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自分と世界の境界線を感じてみる。

枕草子の第一段ほどではないけれど、朝、息子の登校に付き合い歩いていると否応なしに季節を感じる。

指先がじんわりと冷たくなり、調整池にあふれるほどいた渡り鳥たちもいつの間にか姿を消し、木々の葉が色づきだして…落ち葉を踏まないように歩けるか競争しながら学校へ向かう。
いつもの横断歩道までくると「もう、いいよ」と振り返らずにすたすたと歩いて行ってしまう息子に「いってらっしゃい」と声をかけ、わたしの朝の散歩が始まる。
出勤や登校途中の人々とすれ違いながら、いつもの公園へと向かう。
天気のいい日はそれはそれは気持ちがいい。
いろいろと考えることはやめて、ただ、その瞬間を感じる。
ということを練習してみるけれど、なかなかうまくはいけない。
妄想やら煩悩やらに縛られているわたしの頭は忙しい。
そんな頭の中の自分と対話するようにわたしはわたしに語り掛ける。
いや、体に、脳に「今、わたしは息を吸っている。ただ、歩いている」なんてことを伝え、余計なことを考えないようにする。
うまくはいかないけれど、散歩が終わるころには気分がすっきりしていることが多いのでそのうち歩きながら瞑想できると信じている。

こんなことをしだして2か月ほどがたった。
先日、ふと空を見上げると、空高く枝を伸ばし、青々とした葉を茂らせている樹が目についた。
空と葉の境界線がものすごくはっきりとしているように感じた。
あぁ、これが生命の境界なんだと思った。
建物の輪郭とは違って、空と葉の境目にははっきりと生命力というのか大きなエネルギーを感じたのだ。

光合成という言葉を知ったときに、どうして人は光合成をしないんだろうと思っていた。
そんなことをふと思い出した。
難しいことはさておき、植物って生きてるんだよね。
そんなことを深く感じた。

子どものころから感じているわたしの世界観の中に、
人体は宇宙の一部に過ぎない。人は特別ではなく地球のシステムの中の一つに過ぎない。というのがある。
そう思うと感覚的に、地球と一体になれるというのか、自分が細胞の一つになって地球に溶け込んでいくような感じになれる。
何者でもなくただ一つの細胞。
ただ、そこで生きている。
言葉にするとあっけないのだけれど、ただそこに在る。
それだけでいいのだ。
そんなことを思い出した。

わたしという小さな細胞。
この世界の中を形づくるものに過ぎないわたし。
今をただ生きている。
それ以上でもそれ以下でもない。

指先から自分の体が脈打っているの感じる。
あぁ、ここにも境界線があったのだ。
わたしと世界を区切る境界線。

なんだか矛盾しているようだけれど
それもまたそれでいい。

幸せでも不幸せでも
苦しくも悲しく
嬉しくも楽しくもない

わたしは何かを感じているようで感じていない。

考えているようで考えていない。

ただ生きている。

それは驚くほど軽いものだ。

確かにあるその境界線は確かにないのだ。

世界は今日も静かに騒がしい。


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