#76. 感動のある毎日に、退屈はない
目の前で見たことや聞いたことに対し、「感動」をしなくなってきたら、それは人間的に腐ってきた証拠かもしれない。
幼いころは、身の回りで起きることすべて、新しく、感動的だったはずである。
いまでも時々 SNS のタイムラインに流れてくる、「生まれて初めて雨を見た女の子の動画」を観ていると、いろいろと思うことがある。
満面の笑みで手を前に伸ばし、体全体で雨を感じようとする様子がこの上なく可愛い。
最近は毎日のように雨が降っているけれど、自分もむかしは雨そのものに、こんなに感動していたのかなあ。
彼女が雨に感動したのは、雨というものが、いままでの自分が知らない未知のものだったからだが、
この先 2 回 3 回そして数百回と、同じ光景を経験するうち、感動は薄れ、空から水が落ちてくるだけでは全く心が動かなくなるばかりか、「うわ、雨か」などとマイナスの方に振れることもある。
同じことはもちろん、雨以外のことにも言える。
若いときは自分の知らない、見たことのないものがほとんどで、毎日が感動で溢れているが、年をとるほど、自分にとって完全に新しいものは減っていき、ゆえに感動の幅も目減りする。
年齢を重ねていくことの負の側面だ。
◇
しかし、ここまで読んで、こう思った人も多いだろう。
「いや、子どもと比べて大人がみんな、必ずしも無感動な生活を送っているようには見えないし、年をとっても、いろんなことに感動している人はいますよ」
たしかに、そうである。
感動できるかどうかを、「その知識や体験が自分にとって新しいかどうか」という基準でしか見なかった場合、年々感動の幅は狭くなっていくのだろうが、
「真新しさ」の観点で見れば狭くなったはずの感動の域を、再び押し広げる要素がおそらくある。
◇
結論から言えば、その正体は「好奇心」ではないだろうか。
大人になっても、毎日感動しながら生きている人には、好奇心がある。
それは、日常のありきたりなものの中にも、「これって実はスゴいかも!」、「どうしてそうなるんだろう?」と感じ、自ら「新しさ」を見出していく心のことだ。
歳を重ねれば重ねていくほど、自分でなにも考えることなく、「それそのものとして新しいこと」は目の前に降ってこなくなるだろう。
しかし、「いまそこにある当たり前のこと」や「真新しくはないけれどちょっと面白そうなこと」を好奇心の力で掘り下げて、感動を生み出すことはできる。
数年前、「晴れているのに降ってくる雨」を表す日本語として「天泣」(テンキュウ) という言葉があると知り、いたく感動したのを覚えている。
雲がないので、まさしく空が泣いているということなのだろう。いったいだれが、こんな雅な言葉を思いついたのか。
英語にも、(一度別記事で紹介したが)「久しぶりに雨が降ったときに草花から漂う香り」という意味の petrichor という美しい言葉があり、この言葉にも心が湧いた。
自分は雨そのものには感動しなくなってしまったが、それにまつわる言葉には心を動かされたのである。
もちろん、雨の色や質の違い、雲の中で起きていることなど、そういった別の側面に面白味を感じる人もいるだろう。
いずれにしろ、真新しさがなくなってきても、好奇心ひとつで感動の数を増やしたり質を高めたりすることは、十分可能なのである。
◇
アメリカのデュオ Dan + Shay と Justin Bieber の曲 10,000 Hours の中に、こんなフレーズが出てくる。
Gotta cure my curiosity.
この好奇心を癒さなきゃ
( 1:55 のあたり)
好奇心(curiosity)とは、いちど携えてしまえばもはや、止めどなく溢れ、治療(cure)さえ必要なものなのかもしれない。
アンテナを広く、あらゆることに興味を持って、ワクワクしながら突き進む人を止めることなど、だれにもできはしないのだ。
世の中が不穏な空気に満ちて、以前のように遠くにも行けず、きのうまでと同じありふれたもので溢れた日常が続くとしても、
「なにか面白いことはないだろうか」と、好奇心を持ち、ささいなことにも感動できる心を磨く。
感動のある毎日に、退屈はない。
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