枕経

どうにもしようのない隕石が落下して、みんな一緒に滅亡出来たら最高だ。

理想とか夢を聞かれたら、そんな風に内心では答えは常に決まっている。

けれども、本当の事を言ってはいけないのが世の常だから、そういう風に答えた事はない。

当たり障りなく、夢や理想なんてやくざなものはありません、と常識的に答えるのが関の山だ。

けれども、常識が通用しない場合も多いのが社会というものだから、良識をもって嘘をつく場合も多い。

だから、誰も軽んじられる事のない世界、という様な社交辞令を取り出す機会の方が、実際には多かったかも知れない。

言い回しの僅かな違いこそあれ、三つとも、言っている内容に大差はないのだから、嘘と言うのは大袈裟か。

内心のポジティブさに比べたら、社交辞令は、一見ネガティブに見えるかも知れないけれども、そんなに現世を悲観している訳でもない。

尤も、夢や理想なんて聞かれる事は、加齢と共になくなるものだから、そういう回答案自体に、昨今は出番がなくなった。

代わりに、老後の設計、なんて訳の分からない事を問われたりするので困る。

老後なんて、三十歳過ぎたら人間、等しく老人でしかないのだから、誰しも、老中を生きるだけだろうに。

老の後があるなんて不死身じゃあるまいし、それとも、あんた火の鳥なのかい?

と言ったら嫌がられそうだから、先の事はケセラセラです、とまた言い換える。

そのくらいの社会適応能力はあるのです、これでも。

実際、そうでも考えなければ、後期高齢者になったって、老後の心配が絶える事なんて一ミリもありはしない。

きっと、老後という言葉の真意は、明日どうする、くらいの意味なのだろう。

今夜の寝床に明日の食扶持。

一大事は、年齢など問わず、それ以上でも以下でもあり得ない。

そんな風に淡白に考えられるのも、全く、子供がいないからだ。

独身だからだ。

凡そ家庭に責任がないからには違いない。

子供がいるのは正義だ、とつくづく思う。

そして、正義が正義を振りかざすと問題になるのが当世の変わった気質でもある訳だから、代わりにこちらから言ってやらねばなるまい、というくらいの使命感も持ち合わせてはいる。

人の親のやる事ならば、多少の悪事は許されたってよいだろう。

そのくらい、子供があるというのは、絶対的な事じゃあないか。

親になるという役回りを引き受けた人々の事を、決して軽んじない方がよい。

だから、妻帯する僧侶が増えた問題だって、あまり糾弾する気になれないな。

解脱より輪廻でしょ、やっぱり。 

枕経を上げに来た若いぼんさんが、今日は子供の事で奥さんと喧嘩した、なんて愚痴を言って帰って行ったから、いつも話が長いんだけどその日は面白かった、という話を聞いて、とても尊い事だなと思ったので、書き留める。

まぁ、それだけの話です。

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