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WBC決勝の前に砂押美穂さんの記事を読み、感銘

(WBC決勝戦の直前にリンクトインに
投稿した記事を転載します)

侍ジャパンの皆様の一挙手一投足に
一喜一憂、上がったり下がったりの感情で
メキシコとの準決勝を観戦された方も
多いのではないでしょうか?

私も、その一人です。
ええ、一球目から見ていました。

「佐々木投手被弾」「源田選手の1ミリ」
「吉田選手の111メートル」、
「ノーヘルダッシュオオタニサン」
そして
「村神様おはようございます」など、
これほどまでにドラマが詰まった試合も
なかなかなかったのではないか。

「源田たまらん背面捕球」
「何気に世界の山田チャンスメイク」
「さりげなく犠牲フライの山川選手」
「大城捕手も取れないキレキレ大勢」
「またレフトフライ、なにその真顔」
「英語でアメリカ実況席ヌートバー」
など、
マニアックなシーンもありましたが…)

さて、本記事では、マイアミの歴史と地理を…
と思いましたが、はい、昨日すでに書きましたので
(よろしければリンクからぜひ)

今回はある投稿をご紹介します。
砂押 美穂 さんのご投稿、です。

リンクから飛んでぜひ、
実際の本文をお読みいただきたいのですが↓

高校の野球部に入った息子さんが
帰省したので、会話をした
、というエピソード。
寮生活、野球部での練習、とても辛そうで
心配する砂押さんが、息子さんに尋ねたのですが、

当の息子さんは、充実している、と言って
そんなに気にしていなかった様子とのこと。
息子さんの辛さを引きずっていたのは、
砂押さんだった、と書かれています。
ほんの一部だけ、引用をお許しください。

(ここから引用)

『問題や苦難は「乗り越える」
ということではなく、
辛い思いや苦しい気持ちを感じながらも、
今ここに在るもの1つ1つに向き合いながら
一歩一歩と進んで行った時に、
「気がつくと通り過ぎているようなもの」
なのかもしれないと、息子を見ながら
そんなふうに感じていたのでした。』

(引用終わり)

気がつくと通り過ぎているようなもの。

私は、このフレーズを二度、三度と
かみしめました。
とても、味わい深い文言です。

一人の人間の人生には、さまざまな人の
感情と行動が交錯していきますよね。
ずっと関わる大事な人もいれば、
期間限定で関わる人、
ほんの一瞬だけすれ違う人もいます。

みんな、自分の人生の中で、
主人公として生きている。

誰かの人生の中では、脇役なのです。

周りにとってはやきもきし、辛いだろうと心配し、
一喜一憂、自分ならば…と思ってしまうことでも、

もしかしたら当人にとっては
他の大きな充実感によって打ち消され
通り過ぎていくような小さな問題
、かもしれない。

逆も、もちろん言えます。
はたから見れば小さなことでも、
その人から見れば大事件
、かもしれない。

何を見せるか、何を見せないか、にも
よってくるかもしれません。
もしかしたら、息子さんは母親を心配させぬように
あえてそう答えた、のかもしれない。

ただ、仮にそうだとしても、
この息子さんの回答に砂押さんが、

子どもの成長を感じ、
彼なりに何か収穫を得ているのだと思い、
その恵みを喜び、
それを少しだけほろ苦い想いで投稿記事を書かれた、

ということは、ありのままの事実だと思うのです。

ご投稿に添えられた「ふきのとう」の新芽画像が、
滋味に溢れ、ほろ苦いその風味を
味わっている砂押さんを連想させました。
深い雪の下で芽を出す日を、
ずっと待つ、ふきのとう。

以上、とても、良い記事でしたので、
WBC決勝の日に、紹介させていただきました。

ここから派生させて書くならば、

侍ジャパンの皆さんも、決戦の地に立つまでに
限りない苦難と葛藤と練習と
それを上回る充実感を味わいながら
いま、そこに立っている
、と思います。

スポットライトを浴びる人は、限られている。
でも、その周辺の暗いところ、
見えないところには
たくさんの人の想いと努力がある。

不振にあえいでいた村上選手も、
はたから見れば苦難のどん底で、
もし他の人が自分ならば
メンタルが耐えられない…という
状況だったのかもしれませんが、

実は本人の中では、すぱっと
切り替えていたのかもしれない。
何しろ、重圧を越えて三冠王を取った選手。

彼につないだ大谷選手、吉田選手の鼓舞であったり、
今回出場できなかった鈴木誠也選手の
愛のある応援動画投稿であったり、
信頼してずっと起用した栗山監督であったり、

そういうものに支えられた、のかもしれない…↓

そんなことを考えつつ、
決勝に向けて心中からエールを
改めて送っていこう
、と思いました。

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