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「うふふ」のカケラを探す日々

「ああ、今日も幸せだなあ。」そう思えることがここ最近ものすごく増えた。

人にびっくりされるくらい私は日々、本当に何もしていない。朝起きる。ご飯を食べる。夫を仕事に送る。掃除して、洗濯。本を読む。映画を観る。勉強する。文章を書く。絵を描く。お菓子を作って、夕日を眺めたらご飯を作る。楽しく夫と話しながらご飯を食べて、お風呂で温まって、お酒を飲んで本読んで寝る。それが、私の1日。

もちろん仕事のある日は少し違うスケジュールだし、やることが増えたり変わったりすることももちろんあるけれど、これが基本スケジュール。

もちろん今ここまでゆるくてリラックスして過ごせている毎日は、吐きそうになるくらいハードな日々を送った過去があった上で、自分にとって大切なものを大切にする、を地道にしてきたことで手に入れられた日常。
でもそんな毎日を過ごす中で、何もしない(実際に何もしないのではなく、「誰かにとって役に立つ何かをしていない」という意味)日々を送っていていいのかと自分に問うてしまっていた時期もぼんやりと続いたのだけれど、最近はそのジレンマからも抜け、身軽な自分でそんな日々を楽しむことができるようになってきた。

ずっと家にいて飽きないの?とか、もっとやりたいこととかないの?とたまに問われることもないわけではないけれど、今の自分は毎日家にいれることが幸せで楽しくてたまらないし、今はこの暮らしがやりたいことなんだ、もしそれ以外にやりたいことができたら、やりたいことができた時に自分でちゃんとやるからほっといてちょ、と笑顔で返したい。

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貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、
無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ

これは、世界一貧しい大統領と言われた第40代ウルグアイ大統領ホセ・ムヒカ氏の有名な言葉。この言葉には(ムヒささんの言葉にはほとんど)首がもげるほどの共感しかない。

節約・家計管理・自炊・断捨離・お金の勉強が最近の私の趣味といった具合で、「どれだけ所有という負荷をなくして、本当に愛する大切なものだけに囲まれて生きるか」がテーマの最近は、なおさらこの言葉が体の髄まで沁みる。

↑過去にも何個か書いてた「足るを知る」系記事。

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実際にわたしの毎日がこんなふうになってから、1年ちょいくらいは経つのだろうか。沖縄に移住してきた約5年前から今の暮らしに徐々に近づいてきてはいたのだけれど、去年の頭くらいから夫婦2人で仕事をすることを減らし(沖縄に住んではいても2人で出張ばかりで何ヶ月もいないことも多々)、働かないではいられない夫くんに働く担当をメインでお願いするようになってから、私も心地よく暮らしを整えるをできるようになってきた。

毎日こんなふうに暮らしていると、大抵飽きてきそうなものだけれど、私はむしろその逆。
ゆっくりと、そして低刺激な毎日を過ごすことで、まず自分がだんだんと整ってくる。元気になってくる。呼吸がしっかりとできるようになってくる。
そうすると、そんな毎日の中に散らばる幸せを徐々に感じれるようになることが嬉しくて、そんな毎日にどんな「うふふ」を散りばめられるかなって考えられてるのが楽しくて楽しくて。

ああ、きっとこの感覚が足るを知っている状態なんだろうなって自分でわかる感じ。

しあわせって、むっちゃ単純。

いっぱい稼げてないとしあわせって言っちゃいけない
高い服とかオシャレな家とか高級食材とかいっぱいで
旅行にもいっぱい行けて毎日がワクワクだらけで
たくさんの欲を叶えられている状態じゃないとしあわせじゃない

そんなふうに思ってた時もあったけど、

身の丈にあった暮らしがどれだけ心地よくて
着心地のいい服を着て、自分の好きなものが詰め込まれたあたたかい家があって
今日の朝採れた美味しい野菜をシャキッとサラダでモーニング。
毎日行ける真っ青で綺麗な海がすぐそこにあって、
何より心身ともに健康で穏やかで。
寝る前にちびちび飲むワインが美味しくて。

今まで求めてきたどんな幸せより、私にとってはそれがしあわせだった。

もちろんしあわせの形も時が経てば、環境が変われば変化するものだと思うし、いろんなしあわせを感じてみるのもそれはそれでとっても楽しいけれど、今私はこの暮らしに幸せを感じることができるようになれた自分を今では誇らしく思うし、なんかもう、一生死ぬまでしあわせを感じられる自分になれた気がして、地球で生きる人間としての最強の武器を手に入れた気持ちで、ゆるゆるゆらゆら、こうして日々を過ごせているのである。

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