ピーター・パンと額について(2/2)
(画像:2022年 数寄和での個展「LAND」展示風景より)
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ネバー・ランドで、ウェンディは子供たちに提案をする。「ねえ、みんなでわたしたちのおうちにこない? ベッドさえ運びこめば、みんな眠れるわ。ねえ、そうしましょうよ!」
というのは、ウェンディは「おかあさん役」にくたびれてきたし、ほかの子供らも、本物のおかあさん(大人っていう程度の意味)に焦がれはじめてきたから。子供たちは賛同するのだがしかし、ピーターだけは反対する。現実の世界の、ウェンディのおうちには行きたくない。
「大人になんかなりたくないんだ。子供のままがいいんだもの」
ピーターのいう「大人になる」はおそらく、身体的な成長や経済的な自立を指していない。そうでなく、「一度背中をむけた/抜け出した/ふり捨てた/飛び出した(いわば)実家に(比喩的な意味で)戻ること」なのではないか。
だとすればピーターの発言から、さらに別の意図が聞こえてくる。ピーターは「現実から切り離された世界にわざわざせっかくやってきたのに、現実の世界に復帰するのはいやだ!」とゴネる。これ、映画館を出ることでもある。ピーターはずっと、映画の世界にいたいのだ。映画を終わらせたくない。
上映終了後に「劇場をでる」という体験ができるのは、映画館だけだ。映画館を出るという体験のもたらすよろこびは、それ独自のものとして、ある。
映像は、劇場から、家のなかのテレビ、手におさまる機器のモニターへと、活動圏域をひろげてきた。身体化されていった。その速度は飲み水のそれよりも早い。ところが、というか、だからこそ、映画館という「わざわざ行って、で、終わったら帰ってくる」をする空間の特殊さは、そこで流される映像の内容とは別個のものとして考えやすいのではないだろうか。
映画という体験はいつはじまっていつ終わるんだろうか。「STOP! 映画泥棒!」や「上映中のマナー」のCMのあと、急に静かになって、本編の配給会社クレジットがはじまるタイミングで映画の時間がはじまる気もする。あ、けど、遅刻して劇場にはいると、席着いたときからもう気持ちは準備できてる気もするな。反対に、映画の終わりはどうだろう。エンドクレジットの手前で心が切れるときもあるし、劇場を出たあとも続く高揚だって立派に映画の一部かも。そう考えればわれわれはいまもなお、昔見た、心に残る映画の時間を過ごし続けているともいえる。プログラム上の「上映時間」と、心の感じる「映画の時間」は違うものだ。そしてその違いが鮮明に認識されるセッティングこそが映画館、すなわち、モノとしての映画の置かれた空間を独立させることにより、かえって「コトとしての映画」を考えやすくする空間。出入りを仕組む館である。「行って帰ってくる」という経験は日常を活性化する。
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白い壁の前にリンゴが置いてあって、それを見ているとしましょう。目は常に、立体の半分しか見られません。すなわちリンゴの裏側は見えないのだ。まなざしというレーザービームは、ある一点を越すと当たらなくなり、見えなくなるのだ。そのかわりに背景の壁が見える。網膜というスクリーンの上で、リンゴの表側=見える範囲のキワと白い壁とが隣接する。そして結果的に境界線ができる。
この境界線は、リンゴの輪郭だ、というふうに、ふつう一般は信じられている。
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日常の世界とは切り離された空間にいる「妖精を信じる子供たち」たる鑑賞者が、同時通訳者のようにその存在感が透過されている活弁士の声にあおられて手をたたく。体を動かして、それをみんなでやって、みんなおんなじ方向をむいて、高揚していて、興奮していて、ネバー・ランドの子供たちと同じように、ピーターの指揮下にまんまと誘い込まれ、転がされている。鑑賞者たち、去りなさい。ピーターのもとを去りなさい。映画の光のなかで一生を過ごしてはいけない。劇場を出て、おうちに帰りなさい。なぜなら映画館とは、劇場を出て、おうちに帰るためにあるのだから。
クリスチャンでもある遠藤周作が著書のなかで、「神がいるのか、いないのか、わからない。いないかもしれないという疑いを捨てることができない」と悩んでいた。ところで、サンタを「信じている」子供はいない。子供にとってサンタは「信じている」じゃなくて「いる」だ。「信じる」というのは、不分明な領域を不分明だと承知のうえで、それでもそこに留まるということなのかもしれない。
(おしまい)
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