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瞑想の目的地は野生への回帰かもしれない

 たまに瞑想っぽいことをしてみる時がある。心身の健康に良さそうだしちょっとやっとくか程度の気持ちで、そんなに真剣にはやっていない。

 瞑想のやり方を調べると、浮かんでくる想念を受け流すというようなことが書いてある。想いや感情の川が流れているのを岸に立って眺めるように。思い起こされるものに吞まれることなく、追いかけることもせず、過ぎ去っていくことを許すのだ。

 野生で生きている動物たちの心はそういうものかもしれないと思う。遠い不確かな未来に想いを馳せて不安を抱いたりしない。何でもない時に過去の失敗を思い返して煩悶したりしない。今この瞬間にある感覚と感情を素直に受け取る。次の瞬間には別の感覚と感情が全てであり、前の瞬間のことを無駄に留めておかない。そんな風に見える。

 心が今この瞬間にいないことが人間の苦しみだ。脳が発達して高度な因果関係の解釈が可能になった代償に、今ここにない過去や未来の苦しみに心を囚われるようになった。過ぎ去ったことはどうにもできないし、将来がどうなるか考えても仕方がないのは、ある一面においては事実だ。だが人間は歴史から学び、意志によって未来を変えていく力を持った。今ここにいるだけでは済まなくなった。

 記憶の中の過去は歪んでいるし、未来はどうしようもなく不確実だ。過去や未来に心を飛ばすほど現実から離れていく。頭の中だけで生きることになる。地に足がつかない不安と隣り合わせに。

 確実なのは今この瞬間だけ。過去や未来は記録や記憶の中にしか実在しない。今ここに意識を置くことでしか確かさは感じられない。

 野生の意識は外側に向いている。隠れた食物を見付け、葉陰に隠れた何者かの気配を聴き、雨の匂いを察知する。存在しないもののことで思い悩む暇はない。野生でいた頃に還るひと時が、空回りする心を宥めてくれるのかもしれない。

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