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【明清交代人物録】鄭芝龍(その二)

「平戸」という地

『開啓臺灣第一人鄭芝龍』の第一章は「一件歷史公案」と題され、王直の事績が紹介されています。この人物は明朝末期の倭寇の時代を引き起こしたきっかけになる人物です。この王直という人物は、日本史と深くかかわっており、ポルトガル人と一緒に鉄砲を日本に伝えたとか、長崎県の平戸を拠点に日中貿易を営んだとかいう事績が有名です。この経過は、後の鄭芝龍の行ったこととよく似ており、作者は王直と鄭芝龍を共に日中の交易の歴史の中に位置づけようしているのでしょう。

倭寇の時代のことを詳しく紹介している「史劇的な物見櫓」というHPに詳しく王直の事績が紹介されているのでリンクを下記に記します。

Wikipediaの紹介は下記になります。

この章のみ中国語の原文がアップされていますので紹介します。

この王直と鄭芝龍にはたくさんの相似点があります。

1. 日本と中国の間の交易に関わっていること。
2. 日本では平戸を拠点にしていたこと。
3. 東シナ海の巨大な海上勢力となっていること。
4. ポルトガルとオランダという西洋の海上勢力と協力関係を結んでいること。
5. 明王朝の招撫を受けていること。

などです。

しかし、大きく異なっているのは、王直はこの明朝からの招撫を受けた後、殺されてしまうのに対し、鄭芝龍は明朝の正式な武官として勢力を伸長していくことです。この違いについては後で述べます。 

キャプテンチャイナ、李旦

この時代から約半世紀の後、17世紀の初頭に平戸で勢力を持っていたのが李旦です。李旦の事績は「平戸イギリス商館長日記」「平戸オランダ商館長日記」に断片的に記録されています。李旦は、イギリス人が平戸に商館を建てるにあたっては便宜を図っているし、イギリス人・オランダ人と継続的に関係性を持っています。イギリス人の記録では李旦のことをキャプテンチャイナとも呼んでおり、平戸の華僑グループの親分というような意味合いなのでしょう。そのやり取りから見えるのは、この平戸の地では、李旦はビッグネームであり、西洋人が東アジアでの交易関係を築くには欠かせない人物であったのであろうということです。

その李旦の元に鄭芝龍がやってきて当初何をやっていたかは詳しく分かりません。鄭芝龍の名前が出てくるのは、オランダと明朝が澎湖島で衝突した際に、この交渉に通訳として鄭芝龍が派遣されたという記録です。この後、鄭芝龍がオランダと深いかかわりを持つ最初のきっかけがここにあります。

『開啓臺灣第一人鄭芝龍』では鄭芝龍が平戸に着いた時期を1622年としています。これは上記のオランダ人による澎湖島占領事件の起きる、その前の年です。ということは、鄭芝龍は平戸に来た途端にこのオランダ人に対しての通訳の役目を命じられていることになります。この時点でオランダはスペインに対する独立戦争を発動中ですので、オランダ人はスペイン語にも通じていたと思われ、鄭芝龍はマカオで学んだポルトガル語を駆使していたのでしょう。 

オランダとの接触

オランダによる澎湖島の占領と、のちに明軍による圧迫により撤退を余儀なくされる顛末は東洋文庫の「バタヴィア城日誌」第一巻の初めに詳細に記されています。オランダが中国の福建省に貿易の拠点を持とうと軍事力に訴え強硬手段に出ますが、軍事力の差に結局撤退せざるを得ず、澎湖島にまで戦線を下げるのですが、結局この地でさえも明朝はオランダがとどまるのを許さず、オランダを当時タイオワン(台員)と呼ばれていた台南にまで追い出したという事件です。

鄭芝龍が澎湖島でオランダ人と明朝の間の交渉ごとに関わっていることは、今後の彼の一生に大きな影響を与えます。そして、それは後の鄭成功、さらにその息子の鄭経の時代にまでつながります。

この時代、東シナ海における海上勢力は、東洋では明朝と日本、西洋ではポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスなどが主なプレイヤーです。しかし、日本が鎖国政策に転じ舞台から消え、ポルトガルもマカオを守るだけの斜陽の勢力になっていきます。スペインはフィリピンを基点に日本と中国への働きかけを続けますが、カトリックの教義に縛られることで日本の市場から敬遠され、のちに清王朝になった中国でも事件を引き起こします。イギリスはこの時点ではオランダに劣る勢力でしかなく、日本の市場から一時撤退しています。そして、最後に残ったのが福建商人グループとオランダ東インド会社になります。1623年から1664年にかけて、この二つの勢力は時に協力し、時に敵対しあうという関係を続けていきます。

このようなことが可能なのは、この両者がともに商売をベースに関係を築くという姿勢だったからであろうと考えています。もし、宗教や理念を基に政策を考えていたら、この様に関係が二転三転しないでしょう。スペインなどは宗教理念ありきなので、常に日本と中国の政府を相手に軋轢を生んでいます。

李旦の死、そしてオランダとの連携へ

鄭芝龍が澎湖島でオランダ人との関係を結んだ時点で、李旦が亡くなってしまいます。そして相次いで顏思齊も亡くなってしまいます。『開啓臺灣第一人鄭芝龍』では顏思齊を李旦の元で台湾をベースに貿易のリーダーをしていたのではないかと見ています。詳細は省きますが、この時点で東シナ海の交易圏で福建商人グループを率いていた人間が二人亡くなってしまい、その空白に乗じて鄭芝龍はこのグループを乗っ取ってしまったのだと僕は考えています。

李旦には李國助と呼ばれている息子がいます。この人物については岩生成一の論文があり日本でも簡単に紹介されておりますが、『開啓臺灣第一人鄭芝龍』ではこの李國助の事績を詳しく述べています。平たく言うと、父親から受け継ぐべき自分の勢力を失ってしまったために、鄭芝龍以外の海賊と結び、鄭芝龍へ対抗していくことになります。

このようなことから、鄭芝龍はかなり汚い手を使って、実力行使でこの李旦の海上勢力の乗っ取りを行ったのではないかと推測しています。勝手な想像ですが、織田信長旗下の豊臣秀吉の様なものではなかったかと考えています。

そして、ここから鄭芝龍はオランダの外郭部隊としてスペイン軍に対抗していくことになり、最初のオランダと福建商人集団の蜜月期間が始まります。鄭芝龍は、この時点ではまだ独立した海上集団となることは考えていなかったのでしょう。オランダの配下で海賊を働き、英気を養うことになります。

なおこの海賊という言葉から日本語としてはおたずね者、アウトローといったイメージになりやすいですが、この時代の海上世界では国策として海賊が行われている場合も多く、例えばオランダとスペインは敵対関係にあるため、相手の積み荷を奪うことはごく普通のこととして行われています。これは”私掠船”( 英: Privateer, 仏: Corsaire)と呼ばれます。

そして、僕はこの時点で鄭芝龍はオランダの様々な技術を摂取したのではないかと考えています。例えば船を扱う技術、造船といったハードウェア、地図の作成や商売のノウハウといったソフトウェアです。この時代のオランダは、西洋資本主義の萌芽の時期にあたっており、科学技術、商業技術の点で最も進んでいた国です。そのオランダの東インド会社と共に働くことで、鄭芝龍は様々なノウハウを得ることができたのではないかという、これは僕の仮説です。

この様にして、鄭芝龍は平戸を拠点とする中国人ネットワークを配下に従え、オランダ勢と組むことで東シナ海に勢力を拡げていくことになります。

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