セルフノート?

今年に入ってから、割かし、Twitterに積極的に取り組んでみた。

バランスを欠く性分なので、あの文字数の制限に意識が掻っ攫われた途端に、noteは読むのも書くのも嫌になってしまって、その意識のままに、今年の上期も終わろうとしている。

要すれば、文章が駄目になった。

考えをまとめる、という事に捉われて、ややもすると、答えを欲しがってしまう。

言い方よりも言い分の方が大事、終いには、そんな感覚すら沸いて来て、流石に、気持ち悪くなってしまったので、久し振りにnoteに向き合ってみる。

向き合うとは、書くことではなく読むことなのだけど、読みたいものが見付からなかったので、仕方がないから、自分で書いてしまって、それを読むことにした。

それがこれという訳だ。

大体、人間誰しも、自分が書いた文章が一番面白いに決まっている。

他人事ではないから、面白がる事は出来ないかも知れないけれども、それだけ、己に刺さるのであれば、やはり、最高じゃないかと思う。

浅はかであれ、滅裂であれ、親身な言葉はよく響く。

そういう親身な文章に出会うと、また、読む気力も少しばかり大きくなって、他人事も段々に面白くなって来る。

noteには書き手があって、書き手にとって、それが他人事ではないと見えて来る。

それは、書き手が、仮に、すっかり自動筆記の人工脳髄になろうとも、読み手が僕等である限りは、恐らく変わるまい。

或いは、人間が書き手である限りは、読み手がどんなに繊細な非人格知能であろうとも、余りに人間的な行為と、私の目には映らざるを得なさそうだ。

人は遠からずAIのために言葉を紡ぐ事になるだろう。

人口知能が人間のために言葉を紡ぐなんて絵空事は信じない。

彼らの紡ぐ人間に照準を合わせた巧みな言説に、まんまと錯覚出来ることこそは、人間の尊厳であって、喜ばしいことじゃあないか。

読み書きが尊いこととは思わない。

考えることに価値があるとも、正直、余り信じたくない。

誰もが足が早くなくちゃ許されない、仮にそんな世の中になったら、うんざりだ。

幸い、言葉は、平生、殆どの人が操って生きている。

考えなしにも使っているし、思慮深く抽出されてもいる。

そして、言葉の方に意識を乗っ取られても、案外、平然と過ごせるもので、寧ろ、その方が支障も少ない。

言い分が強ければ、より合理的に乗っ取られておく必要もあるでしょう。

操るという事は乗っ取られるという事だ。

言葉に乗っ取られるのを休止した時、僕等は言葉を操れなくなる。

そういう不都合に出会して、絶句する。

つらつらと絶句する、臆面もなく。

そんなnoteを読みたかったのかな、今日は。

まぁ、まあまあ、その期待には応えたから、満足です。

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