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書字学習は生涯学習

文字が使われて、コミュニケーションに利用されている社会に育つ限り、子供は、読むことだけでなく、書くことも自然に始める。
話し言葉同様、はじめはたどたどしいけれど、子どもは、言葉を自分から書き始める。
子供は、大人から見ると文字とは思えない線のかたまりを書く。大人には読めなくても、それを書いた子には読める。なんて書いてあるの?と尋ねると、「おかあさん」とか「おとうさん」とか「バナナ」とか答えてくれる。
その線のかたまりは、書いた子にとっては絵ではない。言葉を書き記す文字である。
大人から見ると文字には見えないかもしれないけれど、書いた子にとっては文字である。
そういう文字を私は「擬文字(ぎもじ)」と呼んでいる。
擬文字はやがて、大人が書く文字に似てくる。そして、だんだん読みやすい形になってくる。形も整い、美しくもなってくる。
その過程で子供は、書きやすい筆順や字形を選び取る。
そのために子供が参照するものは、絵本やポスターや広告、商品ラベルや看板や包装パック、あるいはカレンダーや時計などに印刷されている文字、さらには動画の中に現れる文字などである。子供は、印刷された文字だけでなく、大人や書ける子が手書きした文字なども参照する。
書き方を人に尋ねたりすることもする。
擬文字には、大人が読めない擬文字から、大人が判読できる擬文字まで、幅広いものがある。そういう擬文字を、子どもは何度も試行錯誤しながら、だんだんと社会に通じる文字とその書き方を獲得していく。
それが、文字を書いたり、言葉を書いたりする学びの過程である。それは、試行錯誤の連続である。
そうして子供は、(子供だけでなく大人も)、社会に通用する文字を書くようになる。コミュニケーションの用をなす文字を書くようになる。
書字力の向上は、生涯学習の課題である。私には今も、調べなければ書けない文字がある。社会に通用している形とは異なる文字を私はまだ書いていると思う。そして、だれか他の人から指摘されるまでは、そのことに気付かないでいる文字が、私の中に多く残っていると思う。そういう意味で、書字学習は生涯学習である。
正しく整っていて美しい文字を、初めから書かなくてよいではないか、だんだんとよりよい書字ができるようになればよいではないか。
長い目で見よう。長い目で見て、自分の書字を改善し続けることを、おのおのが楽しめばよい。
情報通信技術の発達によって、手書きしなくても済む場合が飛躍的に増えた。それはそれで利用すればよい。人に通じる文字を書くために、コミュニケーションの用をなす言葉を書くために、そういう技術を、大いに利用すればよい。

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