(随筆)私たちが「青春」と感じるもの。いつも舞台と共演者は用意されていた
もし30年先の未来を想うなら、30年昔に自分たちが「青春だった」と思えたことを、送り届けてみてはどうだろう。青春には記憶があり、感情があり、思い出がある。
私たちが「青春」だと感じたあの頃は、いつも何かしらの舞台に立たされ、必ずそこには共演者がいた。
修学旅行という舞台があり、先生や友だちという共演者がいた。舞台は部活のときもあれば受験のときもあった。同じ音楽を聴き、一緒にライブへ行くことも舞台のひとつだった。
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いま企業は、生活者にとっての「推し」になれるよう頑張っている。そんな話をここ数年見聞きするようになった。社会的意義のあるテーマに取り組んでみたり、世の中に問題を提起してみたりと色々だ。
校則では髪型の自由を奪われ、就職活動ではリクルートスーツ着用が半強制だった。もし髪型が自由だったら。もし就職活動がもっと自由だったら。
「もし、×××が〇〇だったら、世界は変わっていただろうか?」
そんな「もし」に挑戦することで、30年先の未来をもっとより良くできるんじゃないだろうかと、きっと考えているのだと思う。
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でも、あくまで想像だけど、企業のそういった取り組みは生活者にとっての「推し」にはならないのではと思う。あくまで自分の考えだけど、その会社の商品を買って応援する「投票」の動機は、私のなかからは生まれない。
企業を推す、と考えたとき、遠くのどこかで実施されたプロジェクトの良し悪しはほとんど関係ない。そうではなく、舞台と共演者を集め、青春を体験させてくれる企業を、きっと私は「推す」だろう。
舞台が用意されて、共演者が揃わなければ、青春は味わえないのだ。
「もし~だったら」という、ifの未来をつくることは素晴らしいのだけど、自分ゴトにならなきゃ、推せないんだなあ……。
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そこに対して企業は「余白をつくる」と公言することが多い。生活者とともに、一緒の舞台に立ち、共演者になろうとしている。いわば「一緒に社会をもっと良くしよう!」と舞台をセッティングし、自ら共演者になろうとしているのだ。
私はまだその舞台に立ったことはないけれど、その日が来るのを楽しみにしている。もう一度、青春できるかもしれない日を夢見ている。結果、推しの企業の社会的な取り組みが、未来をより良くするかもしれない。
もちろん私たちは、舞台を用意する側に回ることもできる。
未来のために、私たちはもっともっと青春する。
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