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津田真道の「道」~失敗続きでも切り替える~

朝ドラの『虎に翼』では、
日本初の女性弁護士が主人公のモデル。
彼女は、日本において法学を志します。

その日本の近代法学を語る時に、
津田真道という人の存在は欠かせない。
「つだ まみち」と読みます。
(まさみち、しんどうと読むことも)

1829年~1903年に生きた人。

先日、記事を書いた「日本哲学の父」
西周(にし あまね)と
セットにされることが多い人物
です。
※本記事の下部のリンクから記事をぜひ。

というのも、西周と津田真道は、
職場が一緒、留学したのも一緒で、
帰国後に参加した組織も一緒…という
「生涯の盟友」のような存在だから。

ですがこの真道、知名度がいま一つ…。
美作国津山藩(今の岡山県津山市)出身、
しかも幕府に仕えた経歴の人。
明治時代の主流派にはなれなかった。

ただ、明治時代の近代法学の歩みには
この人の存在は欠かせない。
なぜなら、それまでの日本で
馴染みのなかった『欧米の法律学』を
日本に広めた人だからです。
西周が『日本哲学の父』なら、
津田真道は日本の法学の土台を作った人!

本記事では幕末~明治を生きた法学者、
津田真道を紹介します。

1829年、美作国の津山藩の生まれ。
津山市は岡山市から北上したところ、
中国山地の盆地にある街です。
(ちなみに西周は津和野出身で、
こちらも中国山地の盆地の生まれ)

西周とはタメ。同じ年の生まれです。
彼の実家は津山藩の「御料理人本役」

料理人の家だったんです。
江戸時代では家の存続が何より重視される。
16歳の時、家業を継ぎ「御料理人」になる。

…しかし真道、なんと
18歳の時、御料理人としては不器用だ、
という理由で「廃嫡」されるんです。
悲しい出来事…!

ですが、捨てる神あれば拾う神あり。
学問の才能を買われて、藩の儒学者の
助教(助手)になります。

(もっとも廃嫡された後にすぐに
助教に起用されていることから、
「不器用」はいわゆる方便であり
人材登用の口実だったとも言われます


食材を料理するのではなく、
学問を料理する道へ進む…。

1850年、21歳頃に藩を出て江戸に出ます。
同じく津山藩出身の蘭学者、
「箕作阮甫(みつくり げんぽ)」に入門。
伊東玄朴、佐久間象山にも学ぶ。

儒学(朱子学)だけではなく、
蘭学も学ぶ。国学も学んでいた。
儒学・蘭学・国学! これらの学問を、
当時一流の学者の下で学んでいく。

さて1853年、彼が日本にやってきます。
ペリーの黒船来航です。

血気盛んな若者、自称志士たちは
「尊王攘夷」の道へと走りました。
スリルとサスペンス、血塗られた道。
しかし真道は走らない。
なぜなら「蘭学」を学んでいたから。

1857年に、転機が訪れます。
前年に幕府が「蕃所調所」を開設。
師匠の箕作阮甫が首席教授になった。

…ペリー来航以降、幕府は蘭学だけでなく、
諸外国の文献を翻訳させ
「洋学」を充実させる必要を痛感していた。
そのためにつくったのが蕃書調所です。
現在の東大や東京外大の源流の一つ。

ここには、盟友である西周のほか、
村田蔵六(後の大村益次郎)や
松木弘安(後の寺島宗則)など、
当時の蘭学・洋学系の
専門家たちが集結していました。

津田真道は師匠の箕作のお手伝いになる。

1862年、さらに転機が訪れます。

彼は西周と「留学の必要性」を
説いていたんですが、それが実現するんです。
メンバーに選ばれてオランダへ!
(留学仲間には榎本武揚もいます)

このオランダで出会ったのが、
フィッセリング教授です。
彼は津田真道や西周に
「国を治める方法の基本」として
「自然法」「国際法」「国内法」
「経済学」「統計学」などを教授。
この人、後の1879年には
オランダの大蔵大臣にも就任している。
ただの学者ではなく実践家でもあります。

1866年、帰国した津田真道は
西洋法学の国内法を
翻訳して本にしていきました。
『泰西国法論』。
これが「日本初の西洋法学の紹介本」
とも言われます(刊行は1868年頃)。

1867年に「大政奉還」…!

この時、盟友の西周とともに
徳川家中心の憲法私案を作成。
しかし「最後の将軍」徳川慶喜は、
薩長中心の明治新政府に恭順、
政治の表舞台から去っていく…。

こうして後ろ盾の幕府は無くなりました。

ですが、藩を捨て、しかも留学して、
フリーダムな考えを持つ真道です。
国学も学んでいたために、
「尊王」の考えもしっかり持っていた。

こだわらない。切り替える。
彼は明治新政府に出仕します。


司法省で新しい刑法の編纂に参加する。
1869年には「人身売買禁止」を建議する。
その後、実力を買われて
日清間の「条約締結」の副使になったり、
陸軍省で「陸軍刑法」を作成したりする。
「条約や法律なら津田さんだな」
次第に、法曹界の重鎮になっていく…。

1890年には第1回衆議院議員選挙に
立候補して当選。
「初代衆議院副議長」に就任、
後に男爵、貴族院議員、法学博士にもなる。

…このように公職で活躍する一方で、
啓蒙活動も行いました。

1873年、明治六年に「明六社」結成!
福沢諭吉や森有礼、西周、
さらに津田真道も参加していた。

「欧米の思想を世に広めることで
人材育成をしようとした」会です。
津田真道はこの「日本初の学術団体」の
雑誌である『明六雑誌』の中で、
活発に論文を発表していたのです。

…ただ、この明六社、
フリーダム路線だったため、
1875年の「新聞紙条例」などに
ひっかかってしまいます。
雑誌は廃刊、事実上の解散になる。

1874年に板垣退助たちが
「民選議院設立建白書」などを出して
自由民権運動が起こった頃です。
政府も言論活動を警戒していたのでしょう。

逆に言えば、このような
「民間での活動」が封じられたため、
津田真道は政府での仕事に邁進、
いざ衆議院ができた時に
議会で活動できた、とも言えます。

1903年、死去。
同じ年に生まれた盟友、西周も、
1897年に亡くなっています。
二人の生涯は、ほぼ重なり合っている。

最後にまとめましょう。

本記事では、津田真道の
キャリアについて紹介しました。

◆御料理人の家に生まれるも廃嫡される…
◆幕府の命で留学するも大政奉還になる…
◆明六社に参加するも廃刊・解散になる…

その一生は成功続きではない。
むしろ、時代の流れに翻弄されがち。

しかし、彼は切り替える。
「近代法学」に活路を見出して、
自分の力を蓄え、少しずつ実践して、
世の中のために使っていった
のです。

この私も、決して成功続きではなく、
今でもそうではありません。
ですが慌てず、自分なりに自分の力を
表現していこう、と感じました。

読者の皆様はいかがでしょうか。

どんな「道」で実力を発揮していきますか?

※「知は海より来たる」
中国山地の盆地にありながら、
津山は「洋学の町」でもあります↓

※津田真道の生涯の盟友「西周(にしあまね)」
についてはこちらの記事をぜひ↓
『「西周」という橋渡し ~日本哲学の父~』

note版はこちら↓

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