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親父の部屋にて

ふと今こうして文章を書いているのは、元々は親父の部屋だった場所だ。
この親父の部屋で文章を書いたり、日記を書いたり、ミーティングをしたり、プログラミングをしたりしている日々が少し過ぎて自分の中でなんとなく手に馴染んできたので、少し書いておきたいことがある。

母親が脳卒中になったのが、去年の2022年10月だが、そこからの1年間は激動だった。
僕の人生でおそらく一番大変な1年間だったのではないかと思っている。
転職して3ヶ月ほどしてからの母親の入院、そしてリハビリ、からの介護という流れは僕をとにかく焦らせた。
だが、火事場のクソ力というのが発動したタイミングでもある。
無心でやらないといけないことをひとつずつこなしていった。
特に時間的に制限があるものや、区役所のように日中に行かないといけない作業は困難だった。

元々、家の掃除は開始していて、それは母親が倒れる前から少しずつしていた。
母親は親父の部屋を幽閉していて、開けると思い出してしまうとか、涙が出てしまうとかで、ずっと締め切っていた。
流石に風を通したり、いらないものや親父のもので溢れかえっていたので、なんとかしないといけないという話を再三し、少しずつ捨てていた矢先に母親が倒れたのだ。

そこから僕は家の掃除をほぼ一人で無心になってやった。
週末は近所のホームセンターで電動鋸を買ってきたり、ドライバーや、トンカチなどいろんな DIY アイテムも買ってきて、家をとにかく母親が帰ってきた時に介護がしやすいように整えていった。
この作業ができていたのが僕の精神の支えになっていたと、後になった今よくわかる。
修行僧が毎朝掃除をするように、僕も家を改築していった。
どれぐらいのものを捨てたかというと、コンビニで買う粗大ゴミのシールで4万円分捨てた。
これを3階から下ろして、業者を呼んで捨てるという行為を繰り返した。
おかげで身体付きは変わった。
筋肉が蘇ってきた。

母親がリハビリセンターから退院してからは、仕事を相変わらず居間でしつつ、母親が大丈夫か常に目を配っていたと思う。
これはとても神経を消費した。
おかげで仕事と母親を50:50ぐらいの割合で脳みそを使っていたと思う。
だから仕事ではポンコツだった。
さらに僕には家族もいるので、二拠点生活でもあった。

親父の部屋は、まだやっと大きな荷物がそこそこ捨てれたぐらいで、押し入れにはいらないものがあり、絨毯は汚いし、クーラーは古過ぎて使えない。
壁紙はベロっと剥がれている。
これをひとつずつアップグレードしていった。
壁紙の業者にお願いして、張り替え、クーラーも新品にし、絨毯もそれっぽいのを敷いた。

壁紙を貼り直した状態
絨毯はまだ汚い
絨毯を配置した状態

ここまで来てやっと少し未来が見えてきた。
ものがなくなり、一旦汚い部分が綺麗になった。
ありとあらゆる場所を掃除したし、部屋の湿気を取るためにずっと扇風機を回しながら、部屋の窓を開けて換気した。
古い家の匂いがだいぶとれた気がする。

ニトリのソファを置いた状態

どうしても欲しいものがあった。
それがソファだ。
ソファを買ったことが今までに一度もなかったので、本を読むためだけのソファが欲しいと思った。
数ヶ月探し回って、ニトリのこのソファに決めた。
電動で動くやつだ。かっこいいやつだ。

家からある程度仕事をするために必要な机や、椅子などを引越し業者にお願いして運んでもらった。
これは真夏のタイミングだったので、引越し屋さんに混じりながら僕もお手伝いさせてもらった。
あれもいい経験だった。
実家の階段は狭過ぎて机を運ぶことができず、解体した。
滝のような汗をかいていたので、お水を2リットル差し入れしたりして、僕含め3人でチームのように動いたのはすごく貴重な体験だった。

仕事環境
ソファと膨大な本たち
窓辺とスケボー

そして、やっと仕事をする環境ができてきた。
二拠点生活なのは変わりないが、実家でもちゃんと仕事ができる環境ができたのは、とても僕にとって大事なことだった。
というかこれが一番大事だった。
ちゃんと仕事したい。仕事をする環境を構築したいとずっと思っていた半年だったからだ。
本屋もやっているので、本はとてつもない量あるが、それもまた心地よい。

今こうして親父の部屋で僕は仕事をしている。
かつて親父はサラリーマンで出勤するスタイルだったので、仕事部屋ではなかったかもしれないが、膨大な本に囲まれていたこの書斎で僕は今この文章を書いている。
齢43歳になって、この激動の一年を経験したことで、また一つ真理というか境地というかそんな大それたものではないかもしれないが、近づいたのではないかと思っている。

なんだか僕は常に親父の背中を追っている気がする。
それでいいのだろう。


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