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「さわる」と「ふれる」は似ていながらも、
ちょっと違うニュアンスです。

どちらも『触』という漢字を当てます。
「触る」と「触れる」。

ただ「さわる」には「障る」という
漢字を当てることもあります。
気に障る、目障り、そんな時に使う。
『さしさわりがある』という意味です。

「ふれる」も良い意味で使うこともあれば
あまり良くない意味で使うことがある。
「ふれあい」と言えば
交流し合う、良いイメージ。
しかし「法に触れる」など、
「何かの一線を越える」という表現にも使う。

…いずれも一筋縄ではいかない言葉ですね。
必ず良い、必ず悪い、とはいえない。
さわったりふれたりすることには
メリットもデメリットもあり得る…。

本記事はこの「さわる」と「ふれる」の
言葉の意味を考えてみます。

「さわる」とは意識的で能動的な行動です。
何かに接触する。手で触ってみる。

一方の「ふれる」はどちらかと言えば
勝手に触ってしまう、
偶然にも当たってしまう、

というニュアンスが含まれます。

漢字の『触』も難しい。

さわるもふれるも「手」が関係するのに
「てへん」ではない…?
「角」に「虫」と書きます。

旧字では『觸』と書く。角に蜀です。
『蜀』とは「三国志」に出てくる国名でも
ありますが、
「いもむし」「あおむし」という意味もある。
大きい目の虫、という漢字。

一説によれば、蜀の地は昔から絹の産地で、
「養蚕」が盛んに行われていました。
蚕(かいこ)は葉っぱを食べる。
いもむしやあおむしは、むしゃむしゃと
葉っぱを食べ尽くすまで
葉っぱから離れない、接している。
そこから「觸」という漢字ができた…。

あるいは、角がどんどん伸びていく。
知らず知らずのうちに当たる。
接触する、触る、触れてしまう…?
そんな意味合いもある漢字。

いずれにせよ、何かに「接する」という
意味が強い。この『觸』が『触』になった。

一方、英語ではどうでしょう?

コンタクト、contactという言葉があります。
コンタクトレンズは文字通り、
「目に直接『接触』しているレンズ」です。

元々はラテン語のcontactusで、
「触れること」から来ているそうです。
さらにさかのぼれば
「con=共に」「tangere=触れる」
つまり「ふれあい」から来ている…。

ビジネスで「人とコンタクトを取る」と言えば
コンタクトレンズを目から外す、ではなく、
「接触する」「交流を図る」
そんな意味で使われる。

「…日本語、漢字、英語、それぞれで
『接する』とか『交流する』とか
そんな意味の言葉があることはわかりました。
良い意味も悪い意味もある。
それで、何が言いたいのですか?」

実は私は、さらなる情報化社会に向けて
この「さわる」と「ふれる」の
バランスが、今まで以上に
重要になってくる
と思っているのです。

「ふれる」という言葉から、私は、
「おふれ」という言葉を連想します。
「お触れ」と書く。

これは権力者から『決まり』を
「一方的に伝えられる」ようなものです。
例えば江戸時代、
幕府や藩から庄屋や名主などに伝えられ、
そこから自分の管轄の町人や村人たちに
読み聞かせなどして遵守させる。

もしくは「御触書」が
書面や高札になって立てられて、
一方的に明示される…。

日本以外、例えば古代エジプトや
ヨーロッパ諸国では、
『クライヤー』と呼ばれる人たちが国王の
発布する法令を「触れ回って」いたそうです。
クライヤー=叫び屋。
ベルを鳴らしながら叫び回ったので
「ベルマン」と呼ばれることもある。
日本語では「触れ役」とも訳される。

昔のことですから、
識字率は高くはありません。
音声で「触れ回る」ことで
街にニュースやルールを知らせて回った…。

ただ、ツールや技術が
発達していくにつれ、
クライヤー、庄屋や名主は姿を消していきます。
学校制度で識字率も上がっていく。
「個人が直接」情報に触れるようになる。

代わりに触れ回ったのは何か?

…「新聞」であり「ラジオ」であり
「テレビ」や「週刊誌」です。
ただこれも、一方通行的に
情報を伝えられていた。
テレビの向こうは「触れない」し
「触れることができなかった」のです。

このような状況が、
つい最近まで続いていました。
そうですね、1990年くらいまで。
しかし、現在はどうでしょう?

90年代、一気にPCが普及していき、
2000年代からはスマホやSNSが
どんどん普及していきました。

「一方通行」から「双方向」へと、
通信の方法が変わってきている
のです。
「ネット上でのラジオ」も生まれていきます。
一方的に伝えられるだけではなく、
相互交流的に、取捨選択しながら
聞き手のほうからも「ふれあい」ができる!

ただ、だからこそ、

「さわる」や「ふれる」時には
注意が必要になる
、と思うのです。
いわゆるSNSリテラシーが。

なぜなら、デジタル上の交流は、
実際に「ふれあう」わけではない。
言葉などを媒介にするしかないから。

あまりにベタベタと絡んでしまったり、
営業DMを「数撃ちゃ当たる」したり、
現実の会社の役職などをひけらかしたりすると
相手の気に障ります。

自分では友好的な「ふれあい」のつもりでも、
相手にとっては痴漢されているような
嫌なことだと捉えられることもある…。

ましてや、直接には体温の感じられない
ドライな電子上の文字です。
断片的な言葉を媒介にしたコミュニケーションは
誤解や曲解もされやすい。
ゆえに「炎上」してしまうこともあります。

…しかし、LinkedInにおいては、
あまり炎上することがありませんよね?
なぜでしょう?

それは一人一人のユーザーが自分の
プロフィールなどを詳しく書いて、
(もちろん障りがある所は隠したりして)
「手触りのある」「人間らしい」SNS
なっているだからだ、と私は思います。

DMで直接のやり取りもできる。
実際に会うことにつなげることも可能です。
相手の「体温」を感じられる…。

ファンタジーなアカウントばかりの
SNSでしたらなかなかこうはいかない。
相手がよくわからない。
中には「ゾンビ」もいる。
誤解や曲解や針小棒大が生まれやすい…。

もちろん、LinkedInにおいても
感情を持つ人間が使っていますから
「気に障る」投稿やコメントをしたら
「目障り」だと怒らせることもあり得ます。

そこは現実世界と同じです。
お互いに節度とリスペクトを持った運用が
必要だ…と思うところです。

最後に、まとめます。

本記事では「さわる」と「ふれる」から
双方向の「ふれあい」につながる
SNSの交流について書いてみました。

さて、読者の皆様のスタイルは
どのようなものでしょうか?

一方的な「御触書」のスタイル?
それとも「ふれあい」スタイルですか?
実際の職場では、どうですか?

皆様の目的に即して、大きな視野で、
気になるどなたかと「コンタクト」
取ってみてはいかがでしょう?

※1960年にはすでに現在のネット社会に
つながる種がまかれています↓
『リックさんのアップルシード ~ネット社会の種~』

※1973年には「弱い紐帯」という
広くて浅いつながりの強みを
主張する仮説があらわれました↓
『弱い紐帯の強み ~Mark Granowetterの仮説~』

※SNSによってつながり方と
特徴が変わっていきます↓
『3つのSNSの比較 ~その起源と想いとカラー~』

※2000年代頃からSNSが普及していきました↓
『どのSNSに注力するか? ~4つのSNSの起源~』

合わせてぜひどうぞ!

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