シューマンのヴァイオリン・ソナタ

シューマンのヴァイオリン・ソナタも、前回取り上げたヴァイオリン協奏曲同様、多少なり録音は聴いて来た方ではないかと思っている。

そして、大概の録音は、やっぱり、そこまで好きじゃない。

今更ながら、今日、聴いたのは、エリザベス・ツォイテン・シュナイダーのヴァイオリン、ウルリク・ステアクのピアノによるソナタ全集。

フローリアン・メルツがシューマンの交響曲好きには著名な存在である様に、この録音もシューマンのヴァイオリン音楽が好きな人には、よく知られた一枚。

原盤は入手至難となっているものの、ライセンス盤が廉価で出回っており、シューマンのヴァイオリン・ソナタのアルバムとしては、最も手軽に聴ける音盤で、演奏も申し分なさそうだ。

シュナイダーもステアクも、コンテンポラリーを得意としている人で、シューマンの音楽への向き合い方も、とてもフラットと言うかハードボイルドな語り口で、ロマンチシズムの欠片もない。

そうやって弾かれてみれば、シューマンの音楽は案外にトロイメライじゃなかった、と素人耳にもあからさまとなって来る。

夢もないけど、何より、心ここにあらず、な音楽。

それがシューマンという人の、最期の人情なのだな。

作家がどんな音楽を描きたかったのかを、この演奏は伝えない。

実際にどんな音楽が描かれたのか、それを鋭敏に音にして、淡々と捌いていく。

同情したら、道を過つ。

そんな決意に満ちた進行で、心休まる時がない。

シューマンという人の音楽には、時に自ら描いた世界に浸っているのじゃないかと思える瞬間がある。

耽美に耽美を重ねて理想を切り開こうとする夢想家の意志がある。

耽美に溺れて破綻する事も甚だ多い。

けれども、シューマン晩年の破綻は、どうにも逆方向からやって来たらしい。

もう溺れるだけの胆力が、なさそうだ。

意識を繋ぎ止められない故の浮遊感。

そこには、夢を追い掛けるなんてセンチメンタルな情緒は既になくって、藁をも掴む貪欲さで音符にしがみついている。

酷く言えば、悪足掻きの記録と見える。

その執念こそは、人情じゃあるまいか。

シュナイダーもステアクも冷淡だけれども、決して診断は下さない。

精緻に配列する事で、シューマンを供養する。

それが誰かに美しく刺さるとしたならば、全く聴き手の同情の力であって、誤謬、バイアスの勝利だろう。

まるで人間が人間を聴いている。

シューマンのヴァイオリン音楽というのは、つくづく過ちだ。

過つ事を試される。

そして、作家には微塵もそんな意図はありそうもない。

そこが好い。

だから、好い演奏なんて、あっては困る。

好い音楽として迫って来ては、寧ろ、危険じゃないか。

シューマンのヴァイオリン音楽の不可思議な魅力に、今日は、そんなバイアスを掛けてみる。

本当は美しい作品群なのに、中々、美しい演奏のない音楽、と信じるのを放棄する。

そういう凄みがあるレコードだったな。

また、違う演奏を聴けば、想いは簡単に翻る。

明日には、明日の風が吹くという。

同じ演奏だって、聴き返せば、また、違って届くに違いない。

その揺らぎの中で、確信というものは、結局、お仕舞いに一番近い所にあるもの、というくらいの値打ちしかなさそうだ。

晩年に傑作を遺せない作家は甚だ多い。

最期の閃きが正解という事もない。

ただ、確信だけが刻まれている。

それを悪足掻きなんて残酷な言葉で片付けて、平然とレコードに耳を傾ける真心が、端から見て優しさと映るかは、怪しいものだな。

冷淡に映れば嬉しいけれども、まぁ、単なる過ちです。

過ちこそは生物の特権、シューマンの音楽は、僕らにそんな素朴な真理を身をもって説いている。

だから、好い。

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