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記憶 -曖昧性への考察-

最近、よく悪夢を見る。

それは大抵、私が今、気にしていることだ。

夢の中でさえ夢を見られない。


現実と明らかなファンタジーが交錯していれば、それは架空であるなとわかる。

しかしながら、現実のような夢を見てしまった場合、リアルに起こった現実との境目が、混じり合ってしまうこともあるかもしれない。


その事実をそれと認識しているのが自分一人であった場合、ほかの誰も知り得ない事実の改竄は容易に行えてしまう。

記憶とは、なんとアテにならないものだろう。


まして、その時の感情などというものは、自分しか知り得ないものであって、それをどう他人に上手く説明しようとしたところで、全く同じ感情を味わうことなど出来やしない。

例えば感情の記憶が、自分にとって納得し難いものであったら、無意識のうちにその感情をすり替えてしまっているかもしれない。
時間が経てばより、あるいは経たなくても意識次第で。


私が記憶の海に潜り、掬い集めた記憶たちは、果たして真実か、私にさえわからない。

それにどれほどの価値があるというのだろう。

真実だから、価値があるというわけでもない。

もともと、他人のただの記憶に価値を見出す人など少ない。
興味深い経験にならば、あるいは価値はあるだろうが。


ならば価値は、そこから見出す考え方や、表現にならば、生まれるだろうか。


そんな考察を繰り返しながら、本当かどうかもわからない記憶を書き連ねている。
記憶をなるべく集めたあとに、届けたいものがある。
記憶に浸る時間も、あと僅かで終わる。

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