密やかに

取り留めもなく、思い付くままに、書き捨てて、聞き流し、目を逸らす。 読む事に比べたら、書くという事は、とても容易い事だと思う。 でも、書くのも、やっぱり難しかった。 大切にしてる人と作品:小林秀雄 ハイドン 赤と黒 サロモン・ライスダール 夏目友人帳 女王蜂 石橋蓮司

密やかに

取り留めもなく、思い付くままに、書き捨てて、聞き流し、目を逸らす。 読む事に比べたら、書くという事は、とても容易い事だと思う。 でも、書くのも、やっぱり難しかった。 大切にしてる人と作品:小林秀雄 ハイドン 赤と黒 サロモン・ライスダール 夏目友人帳 女王蜂 石橋蓮司

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    今日の自分を否定する者は、誰より明日の私であって欲しい。 そういう素朴な欲望が、僕にnoteを書かせている訳だけど、考えてみたら、これ以上の自己肯定感というか自己愛ってないよね。 ほんと自分本位で傲慢な奴だな、と思う。 でも、その位には己を信用しなくちゃ、却って嘘じゃない?

      • シューマンのヴァイオリン・ソナタ

        シューマンのヴァイオリン・ソナタも、前回取り上げたヴァイオリン協奏曲同様、多少なり録音は聴いて来た方ではないかと思っている。 そして、大概の録音は、やっぱり、そこまで好きじゃない。 今更ながら、今日、聴いたのは、エリザベス・ツォイテン・シュナイダーのヴァイオリン、ウルリク・ステアクのピアノによるソナタ全集。 フローリアン・メルツがシューマンの交響曲好きには著名な存在である様に、この録音もシューマンのヴァイオリン音楽が好きな人には、よく知られた一枚。 原盤は入手至難とな

        • シューマンのヴァイオリン協奏曲の決定盤?

          クーレンカンプの歴的な録音から割かし最近のものまで、シューマンのヴァイオリン協奏曲の録音は、それなりに聴いている方だと思うけど、シュニーベルガーの独奏、メルツ采配の録音を今更ながらに聴いて、感動している、というか、呆れている。 フローリアン・メルツは、名の知れた指揮者ではないけれども、シューマンの交響曲が好きな人にはお馴染みの人で、相当にユニークな全集録音を完成しており、面白さでは類例なく、下手物と言うには案外に芯を食っていて、けれども、やっぱり無理筋じゃねぇ、って感じが好

          • 三鷹から高松へ引っ越して、何か生活が変わったかと言えば、演奏会に足を運ぶ機会が微増した。機会が少ない方が、逃したくない、という気持ちが強く働くらしい。逆に住んでしまうと観光は後回し。四国は一番旅行してみたかった地域なのにね。こういう性格は、きっとチャンスを沢山逃がすんだろうな。

            最高に能天気な音楽を

            聴きたい時には、ドラランドのサンフォニーが好い。 人によっては、最高に高雅な気分になれる音楽。 ドラランドは、リュリに替わって、ルイ14世から寵愛を受けた作曲家で、一連のサンフォニーは、太陽王の晩餐の為の音楽として作曲された。 考えようによっては、サティの家具の音楽を先取りしている様にも思えるけれども、晩餐の公開が政治であり戦略であったルイ王朝にあって、往時としては絢爛な大管弦楽は、それ自体が、ある種の主役というか、言葉によらないプロパガンダであったと見てもよいかも分か

            音楽の孫の五従兄弟

            ヨハン・ルートヴィヒ・バッハという人がいる。 マイニンゲンで宮廷楽長を勤めた大バッハの遠戚で、ヨハン・セバスチャン・バッハとは三従兄弟、八親等の関係にあると言われているのだけれども、正確な系譜が解明されているのかは分からない。 この人の音楽を、大バッハは高く評価していた様で、かつては、誤ってセバスチャン・バッハ作と認定されていた作品もあった。 そもそも、バッハが所有していた楽譜によって、ルートヴィヒ・バッハの音楽は辛うじて今日に伝わったという面が大きかったから、多くの作

            音楽の孫

            音楽の父である大バッハ、セバスチャンには、子供が20人おり、その内、4人の息子が音楽家として活躍した。 上から、フリーデマン、エマヌエル、クリストフ・フリードリヒ、クリスティアン。 一番才能に恵まれたものの、溺愛された為か、将来を嘱望された為か、人格的に難しい面があったらしく、何かとエキセントリックなフリーデマン。 最も音楽家として大成して、洋楽に新しい時代を築く礎となった、知性派にして革命家のエマヌエル。 ある種、ドイツ土着の音楽一家であっあバッハ家にあって、唯一、

            瀬戸フィルハーモニー交響楽団

            休日の朝に寝坊して、けれども、特に予定もなければ慌てる事もなく、緩やかに時をやり過ごす気だるさは、いくらかの心地よさすら孕んである。 瀬戸フィルハーモニー交響楽団の演奏はそんな感じがした。 良い演奏であったのかは分からない。 ただ、いくらかの心地よさに身を委ねる事が出来たから、聴きに行けてすこぶる好かった。 ~~~前半~~~ メンデルスゾーン:序曲『フィンガルの洞窟』 イベール:フルート協奏曲 ~~~後半~~~ メンデルスゾーン:交響曲『イタリア』 独奏:上

            映画『桜色の風が咲く』

            映画『桜色の風が咲く』の二度目を観に行った。 一度目は、昨年、吉祥寺のアップリンク。 今回は、高松のソレイユで。 前回観た時に、多少気になった欠点みたいなものが、今回はすっかり消化出来てしまって、思っていた以上に、泣かされてしまった。 全盲聾者を描いた映画ではあるけれども、障がい者の映画という感じはなくって、もっと本質的に映画であったと思う。 否、もっと本質的に人生であったのかも分からない。 今まで観て、最高だな、と思った映画は、ドキュメンタリーの傑作『ハニーラン

            春の祭典

            当たり前を創る人が偉いのか、それとも当たり前から逸れる人が凄いのか。 二流のオーケストラの大スペクタクルを聴きたくて、ベルギーのBTRフィルの録音で、ストラヴィンスキーの春の祭典を聴いた。 指揮者はアレクサンダー・ラハバリ。 音楽に疎くともアニメが好きな人にはお馴染みのイランの巨星。 1990年の録音で、この当時、ラハバリはBTRのシェフで、自らレーベルを立ち上げるなど絶頂期の一枚。 BTRは、ベルギーのフラマン語圏の放送楽団で、現在は、日本人の大野和士が音楽監督に

            ヨハネスな音楽

            ノーバート・ブレイニンと聞いて、アマデウスとピンと来る人には、面白くない話を。 或いは、アマデウス弦楽四重奏団を知らない人には、詰まらない話。 ブレイニンは、アマデウスで第一ヴァイオリンを弾いていた人で、カルテットが解散してからも、ヴァイオリンの録音を遺している。 名プレーヤーとも、名物奏者とも言えそうな芸風は、最後まで健在であったけれども、技巧の衰えは素人耳にもあからさまで、下手な人だと思って聴けば、容易に下手くそに聴こえる奏楽だ。 後年の録音としては、ベートーヴェ

            映画:窓辺にて

            主演以外は、俳優も監督も、名前も聞いたことのない人たちばかりだった。 稲垣吾郎だって、昔、国民的アイドルグループにいた人だよな、くらいしか認識のない人だ。 それくらいには、世情に疎い方だから、却って、素直に、この映像世界の中に、吸い込まれて行けたとも限らない。 映画『窓辺にて』は、喫茶店と文学と、そして、映画の好きな人のための、もっと言ってしまえば、何か文化的な空気が好きな人のためにある、そんな映画という気がした。 その何れにも、こちはら相当に無縁なタイプの人間だから

            映画:土を喰らう十二ヶ月

            先日、帰省した。 壁にも天井にも永年のヤニがべったりと染み付いていて、もうタバコの臭いすら麻痺して分からない、そんな実家のリビングが、すっかり線香臭くなっていた。 田舎の年寄りの家の匂いだ。 2月に祖母が亡くなって以降、父は誠実に習俗を踏襲しているらしい。 それは、面白がっても、呆れてもよさそうなことなのだけれども、何となく、好いことだな、と思った。 否、分かる様な気分になった。 裏の畑に干された大根、土間に並べられた白菜、ゴロゴロ転がっている南瓜、人間よりも大切

            第65回CWAJ現代版画展

            《第65回CWAJ現代版画展》 会期: 10月19日(水)~10月23日(日)  会場: ヒルサイドフォーラム ※CWAJ 現代版画展オンラインギャラリー (10月25日9:00 am~10月30日18:00 pm) URL: https://cwaj-gallery.jp 長沼翔の作品を観に行って、花藤加奈と畠中彩の作品に、新たに出会って帰って来た。 兎角、値札の付いた画を観に行くと、ろくでもないことになってしまう。 買わない理由を揃える為に、作品の欠陥を手当たり

            エンドレス、だから、詰まらない?

            詰まらない作品がある。 詰まらないという言葉があって、作品という言葉があるから、詰まらない作品がある、という訳ではない。 僕らは平生、もっと直感的に詰まらないし、作品というものは、もっと本質的に存在してあるものだ。 だから、詰まらない作品がある。 けれども、詰まらない、という言葉がは、本当のところ、何者に掛かるものなのか、と言えば、それは怪しくもなって来る。 それは、日本語独自の構造なのか、人類共有の感覚なのかは分からないけれども、作品がある、という事に対して、僕ら

            映画:僕愛、君愛

            めくるめく平行世界へのパラレルシフトの連続に、登場人物よりも、観ているこちらの方が酔ってしまう。 原作の小説が、どの様に描いたのかは知らないけれども、映画は、意図的にそんな風に作られている気がした。 現実世界は、幾つもある平行世界の一つに過ぎない、という世界観の下に作られた物語である筈なのに、交わる事のない平行世界を幾度も見せらつけられる内に、その全ての世界が重なりあったものとして、現実世界を捉えてみたくなって来る。 僕らが見せつけられているものは、一つの可能性というよ