見出し画像

ヤドカリの故郷

 家の前から煙が見える距離で火事があった。

 外を歩いていると黄色がかった燃え滓が犬の背中に舞い落ちて、つまむと脆く崩れた。誰かの生活の破片を浴びているのだと思った。

 暮らしが突然に壊れてしまった経験は自分にもあるはずなのに、灰色の煙の根元で立ち尽くしているであろう誰かの痛みを感じることはできなかった。

 建物としての家は仮初のものでしかないと、多分心のどこかで思っている。

 住む場所は転々とするのが当たり前。暮らしも人間関係も度々リセットされるもの。終の住処なんて思っても、油断し切った日常の中のとある一瞬に何もかも崩れ去ってしまう。一緒に移動する家族だけが永続的なもの。そんな常識をいつの間にか身につけていた。

 生まれてからずっと同じ土地で大人になり、子供の頃から知っているものに囲まれ、子供の頃の自分を知っている人たちと関わって暮らしてきた人にとって「家を失う」ということは、自分のような流れ者の場合とは全く違う経験なのだと思う。

 それはきっと、ヤドカリが古い貝殻を捨てて新しい貝殻に乗り換えるのとは訳が違って、カタツムリが自分の身で育ててきた殻から引きずり出されるような、そういう決定的な喪失なのかもしれない。と想像する。

 ヤドカリの自分にも故郷と呼べるようなものがあるとすれば、それは祖母が20年以上暮らした山陰の土地だったのかもしれないと、祖母が亡くなって何年も経ってから気付いた。

 祖母がいた家はもうない。山陰に行く理由もなくなった。あの土地との縁は切れてしまった。実際に訪れるのは数年に一度だったとしても、またいつか行こうと思っているのと、もう二度と行けないと知っているのは同じではなかった。思い出の拠り所を失い、過去と切り離されたような感覚だった。過去が戻ってこないのはいつだって同じなのだけれど、その事実を目の前に突きつけられるのはやっぱりこたえた。

 長年住んだ家を、自分自身と分かち難く結びついた故郷を、意に反して突然に奪われた人の寂しさや不安は、その何倍も深いだろう。その悲しみと怒りに対して私ができることは何もない。せめて理解したい、だから想像するだけだ。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?