ピーター・パンと額について(1/2)
(画像:2022年 数寄和での個展「LAND」展示風景より)
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木でできたパネルに下処理をする。ガーゼ状の薄い布を張り、その上から塗料をぬって下地をつくる。絵を描く面への作業はしっかり行っていたが、パネル側面については違った。木肌やガーゼはランダムに露出し、ところどころ、正面に塗った塗料が垂れたままかたまっている。描き終えた絵の側面にはさらに絵の具の汚れもあわさっていて、ずいぶん荒々しい見た目になった。そうあるべきだと信じていたからそうしていた。目の前にあるのは、なにかが描きつけられただけの、ただの物体でしかないことを忘れたくなかった。
ところが、いつからか方向転換して、いまは側面をなるべくきれいにしてやろうと気を付けている。塗料は側面の隅までムラなくきれいに塗って、マスキングテープで養生してから絵を描きはじめる。描き終わってからマスキングテープをはがすと真っ白い側面があらわれる。絵が「よそゆき」になる。
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無声映画のピーター・パンをみる機会があった。活弁士の活弁を聞きながらの上映会だった。1924年、大正時代の映画で、アカデミー賞が開始されるよりも古い時代の作品だ。
なぞの少年ピーター・パンは、ネバー・ランドという島に、さらってきた子供たちと暮らしている。お話を動かすのはウェンディという少女で、彼女もネバー・ランドにさらわれるのだが、そこにいる子供たちのなかでははじめての女の子であった。ウェンディは「おかあさん役」を任され、子供たちの人気を得る。ピーターのそばにいる妖精のティンカー・ベルは、ウェンディが悔しい。ネバー・ランドを取り囲んでいる海には海賊がいて、ピーターを目の敵にしている。
ティンカー・ベルが死にそうになるシーンで、ピーターは突然カメラ目線になった。そして観客に呼びかける。「妖精を信じる子供たちの拍手があれば、ティンクは生き返るんだ! みんな! お願いだ! 拍手をして!」あおられて、われわれは拍手を送った。もっとも、「もっと! もっと拍手をして!」とわれわれに呼びかけるその声は、活弁士のものなのだけど。
ネバー・ランドはひろい海にぽつんと孤立している島だが、ウェンディたちは、空を飛んでネバー・ランドと行き来をする。つまり海は、「現実の世界」と「おとぎの世界」のあいだに位置するのではなくて、あくまで「おとぎの世界」のなかにある。
ピーターたちにとって海賊が脅威であるというのは、どういうことだろうか。(そういえば、子供たちの集団のなかのピーターの立ち位置と、海賊団のなかのフック船長の立ち位置は驚くほどよく似ている)ピーターたちが海賊と敵対しているのはまるで、「境界線のむこうにいる相手ではなくて、境界線そのものが脅威なのである」ということを示唆しているように思われて仕方がなかった。「あちら」と「こちら」をわかつ稜線こそが厄介な敵なのだ。
映画の世界はスクリーンのなかに閉じ込められており、観客であるわれわれはそれを一方的に覗いている。一応、構造はそういうことになっているけれど、映画に夢中になっているときには境界はあいまいになる。われわれの側の世界に立って、かつ、スクリーン内の冒険を語る活弁士の存在は没頭の邪魔にはならない。どこかネバー・ランドにとっての海賊と似ている。「われわれ」を「われわれ」たらしめる外部であり、かつ、「われわれ」と一緒におとぎの世界にいる。
観光が下品なのは、「ものを見る」ということが、そもそも暴力的であることに由来する。事故現場を見物するのでも、咲いた花を眺めるのでも同じだ。自分という「特別な存在」が、なにかを観察し、裁き、判断し、感想を持つ。まなざしは常に特権的である。(あまりにひどいことがあると、ときに人は記憶をなくす。あるいは、自分を少し離れて眺めているイメージで記憶される。まなざしは、とうの自分自身の同一性や肉体さえ突き放すほど強権的である。)
旅行は楽しい。主人公意識が高まる。自分が、まなざしの特権に見合った、特別な存在であるような気がする。旅行者らはみんな主人公意識が高まっていて浮かれている。
映画の世界の特徴のひとつは、登場人物たちがわれわれのまなざしによって損なわれないところにある。おかげでわれわれは、まなざしという暴力をふるっている責任におびえずに鑑賞できる。しかし構造は同じだ。映画の物語世界を観客としてながめるまなざしはあくまで特権的で、だって映画の登場人物は誰も、作品世界を観客のように一望できない。すなわち、
すなわち、わたしというおとぎ話を「わたし」の範囲に閉じ込め孤立させる海を漂う、ストイックで海賊的な巡視船、過度なオフェンス力のために、わたしという島を後ろめたくさせさえする軍事力を保持したまま境界領域を漂い、大声で巡視報告を活弁するフック船長としてのまなざし。
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一般に、「現代」の絵画には額がない。一方、古い絵には額があるし、立派な彫刻の施されたものも多い。「現代」以前の、大仰にすら思われる立派な額は、見る者に、「このフレームの内側、別の世界なんですよ」ということをわかりやすく教えてくれる。目立つ境界線によってもたらされる明確な分断が、鑑賞者に「別の世界へわたり、観光しにいく」という導線を、はっきり与えてくれる。
現代を「 」で額装し、へんなアクセントをつけたのは、たんに「おおざっぱな言い方ですよ」とアピールするためである。なにせこの文章は論文でもなんでもない。人を丸め込むためなら少々「盛る」ことも辞さない横着者による散文である。で、それはそうと、「現代」の絵画は額から抜け出して、絵というものが、ひとまずたんに、現実の世界のうちに存在する物体であることに開き直り、そのことでかえって現実空間との結びつきを豊かにしていった側面がある。
パネル側面の隅々にまで塗料をきれいにきれいに塗って、描画作業中はマスキングテープで絵の具の付着を防いで描いて、描きあがってからマスキングテープをはがし、エッジの鋭い、真っ白い側面があらわれる瞬間、絵が「よそゆき」になったように感じられる。真っ白な側面は、作業をしている日常の時空間にあらわれた境界線もしくは裂け目であり、その瞬間、画面は「むこうがわ」として独立し、そしてわれわれは分断される。額を装着しているのと同じなのかもしれない。結局のところ。
「マスキングテープをはがす瞬間に額装を連想する」という、超主観的なコメントは、コトに対して額を連想している。要するにここで連想された額は、絵を見る人には伝わらない。明らかに実在している「額」とは存在の質が違う。実際の額はコトではなくてモノである。というか額には、コトとしての額と、モノとしての額、のふたつがある。もっといえば、ほとんどすべてのものには、コト的な側面とモノ的な側面があるというだけの、古典的かつ当然の話である。そうだなたとえば、上映スケジュールに示されている上映時間と、鑑賞者の体験する内的な「映画の時間」は違う。 つづく!
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