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画面の向こうにいるあなたと

「カンパーイ」と打てば必ず誰かから「カンパーイ」と返ってくる。それが、ほんの1年前までの、私の日常だった。


わたしはビールが大好きだ。

夕食時にはビールを飲むのが習慣で、子どもたちを寝かせた後にチーズやポテトをつまみながらビールを飲むのも大好きだった。育児、在宅での仕事、そして夫の父との同居、夫への機嫌取り、何かと干渉してくる親の相手……友人らが口を揃えて「ストレスフル」だと言う環境にいたわたしにとって、それは一種の慰めだった。

一日に何十回と「ねぇママ」と話しかけてきたり、仲良くしていたと思ったら次の瞬間には泣き喚きながら手を出しかねないきょうだい喧嘩を始めていたりする、エネルギーの塊のような子どもたちを寝かしつけ、やっとひとりでのんびり酒を飲む時、常に右手にあるのはスマホ。いつからか、毎晩のように「カンパーイ」と呟くことが定番になっていた。ツイッターには、わたしと同様子どもを寝かしつけてからプシュッと一杯、二杯とやるフォロイーがたくさんいる。そんなフォロイーたちから同じく「カンパーイ」とリプが来たり、「いいね」が押されたり。そこから会話に花が咲くことも珍しくない。子育ての話はもちろん、趣味の話、今一番の推しの話……顔を合わせていなくても、盛り上がれる話題がたくさんあった。

そしてやはり、フォロイーたちも多かれ少なかれ、それぞれ家庭や育児の悩みを抱えていた。決して褒められることではないが、終わりの見えないつらさをアルコールで癒やす、似通った悩み事を持つ同士がいることは心地よかった。人は酒を飲むと饒舌になりやすく、わたしはまさにそのタイプだ。心のもう一段深いところから出る愚痴を零すことでさらにフォロイーと打ち解けることもあった。さほど有益なことを言うでも面白いことを言うでもないわたしのフォロイー・フォロワーが徐々に増えていったのは、「お酒の力」という名の「泥酔」よるところも大きいだろう。

何人かのフォロイーとは実際に会って飲むこともあった。

学生時代の友人と飲むのは楽しい。近況を報告し合い、パートナーの愚痴を言い合う。だが、お互いの状況を慮って敢えて言わない話もある。ツイッターでは身元が隠されている安心感からか、友人らには言えないことも話せてしまう。良いことだけではなく、自分の心の闇さえも。最初からわたしの汚い部分を知っている、そんなフォロイーと顔を合わせて飲んでしまうというのもまたおかしな話だが、不思議と自分を受け入れてもらえる安心感があるのだ。今やそんなフォロイーは、わたしにとって欠かせない存在になっている。遠くない未来のオフ会の予定楽しみにすることで、日々のつらさを耐えられることもあった。


しかし、十数年にわたる心身の負担により、そんな日常は崩れてしまった。

あんなに大好きだったビールが、今は喉を通らない。「カンパーイ」の呟きも消えてしまった。

酒で流し込んでいた「悲しみ」「怒り」の感情や、心と身体にかかっていた負荷は、その時は有耶無耶になっていただけで消えてはいなかった。

わたしは自分が強いと思っていたのだ。昔からつらいことがあっても何日か経てば「ま、いっか」で済んでいたし、よく親からも「立ち直りが早い」と言われていた。ジムに通ったりランニングをしたり、体力にだって自信があった。しかし、問題を根源から解決することを諦め、自分の心と身体をすり減らしていることから目を逸らし、「ストレスフル」な日常を乗り切れる自分を強いと勘違いしているだけだったのだろう。酒が与えてくれるまやかしの温かさに寄りかかりながら長い間演じていた「できる妻」も、「強い母」も、「いい子の娘」も、全て泡と消えた。

なんとかやり過ごせていると思い込んできた負荷に耐えられなくなった心身の状態は急激に悪化した。もはや酒など飲める状態ではない。驚くことに、自分でも「飲みたい」と思えないのだ。夜は眠れず、朝は起き上がるのも一苦労、気付けば涙が出てくる。何も食べる気が起こらず、体重はどんどん減り、身体は目に見えてやせ細っていく。悪循環だ。

ツイッターで「カンパーイ」と呟いている人がいても、当然何も返すことができない。いいな、楽しそうだなと思っても、そっと「いいね」を押すのが精一杯だった、いや、それすらできない日もあった。だってこちらはビールを飲めるような状態ではないのだから。


それでも、かつて乾杯したフォロイーたちはわたしを応援してくれている。一緒に乾杯できなくなっても、わたしのことを気にかけ、支えてくれている。「無理しないで」「今は休む時」「いっぱいがんばったんだから」「間違ってないよ」と温かい声をかけてくれる。そして「また一緒に飲もうね」「また会いたい」と言ってくれるのだ。傍から見れば、そんなものは社交辞令だと思うかもしれない。でも、わたしが出会ったフォロイーがくれるそれらの言葉は、偽りではないと思う。それくらいは、信じていいと思う。

今私は、壊れた心と身体を少しずつ修復している。通院もしているが、楽器やら漫画やらわずかでも好きと思えること、楽しいと思える時間を増やして自分を回復させる手段も探している。しかし、酒は飲んでいない。正直なところ、心身を崩す前は、ツイッターという仮想空間であっても「酔っぱらっているわたし」が求められていると少なからず思っていて、そんな自分を演じていたところもあるかもしれない。どこに出しても恥ずかしい自意識過剰だ。

酒は決して悪いものではない。ただ、飲み方を間違えると「百害あって一利なし」になってしまうのだろう。だから、今は頼らない。


わたしは一生ひとりぼっちなのではないか、誰からも愛されないのではないかと不安で苦しくて、涙が止まらない日もまだある。何故自分はみんなのように幸せな家庭を築けないのだろうかと卑屈な気持ちになることもある。調子がすこぶる良くなったかと思えば、無気力で過去の記憶に苛まれる日もある。一歩進んで0.8歩下がるような日々だ。

だからこそ、フォロイーたちの言葉に助けられている。崩壊した心身を完全に元に戻すのは難しいだろう。でも、時間がかかっても、新しい、元気なわたしになりたいのだ。その時は、フォロイーたちにはまたわたしと乾杯してほしい。ビールと、つまみは何にしようか。口の中に広がる塩っ気と香り高い苦みを思い浮かべ、のんびりとその日を待っている。




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