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先生と、呼ばれるほどの、馬鹿でなし。

先生と、呼ばれるほどの、馬鹿でなし。

教師や弁護士、医者、その他もろもろの「先生」と呼ばれる職業に就く人たちは、周りから「先生、先生」と呼ばれて良い気分になっているけれど、呼ぶ側は敬意を込めて言っているわけではない。「先生」と呼称される人々を戒める警句である。

「先生」の代表はだれがどう考えても教師である。「先生」は「先に生まれた」「先に生きていた」と書く。先に生まれていさえすれば、子どもたちに教える程度の某かはもっているものである。つまりは、だれにでもできる職業に過ぎない。自分の身をどこかその程度に考えておくのがいい。私はそう感じている。

新採用から数年間、教師として仕事をし、それなりに学級をうまくまとめ、それなりの成果を上げた人たちが、なんとなく高飛車になっていくのを見てきた。新採用の頃はこんな校則なぜあるのだろうとか、こんなことを学んで何の益があるのだろうとか、こんなことを強制するのは実社会とかけ離れてるよなとか、学校現場にさまざまな疑問を抱いていたのに、数年経つと〈学校的リアリズム〉に一切の疑問をもたなくなる。そうなったとき、教師は文字通り「先生と呼ばれる馬鹿」になる。

先日、私は国語の単元テストの試験監督をしていた。授業で一つの単元が終わり、予告してペーパーテストをするわけだ。子どもたちはこのテストが評定資料とされることをよく理解している。高校入試においても社会生活においても、国語の力があるのとないのとでは大きな差が出ると私に言われ続けてもいる。子どもたちも必死に勉強して臨む。

試験時間は三十五分。ちょうど解くのに三十五分間かかるような、記述式問題の多く出題されているテストである。

試験監督をしていた私は、ふと子どもたちの様子を観察した。もちろん、それまでだって試験を受ける子どもたちを眺めてはいた。しかしそれは、カンニングがないようにとにらみを効かせていただけであって、子どもたちがどんな様子かと観察していたわけではなかったのだ。

子どもたちは必死に問題に取り組んでいる。カリカリカリ…と、教室には解答用紙に書き込む音だけが響いている。だれ一人、さぼっている者はいない。諦めている者もいない。寝ている者もいない。ただの一人もいないのだ。手元のストップウォッチに目を向けると二十九分五○秒を指している。残り時間は五分である。普通の感覚でいえば、もう終わっているボーッとしている者や、諦めて机に伏している者がいて良さそうな時間帯である。なのにいない。だれ一人いない。みんな、私の言う国語は大切だという言葉にただ従っているのだ。

私は正直、気持ち悪いと感じた。自分はなんと罪深いことをしているのだろう、と。自分のやっていることが教育ではなく、洗脳なのではないかと自戒した。しかし、ある意味、教育の成功とはこういうものなのだ。教育の成功とは、いかにそうと気づかせずに、子どもたちに「別の選択肢」があることを見えなくさせるかという営みなのである。いかなる教師もこの場所からは逃れられない。

試験学力の向上を目指す教育ばかりがそうなのではない。協同学習と称してみんなで力を合わせて課題を解決することが尊いという教育においても、子どもたち全員が嬉々としてそれに取り組む状態が形成されるならば、それは「別の選択肢」を見えなくさせているのである。おそらく協同学習に嬉々として参加する子どもたちのなかから村上春樹のような才能は出づらいし、かつて多くの研究者が体現していたような寝食を忘れて学術に没頭する変人学者も出現しにくいだろう。

部活動において、練習し結果を出すことに必死になる子どもたちも同様である。それは部活動に熱中する選択肢を選ばされた故に、ゆるやかな学校生活を送るという選択肢を剥奪されているとも言える。教育の成功とはそうしたところにある。

成功している教師ほど、こうした構造に無頓着である。このことに無頓着なままに自分をいっぱしの教師だと感じるようになる。おそらく、「先生と呼ばれる馬鹿」はそんなふうに生まれていく。仕事だからこの営みをやめることはできないけれど、そのことに対する疑いを抱き、怖ろしさを抱く感性だけは持ち続けたいものである。

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