ。
 
 とりわけ好きなのが「図書館員のおすすめ」コーナーである。
 一冊一冊に小さなポップでおすすめどころが説明されている。冷静沈着な人柄を思わせる丁寧な字で、対照的に熱が籠ったリングコーチの如くおすすめどころを語られると、うずうずしてしまう。図書館員さんの本に対する夏にも負けないアツい気持ちが伝わってきて、もっと語ってほしくなってしまうのである。そして結果的にはその熱意に胸を撃たれ、己一人であれば興味を抱くことすらなかったであろう本をカウンターの貸し出し受付に持っていってしまうのであった。人に本をすすめられるのは、たいへん楽しい。

 だから、私はいわゆる書評エッセイやブックガイドと呼ばれるものが大の好物である。
 まず、自分が読んだことがない作品を紹介されるというだけでわくわくする。そして、語り手が愛が爆発しているとなると尚更である。語り手がどんな経緯でその本を手に取り、どんなことを思いながら読んだのか、どこを愛したのか。大いに語っていただきたい。作品の魅力、そして作品への語り手の愛に感服させられたいのである。まこと、本を愛する人は美しい。やはり、本に傾ける愛は素晴らしい。これは世の定理である。太陽が東から登り西に沈むのと等しく普遍の事実である。

 書評エッセイやブックガイドが世界に五万とあるなかで、もし「まだそういったものは読んだことがないんです」という方がいらっしゃたら、ぜひ三浦しをんさんの『本屋さんで待ちあわせ』(大和書房)をおすすめしたい。
 まず本書の「はじめに」の一言目が「一日の大半を本や漫画を読んで過ごしております。こんにちは。」である。もう、うふふふふ…とニマニマしてしまう書き出しではないか。本好きにとってこれほど最高な挨拶があるだろうか。いや、ない。もし初対面の人にこんな風に堂々と挨拶されたら「ちょいとそこいらのカッフェで語り合いませんか」と強引に手を取ってしまうだろう。
 紹介されている本も多岐に渡る。小説、古典、ルポタージュ、漫画、ノンフィクション、辞典、BLとさまざまである。これをすべて読んでいるのか!?守備範囲が広すぎる!と舌を巻くこと請け合いである。偏ったジャンルばかり好んで読んでいる私のような人間などは「参りました」と全面降伏するしかないのであった。
 『平家物語』の登場人物の名前は覚えにくい!という嘆きに共感したり、全く無知だった『東海道四谷怪談』について学んだり、中島敦の人となりや生活が気になりだしたり。読んでいると好奇心と知識欲が刺激される。紹介されている作品すべてを読破したくなってしまう語り口は私を常に唸らせる。
 しかも三浦先生、迸るパッションがすごいのである。「おわりに」で終わらずにまだまだ情熱のままこれでもか!と語ってくださっている。ありがたいかぎりである。文庫版では更に加筆されていた。合掌。
 三浦さんなら『三四郎はそれから門を出た』(ポプラ社)というブックガイドも大変面白い。こちらは私の知ってる作品が多数紹介されていて、「わかります、わかりますぞ」と我が物顔で頷きながら読んでいた。誰かに見られていたらさぞ気味悪がられたことであろう。
 
 皆川博子
さんの『辺境図書館』(講談社)もたまらない。
 思わず手に取ってしまうほど装丁も素敵なのだが、一度ページを開けば、幻想文学の沼へと読者をずぶずぶと引きずり込む魅力で満ち溢れている。この図書館の中でアンナ・カヴァンの『氷』に出会ったのだが、この『氷』という作品がこれまた私を幻想文学の沼へと…以下略。この話についてはいずれ別のところで。語り始めると永遠に#1が終わらないかもしれない。書いている間に蝉が鳴き始めてしまう。そんなのは嫌である。
 

 読む人によって喰いつく作品は千差万別、全く違うであろう。そこがいい。書評エッセイやブックガイドは著者の偏愛っぷりや個人的情熱を感じられるものが実に好きである。そしてそれを受け取る読者自身の偏愛っぷりや個人的情熱で気になる作品は違ってくるのが実に面白い。

 

 そういうわけで、私も迸る偏愛と情熱を抱きながら本について語る場が欲しい!吐き出す場をくれ!と思い、この「つれづれ耽読日記」を執筆するに至ったのである。
 …ようやく本項一番の主張に着陸できた。離陸時からとんと長い旅をしてしまった。あわや着陸地点を見失ったかと思われたが、なんとか着陸に成功しましたね、夏川一等飛空士。
 うむ、無計画に出発するのは危険だと学んだフライトだったな、うむうむ。
 己の愛する作家、作品、世界観、雰囲気が万人に愛されているか。そんなものは一切関係ないのである。ただ好きである。それで結構。己が道を突き進むことに、一生の悔いはなし。私が生い茂る藪のなか、先も見えぬ霧のなか、荒れ狂う海のなかに消えてゆこうとも、引き留めてくれるな、である。またしても着陸地点を見失いそうである、うむむ。
 
 つまりはタイトル通り、つれづれに過ごす日々の中で、本という文字の海に溺れ耽読した世界を、ひいては熱狂的偏愛と変態的情熱を思う存分語っていきたい所存である。
 これを述べたいがために長々と語ってしまった。
 大したことは何も語っていないのに何故こんなに長くなってしまったのか。しかしまた、これも日記の魅力である、と言い訳をしつつ筆をおく。 

 

 梅雨が明ければいよいよ夏が満面の笑みで駆けてくる。
 「夏休み的におい」が鼻先をくすぐったのなら、やるべきことはたった一つ。
 本を耽読し、偏愛のままにアツく語り合うことのみである。


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