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指導言の構造

古くから教師の指導言の王道は〈発問〉だと言われてきました。素晴らしい発問をつくることが教材研究の王道であり、素晴らしい発問さえつくれば子どもたちは必然的に思考を始めるというわけです。従って、長く発問研究の本がたくさん出されてきましたし、著名な実践家の優れた発問もずいぶんと追試されてきました。

しかし、この発想は基本的に間違っています。

言うまでもなく、教師の指導言には〈発問〉と〈指示〉と〈説明〉の三つがあります(『授業づくり上達法』『発問上達法』大西忠治・民衆社)。原則として、〈発問〉とは子どもの思考に働きかける指導言であり、〈指示〉とは子どもの行動に働きかける指導言であり、〈説明〉とは授業のフレームをつくる指導言です。つまり、〈説明〉は〈発問〉や〈指示〉の前提となる指導言であり、〈説明〉なくしては〈発問〉も〈指示〉もあり得ないのです。

こう考えてみましょう。〈発問〉や〈指示〉のない授業は想像できますが、〈説明〉のない授業は想像できません。例えば、文法の学習において主語と述語の関係を説明することなしに、「この文の主語・述語は何ですか」という発問は成立しません。何をどのように書くのかという説明なしに「ノートに書きなさい」という指示も成立しません。授業において最も大切なのは、〈発問〉でも〈指示〉でもなく、〈説明〉なのです。

よく研究授業を参観したときに、教師の発問が子どもたちによく伝わらず、子どもたちが首をかしげているのを見た教師が何度も言い直しているのを見ます。「どっちがふさわしいと思いますか」と発問したときに、その「どっち」の対象となっているAとBとが子どもたちに把握されていないために、授業に混乱を来しているというような場面です。この場合、混乱の原因は「どっちがふさわしいと思いますか」という〈発問〉の文言にあるのではありません。そうではなく、この〈発問〉をする前段階の指導言、つまりこの〈発問〉の前提となっているAとBとを理解させる〈説明〉が不適切であったために、子どもたちに選択肢が理解されていないのが原因なのです。子どもたちが何を訊かれているのかわからないという表情をするとき、多くの場合、それは前提となっている事柄の共通理解が図られていないことに要因があるのです。教師がそれを何度も言い直しているわけです。

誤解を怖れずに言えば、〈発問〉などというものは「なぜですか?」「どのようにしましたか」「だれですか」「いつですか」「どこですか」「何ですか」といった5W1Hが基本としてできるものに過ぎないのです。〈発問〉とは「問い」を「発する」ことですから、基本的には日本語の問い形を超えて成立することはあり得ません。せいぜい「どっちですか」「いつからいつまでですか」「どこからどこまで移動しましたか」といった、5W1Hの組み合わせのバリエーションがある程度です。授業を混乱させないためには、その〈発問〉の前提となっている事柄がきちんと学級全体に共有化された状態をつくることなのです。その事柄の〈説明〉が的確になされたか、子どもたちに落ちているか、そこにこそ〈発問〉の成否、その〈発問〉が機能するか否かのポイントがあるのです。

〈指示〉にも同様のことがいえます。「新学力観」から「ゆとり教育」への活動型授業の隆盛によって、国語科の授業おいても〈指示〉の重要性が意識されるようになりました。「三度読みなさい」「ノートに書きなさい」「指摘しなさい」といった従来型の〈指示〉に加えて、「話し合いなさい」「交流しなさい」「結論を一つにまとめなさい」「グループで調べなさい」「わかりやすく説明しなさい」など、小集団を使っての協同学習に取り組ませる〈指示〉が多くなっているのが近年の特徴といえます。しかし、こうした〈指示〉にも、まず例外なくその方法の説明、つまり「話し合い方」「交流の仕方」「調べ方」「説明の仕方」といったやり方が説明されているはずなのです。この方法の〈説明〉が不的確であった場合、その協同学習は混乱します。この方法の〈説明〉が的確になされたか、子どもたちに落ちているか、そこにこそ〈指示〉の成否、その〈指示〉が機能するか否かのポイントがあるのです。

私たち教師がまずもって身につけなければならないのは的確な〈説明〉の在り方です。短く明快に説明できることこそが、授業の成否にとって、子どもたちの学力形成にとって最も重要なポイントなのです。

ある授業において、次のような指導言があったとしましょう。

このとき、亜希子は「うれしい」とか「楽しい」とかいう「プラスの感情」を抱いたでしょうか、それとも「悲しい」とか「悔しい」とかいう「マイナスの感情」を抱いたでしょうか、これに対してみんなは両方あるって言うんだね。(子どもたちを見渡して)それじゃあ、もっと突っ込んで訊くよ。「プラスの感情」 と「マイナスの感情」では、どちらかというとどちらが大きいだろうか。ノートに「プラス」か「マイナス」とどちらかを書いて、その下に理由を「~だから」という形で一文で書きなさい。

この指導言において、〈発問〉は「『プラスの感情』と『マイナスの感情』では、どちらかというとどちらが大きいだろうか。」という一文だけです。また、「ノートに『プラス』か『マイナス』とどちらかを書いて、その下に理由を『~だから』という形で一文で書きなさい。」というのが〈指示〉に当たります。しかし、この指導言を機能させているのは、決してこの〈発問〉と〈指示〉ではありません。これまでの授業内容をまとめて「プラス」と「マイナス」の両方があるのだという確認、そして「それじゃあ、もっと突っ込んで訊くよ。」という今後の進んでいく授業の展望の確認、この二つこそがこの指導言の核なのです。そしてこの二つは、言うまでもなく、授業のフレームを構築する機能をもっている指導言、即ち〈説明〉なのです。私たち教師は、自分が発している指導言の一つ一つについてこのようにな細かく分析する必要があるのではないでしょうか。

さて、指導言を考える上で、もう一つ注意しなければならないことがあります。それは指導言というものがコンテクストに支配されやすい側面をもっているという点です。コンテクストとはテクスト外という意味ですが、ここでは指導言の文言以外の情報や空気と考えるとわかりやすいでしょう。つまり、その指導言が発せられる教室環境や、その指導言を発する教師と子どもたちとの人間関係の影響を受けやすい、ということです。

読者の皆さんにこういう経験はないでしょうか。四月に新しい学級を受け持ちます。前の学級でしたのと同じ説明をしているはずなのにいま一つ通じない、やたらと細かなことを質問される、それに応えているうちに時間が過ぎてしまう、前の学級よりもこの子たちは理解力が低いのかなあ……と感じる、こんな例です。

こうした現象が起こるのは、決して新しく受け持った子どもたちの理解力が低いからではありません。前の学級の子どもたちはもう一年近くもあなたのものの言い方、考え方、指導言の在り方に慣れてしまっていたために、必要以上に説明しなくてもツーカーで理解してくれていたのです。少々厳しくいえば、あなたの授業はあなたの授業に慣れた子どもたちに甘えることによって成立していたのです。こうした現象を勘違いして、「今年の子どもたちはちょっとなあ……」と感じてしまう事例は殊の外多く見られます。ぜひ心構えとしてもっておきたい原理です。

研究会で模擬授業や講座の登壇機会を多くもつ人たちはこの構造を熟知しています。だからだれにでも伝わる、わかりやすい指導言を発することができるのです。皆さんもたまには他学級で授業をしてみて、自分の指導言が通じるか否かを点検してみると良いでしょう。

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