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【小説】宇宙神話(科学的神話の話)

 昼休みの社員食堂で、印刷してきた論文を広げる。

「おいおい、勉強熱心だなぁ」

 お盆を持った同僚がやって来て、向かいに座った。

「仕事には関係ないやつだよ。宇宙物理学」

 ははぁと同僚は感心とも呆れともつかない息を漏らす。

「そんな高尚な学問が理解できるとは恐れ入ったわ」

 いや、まぁ、と言葉を濁したのは、ちょっとした見栄だ。本当は論文に書いてあることの半分も理解できない。人間の五感が地球上で感じ取れる事象の範囲からはかけ離れた、頭の中の世界に再構築することが不可能な現象が宇宙を支えているということだけはおぼろげにわかる。

 門外漢の僕が飽きもせずこの分野の論文を読み続ける理由は、英文タイトルの下に記された、彼女の名前だ。



 彼女は夜行性だった。午前中の講義をすっぽかすものだから、僕はしょっちゅうノートをコピーさせてやっていた。

「なんで早起きしようとしないのさ」

 真っ暗になったキャンパスをぶらぶら歩きながら彼女に訊いたことがある。

「真実は夜にある」

 彼女は縁石の切れ目をひょいと飛び越えた。

「生命の源、恵みの太陽。だが強大過ぎる。生命を惹きつけて目を眩ませ、導き、統治する。宇宙の本当の姿を見たいなら、大地の裏側、太陽の目が決して届かない闇で目を凝らさなければ」

「何言ってるかわからないや」

 僕が笑うと、彼女は少しむっとして口を尖らせた。

「宇宙の真実に近づくには、遠い銀河の微かな言葉を捕まえないといけないんだよ。この肉体の小さな水晶体じゃ粗い光しか捉えられないけど、それでも目つめてたいんだよ」

 彼女は黒い空を見上げる。僕も彼女と同じ方向を見る。白い小さな光が点々と散っている。あの光の一つひとつが太陽のような巨大な恒星だなんて、にわかには信じられない。

「まるで神話だな」

 何気なく呟くと、「そう、神話」と彼女は嬉しそうに言った。

「私は巫女になりたい。宇宙そのものが語る創世神話を聞き取る耳と、その真理を人に告げ知らせる声が欲しい」

 彼女は星空に向かって両手を広げた。天に祈りを捧げる神官のように。



 定食を食べ終えて論文の紙を片付けようとしていたら、ポケットでスマホが震えた。通知には件名のないメール。送信者の欄で存在を主張する、彼女の名前。

 待ちきれずその場でメールを開封する。綴られているのは、論文と同じ内容の神話。筋の通った論理と精緻な数式で構築された理論の語り直し。

 それは喜びに満ちた神話だった。時間と空間が溶け合う極点、どこにもなくてどこにでもあるその時空で、形のない形が手を取り合って踊る。存在の喜びを踊る。誰にも見られないまま、踊るために踊る。

 僕はメールを大切に保存する。彼女の神話の手紙は学生時代から続いてかなりの分量になっている。彼女の語る神話をまとめて出版するのが僕の夢だ。彼女自身は「宇宙を感じられない者には見られたくない」と言っているが、もし僕が彼女よりも長生きしたらその時は許してくれるだろうか。

 彼女の神話の持つ力を僕はみんなに感じてほしいのだ。理路整然とした神秘に満たされ、途方もなく広大な宇宙の一部分として壮大な物語に加えられる楽しさを。

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