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不完全な言葉(仮)

街をぶらついている時、ご飯を食べている時、仕事の帰り道、本を読んでいる時…ふとした隙間時間にぼんやり考えたり、何かしらのアイデアが浮かぶ。それはくだらないたられば話だったり、真面目なものだったりするのだけど、最近「言葉」について思ったことがあった。

結局、自分の中の伝えたいことを「言葉の中」になるだけ押し込めてるだけなのでは、ということ。

言葉にした結果、自分の中にある抽象的な考えとか感情が「言葉」という揺らぎのない記号となっていくこと。「楽しい」と「嬉しい」の間の混じり合った霧のような感情。「苦しい」とも「悲しい」とも形容できない思い。そんな自分でも掴めないぼんやりした考え、グラデーションのような淡い思いがそぎ落とされて、一つの言葉に固められていく。でもそれは別に高尚な気づきでもなんでもなくて、他人からしたら至極当たり前のことなのだろうけどはじめて1つの考えとして自分の中にうかんだ。

ありのままに近い状態で伝えようと「言葉」達を連ねていく。言葉で言葉を補完し少しでも密度の高い状態で相手に渡す。でもたくさんのそれらを重ねて伝えてもそれらは不完全でしかない。しかも人によって言葉が含む幅が異なる。相手の「楽しい」と自分の「楽しい」の範囲はきっと違う。そうして理解と小さな齟齬が同時に起こる。「分かった」と「伝わった」と思っても自分の内にうまれたままの状態を相手にそのまま渡すことは不可能でやっぱり加工してあげなくてはいけない。苦労して渡してもまたそこで相手の加工を受ける。本当の意味で、相手と「分かり合う」なんて、気持ちが「重なり合う」なんてことはできないのだと思う。

言葉のジレンマなんて大仰なことでもないけど、それに気づいたとき(例えその気づきが間違えだとしても)少し寂しいような、諦観したような気持ちになった。人類がうみだしたものなのに、言葉は、底なし沼のように深くて不思議な世界だと思う。

…これを機に言語学の本よんでみようかな…



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