見出し画像

本記事では、100年ごとに分けて、
北アジア・中央アジアの歴史
私なりに取捨選択して書いてみました。

◆600年頃:聖徳太子(厩戸皇子)登場
◆700年頃:律令政治
◆800年頃:平安京に遷都
◆900年頃:白紙に戻そう遣唐使
◆1000年頃:大河ドラマ『光る君へ』の頃
◆1100年頃:「院政」の開始
◆1200年頃:鎌倉幕府の誕生
◆1300年頃:鎌倉幕府の衰亡
◆1400年頃:いざ国まとめる足利義満
◆1500年頃:意欲に燃えるコロンブス
◆1600年頃:関ヶ原の合戦

上記の項目に分けて書いた
以前の「日本史」の記事と対比させてどうぞ!

◆600年頃:テュルクの隆盛

中国の「万里の長城」は
遊牧民たちの侵略を防ぐためにつくられた。
歴代の中国王朝は「北の脅威」を
防ぐことに神経を尖らせてきました。

中国の「隋」「唐」の頃。
「突厥(とっけつ)」という国が
中央アジアを支配します。
突厥とは中国の漢字表記であり、
「テュルク」と呼ばれていたようです。

(これはだいぶ先の話ですが、
このテュルク系民族がイスラーム世界で
軍人奴隷「マムルーク」として活躍。
後に西アジアで「オスマン帝国」を建てる。
「トルコ」は、元は、テュルク。
東西に大きく影響を及ぼした民族です)

◆700年頃:オルホン碑文

東の唐王朝は、強大になります。

唐の二代目皇帝、太宗李世民は
630年に東突厥を討ち滅ぼし、
中央アジアを支配した。
ゆえに、三蔵法師こと「玄奘」も
シルクロードを通ってインドに行けたのです。
この旅の記録が『大唐西域記』
(後に「西遊記」の元ネタになります)

683年、反乱を起こし東突厥は再独立。
唐の玄宗は、この東突厥の王(可汗)に
文章を送っています。
突厥文字の「オルホン碑文」に書かれている。
北アジア民族が自分たちの文字で残した
最古の記録、とも言われています。

◆800年頃:東西帝国の激突

751年、東の大帝国「唐王朝」と
西のイスラームの「アッバース朝」が
タラス河畔で戦いました。
現在のキルギスのあたり。

唐軍は、甚大な被害を受けた。
捕虜の中に製紙職人がいたと言われており、
イスラーム世界に紙の作り方が伝わる。
(それが回り回ってヨーロッパに伝わり、
後に「活版印刷」で紙の本が作られていく…)
この戦い以降、中央アジアには
イスラーム勢力が広がりました。

◆900年頃:ロシアの起源

北西でも動きがあった。
九世紀末「ノルマン人」と呼ばれる
北方のゲルマン人(ヴァイキングとも)の
ルーシ(ルス)族が、ノヴゴロド国をつくった。

このルーシこそ「ロシア」という国名の起源。
その一族が882年、キーウ(キエフ)占領、
「キエフ公国」も建国されます。
今のウクライナのあたりです。

◆1000年頃:宋と遼の和平

さて、中国の北の情勢は、
歴代王朝の強弱によって変わります。

10世紀の中国は、907年の唐の滅亡後、
「五代十国時代」になる。
その混乱の時代、中国北部には
「遼」という強い国が出現します。

五代十国を終わらせた「宋」王朝は、
この遼と対決。
…しかし宋は軍事力があまり強くない。

宋の六代目皇帝、聖宗は
1004年に「澶淵の盟」を結んで懐柔。
莫大な額の絹と銀を遼に贈ることによって
北方の平和を保つことにした
のです。

◆1100年頃:金と南宋

その遼を滅ぼしたのが「金」です。
満州の女真族たちの国。

宋は金と結んで遼を滅ぼさせ、その後
遼の残党と組んで、金を倒そうとする。
この企みが察知された!
1127年、金の攻撃により都の開封が陥落。
皇帝の弟は南に逃げて「南宋」をつくります。

◆1200年頃:モンゴルの時代

その金と南宋も滅ぼされる。
1206年にモンゴル高原を統一した
チンギス・ハンの後継者たちによって…。

13世紀は「モンゴルの時代」!

1218年、中央アジアのナイマンが滅亡。
1231年、西アジアのホラズムが滅亡。
1234年、金が滅亡。
1240年、西でキエフ公国が滅亡。
1241年、東欧でヨーロッパ諸国の軍勢と戦う。
1279年、南宋が滅亡。
(日本にも海を渡って攻めてくる)

すべてモンゴル帝国&元王朝。
東を押さえ、真ん中を固め、西を攻めた。

◆1300年頃:モンゴルの分裂

このモンゴル帝国も、じきに分裂する。
遊牧民の国は、優れた指導者が死去すると
分裂しがちなのです。

…1295年、アジアの各地を旅して
欧州に戻ってきたのがマルコ・ポーロ
旅の様子を『東方見聞録』にまとめた。

この頃、分裂の間隙を縫って
ロシアに登場したのが
「モスクワ大公国」なのでした。

◆1400年頃:キプチャク・ハン国の弱体化

当時のロシアを支配していたのは
チンギス・ハンの末裔たちの
「キプチャク・ハン国」

ただ、1400年頃になりますと、
西からリトアニア大公国、
東からはティムール帝国に攻められて、
弱体化していきます。

◆1500年頃:くびきからの脱出

1480年、モスクワ大公国が支配から独立!
キプチャク・ハン国は1502年に滅亡。
大公国のイヴァン三世は、
1453年に東ローマ帝国が滅亡したため、
その皇帝の権威を継承していました。

約240年も続いたモンゴルの支配を
「タタールのくびき」と呼びます。
くびき、とは牛や馬の首につける道具。
ロシア諸侯は、押さえつけられていた。
そこから自由になる…!

(ただ近年の研究では、モンゴルの支配は
間接支配に過ぎず、反逆さえしなければ
平和を享受できた、という説もあります)

◆1600年頃:恐怖の雷帝の後

モンゴルからの支配が無くなった後、
モスクワ大公国のイヴァン四世は
1547年、正式に「ツァーリ」と称します。
ツァーリとは「皇帝」です。

イヴァン四世は、雷のような圧政、
恐怖政治を展開した苛烈な君主!
農民の逃亡を禁止したため、
農奴と貴族の格差が広がる…。
彼は「雷帝」という異名を受けました。

…強烈な指導者が去った後、国内は混乱。

1613年、混乱を収めるべく会議が開かれて、
ミハイル・ロマノフ
新たなツァーリに選出されました。
ロシアの「ロマノフ朝」の始まりです。

最後に、まとめます。

本記事では北アジア・中央アジアの歴史を
私なりに取捨選択して書きました。

この後、ロマノフ朝のロシアは拡大します。
シベリア、満州近辺、果てはアラスカ…。
モンゴル帝国は、東から西へ広がった。
逆にロシアは「西から東へ」と広がっていき、
中国の「清」や日本と国境を接する。
1917年のロシア革命まで、
ロマノフ朝は約三百年も続く。

中央アジアの遊牧国家も、モンゴルも、
大国ロシアの影響を受けざるを得なくなります。
その構図は、現在でも変わっていません。

ぜひ、読者の皆様も、
ご自身なりにまとめてみてはいかがでしょうか。

※漫画『天幕のジャードゥーガル』を読むと
モンゴル帝国の雰囲気がよくわかりますよ!↓

※ロシアやカナダは
「毛皮」を求めて拡大していった、
というお話もあります↓

※100年ごとの他の地域の歴史はこちら↓

◆『100年ごとの日本史』↓

◆『100年ごとの中国王朝史』↓

◆『100年ごとのヨーロッパ史』↓

◆『100年ごとの西アジア史・南アジア史』

合わせてぜひ。

よろしければサポートいただけますと、とても嬉しいです。クリエイター活動のために使わせていただきます!