「攻めのDX」と「パーパス」の本質を理解した経営が、イノベーションを誘発する
「守りのDX」はデジタルによる効率化・合理化・平準化、利益率向上
いまだにDXを誤解している人に会う。既存事業のアナログな業務を、デジタル化することで効率化・合理化・平準化し、コストダウンを図り利益率を向上させることがDXだ、と。
それは単なるIT化、もしくはデジタイゼーションに過ぎない。事業構造をトランスフォーメーションしているわけではない。そうであるがゆえに新しい価値を創出していない。
もちろんそういった「守りのDX」も極めて重要だ。日本企業の多くは未だ非効率なアナログなプロセスが蔓延っている。それを一新することで利益率が向上する余地は多分にある。
一方でその行き着く先は結局のところコモディティ化だ。技術は必ずコモディティ化する。誰しもが同じような状態に近づいていくのだ。そうするとどんなに守りのDXを推進しても、それは価格競争のレッドオーシャンから抜け出すきっかけにはならない。むしろ価格を下げる方向に向かうだけだ。
「攻めのDX」はデジタルによる顧客体験の変革、売上向上
顧客に新たな価値を提供し、そこに独自性があり、顧客のエンゲージメントを高め、レッドオーシャンからブルーオーシャンを見出すためにこそ、「攻めのDX」に挑戦しなければならない。
人とモノと企業もしくはビジネスの結び付きがデジタルによって相互作用をもたらし、社会的な影響を生み出し、生活や働き方への変革を起こし、新たな産業をうみだすこと。それが攻めのDXだ。
まずは体験にフォーカスする。大手企業では今まで数字でしか、妄想のペルソナでしか見てこなかった顧客にしっかり踏み込む。顧客の実像を理解し、課題を把握し、その本質の深さと広さを追求した上で、自分だけが気付いた真実(インサイト)を掴み、カスタマーサクセス・カスタマーハピネスを追い求める。
それをデジタルによって、人間のアナログな力ではできないことを成し遂げる。もちろんそこは効率化であり合理化であり平準化であるわけだが、目指すべき未来が違う。フォーカスするポイントが違う。自分達の業務にフォーカスしているのが守りのDXなら、顧客の体験にフォーカスするのが攻めのDXだ。
パーパスがなければトランスフォーメーションは実現しない
しかし、実際のところ攻めのDXは、どうやれば実現できるのか、という計画を立てるのが非常に困難だ。
守りのDXはわかりやすい。過去から現在にやってきた業務を棚卸しし、アナログで非効率なところを見つけ出し、それを自社もしくはスタートアップの技術を用いて効率化をすれば良い。計画は立てやすくなっている。(ただし、その課題に内部の人間が気づけるかどうかは別の問題)
攻めのDXは未来の顧客の行動を定義することであり、未来の産業を定義することだ。妄想的なシナリオプランニングをすることはできても、より具体的に顧客の未来の行動がどう変わるかを完璧に予測することなど不可能だ。
誰もスマートフォンがこんなに世界に普及し(今や人類が1年で生まれてくる数よりも、スマートフォンが1年で生産される台数のが多い)、こんなにも世界を変えることになるなんて、iPhoneの発売時には予測できなかったし、それ以前に予測ができた人なんて一人もいない。スティーブ・ジョブズですらそこまでの予測はできていないだろう。
だから必要となるのは抽象的な概念としての自社が取り組む目的である「パーパス」なのだ。
パーパスを定義すれば、それが判断基準になる。その判断基準に基づいて議論することで、そのパーパスを達成するために自分達が何をすればよいかの輪郭がみえてくる。
判断基準でありながら解釈の余地を残せば、ベクトルは同じ方向を向いて、その中で多様な価値観で物事を定義し合うことで、その中での質の高い取り組みが徐々に相互作用によってでてくるようになる。
これはある種クリエイティビティに制限をもうけることによって、クリエイティビティを高めることを狙っているのと同義だ。
人間は白紙の紙に「自由に絵を描いていいよ」といわれると、クリエイティビティを発揮できない。そこに最初から点や丸や線が引かれていて「自由に絵を描いていいよ」といわれたほうがクリエイティビティを発揮する。
自由と自由奔放は違うのだ。日本型コングロマリットは自由奔放にやりすぎた結果クリエイティビティが失われ、単なる守りのDXに終始するにとどまることしかできなかった。
自由とは、既存の枠組みを深く理解し、向かうべきベクトルやその中でのルールを把握し、その縁の限界ギリギリがどこなのかを探った上で、そこから半歩外側に踏み出す勇気を持つことだ。入念な制約の設定があって自由な発想が生じる。制約の中で最大限の創意工夫をすることが自由な発想であり、人を魅了するクリエイティビティなのだ。
その辺の野原で自由奔放にただボールをサッカー選手が蹴っていて感動するだろうか。ルールがあって、反則が定められていて、その中でギリギリを攻めていくからファンタジスタが生まれる。そして人々は感動するのだ。
パーパスはトップ自ら体現しなければ浸透しない
パーパスはキャッチコピーやお題目ではない。コンサルタントに提案させ、選ぶだけで、コピーライターに綺麗で軽薄な言葉に整えて、Webサイトに掲載すれば終わりではない。
上から下まで浸透してこそパーパスに意味がある。日常の活動の制約となり、クリエイティビティを誘発することができる。
だからトップがきちんと議論に参加しなければならないし、トップが本気で向き合って捻り出さなければならないし、一度決めたらトップが自らの行動をパーパスによって律しなければならない。
トップ自らがパーパスを「お題目化」して、日常の行動で無視するようになれば、それが行動規範として上から下まで浸透していく。「ああ、パーパスは無意味で無価値なものなんだ」と。トップが徹底的に背中で語ることでしか、パーパスは浸透していかない。パーパス経営を掲げるなら、経営が本気になることが極めて重要なのだ。
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