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【明清交代人物録】鄭芝龍(その三)

オランダとスペインの抗争

 オランダと福建商人が手を結んだ背景には、オランダとスペインの間で戦争が継続中であったという理由があります。オランダは1581年から80年にわたるスペインからの独立戦争を行っており、これはアジアの海でも展開されているという状況でした。オランダはインドネシアのジャカルタ、当時はバタヴィアと呼ばれていた街を根拠地として、東南アジアでの商売を支配下に置こうとします。これに対抗するのは東南アジアのそれぞれの諸島国家を除くと、ポルトガルとスペインになります。華僑と日本の朱印船貿易者は、海域を制圧しようとは考えず、あくまでも交易を主体としている集団でしかありませんでした。そして、ポルトガルは1580年にスペインに統合され、独自の勢力とはなくなっています。この様な状況の中でスペインはマニラを根拠地として中国・日本との交易を目指し、オランダはポルトガルの植民基地を次々と攻め落とし、同じように中国・日本との交易を牛耳ろうとしているわけです。

 オランダは1602年、1623年と相次いで中国に交易基地を設けることに失敗してしまい、フォルモサの大員(Tayouan)まで撤退しここにあらためて要塞を建てることになります。これがゼーランディア城と呼ばれる、台南のオランダ人の城塞です。ゼーランディアというのはオランダの7つの自治体のうちの一つZeelandからとられています。(この地名はニュージーランドNew Zealandの国名の元ともなっています。)そして、オランダはこのゼーランディア城と大員港を統治の根拠地として東南アジアと東アジアの海域を制覇し、スペインの勢力を追い落とそうと考えるわけです。

 

このオランダとスペインの間の抗争は日本にも影響を与えています。17世紀の初めにオランダが江戸幕府と交易の交渉を進めるにあたって、彼らは常にスペインとの交易を禁止することを幕府に要望しています。江戸幕府にはスペインと交易をするメリットがあるので、鎖国を実施するまでは、このオランダの希望は退けられていました。

オランダと福建商人の協力

オランダは東シナ海でスペインと交戦状態にあったと理解できます。そして常にスペインの中国との交易を妨害しようとします。スペインのガレオン船を見つけるとこれを攻撃し、積み荷を没収するわけです。しかし問題はそうは考えても、東シナ海の制海権を握るためには、船団の数が全く足りないわけです。東南アジアを主要な領域としているオランダ東インド会社にとって、東シナ海は第二海域でしかなく、そこまで多くの戦力を避くわけにはいきません。そうした状況で、福建商人をパートナーに迎え入れることをオランダ人は考え、鄭芝龍がそれに応えることになります。

福建商人側にもオランダと組むメリットがあります。福建省の各都市では歴史的な由来から北から南まで交易の相手先が異なっています。それについて少し説明します。

福建各都市の抗争

福建で最も古い街は福州です。この街は福建省の省都であることから、公の交易ルートを担っていたようです。明朝の時代は琉球王朝との交易をおこなっていたことが特筆できます。琉球に来た華僑グループは福州からの人間が主で、海禁政策の中で琉球を中継貿易の拠点とすることで、間接的に東南アジア各国との交易を続けていました。明朝末期のこの時代では、琉球は薩摩軍に攻められるなど、交易の拠点としてはだんだんと不利な立場に置かれています。

泉州は元の時代に中央アジアに向けた一大貿易港として名を馳せていました。イブン・バットゥータの記録にザイトンという名前で、明の時代には逆にこのことが災いし、外国に対する交易窓口としては衰退しています。

 

漳州は福建では最も南にある貿易港です。この都市は1567年に海禁政策を緩和する街として認められ、マニラとの交易を始めます。そして新興の都市として勢いを持っていました。

福建の各都市は、お互いに競争意識が高く争いあっており、その中で泉州は過去の栄光こそあれ、この時点では漳州に後れを取っていました。そんな中で泉州、晉江をベースとする黃家と鄭芝龍のグループがオランダと組んだというのは、新しい時代を切り開く画期的な出来事だったのだろうと考えています。オランダ東インド会社と鄭芝龍はこの時点では利害が一致したのでしょう。オランダとしての利害は先に述べましたが、鄭芝龍の立場としては福建の他の都市とは異なったパートナーを得て交易を始める、そして競争力を高めるという賭けだったのでしょう。

 しかし、このオランダ東インド会社の外郭部隊として、スペインを相手に海賊を働くという時期はそう長く続いていません。1626年から1628年まで、鄭芝龍はこの立場で福建沿岸に対しても海賊を働いています。そして東シナ海で大船団を持つ勢力に急速に拡大します。この船団の数は700隻とも言われ、これだけの数になるとオランダ東インド会社の船団の規模を大きく上回ってしまっています。そして、記録にいつからとははっきり書いてありませんが、鄭芝龍はオランダと袂を分かち、明朝の招撫を受けることになります。

《海賊之王—鄭芝龍傳奇》

おまけの情報です。
高雄の衛武營藝術文化中心で《海賊之王—鄭芝龍傳奇》と題された鄭芝龍をテーマにした歌仔戲があります。台湾では、最近鄭芝龍に関する本が出版されたり、講演会が開かれたりしています。そんな中でとうとうこんな演劇も公演されることになりました。歌仔戲というのは台湾の伝統的な民間演劇です。そんな中で鄭芝龍の物語がどのように表現されるのか興味津々です。


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