【小説】コウレイシャカイ 第八話(創作大賞2023・イラストストーリー部門応募作品)
「牛丼買ってきたんですけど、今何人いますか?」
美味そうな匂いが立ちこめる箱を両手で抱えているフレイヤが尋ねると、治安部隊の隊員達が歓声を上げた。彼女に続いて同じく牛丼の箱を抱えた鹿嶋も本部に入ってくる。
「悪いな、バイフィールド博士、鹿嶋少年。今本部にいるのはわたしを含めて三十五人だ」
「じゃあ余裕で足りますね。一応五十個買ってましたから」
富寿満に応えてフレイヤと鹿嶋はテイクアウトの牛丼が入った箱をテーブルに置き、隊員達が礼を言って一つずつ取っていく。フレイヤも自分の分を取って席に着くと、
「フレイヤさん、いいんですか?」
鹿嶋が小声で尋ねてきた。
「うん。まだジャンヌさんのシフトが終わるまでには時間があるし、何があるかわからないから食べられるときに食べとかなきゃ。戦いになるといつ食べられるかわからないから」
「そうじゃなくて······」
「······?」
言いにくそうにする鹿嶋にフレイヤが首を傾げると、彼は申し訳なさそうに眉を下げて、
「こんなこと言うのも失礼ですけど、前に『研究者は貧乏だ』って言ってたじゃないですか。なのに、今回は全額出してもらっちゃって、本当に大丈夫なんですか?」
「あれ、お金の話か。それは全然大丈夫。『お世話になってる人には礼を惜しむな』ってのが両親の教えだから」
それなのに、あの人達は私がお礼をする前に死んじゃったんだけどね。
その言葉が流れ出てきそうになって、フレイヤは慌てて口をつぐむ。こんなことを鹿嶋に言ったところでどうしようもない。巻き込んでいる立場で、変えようのない身の上をさらけ出しても迷惑だ。それでも、鹿嶋は嫌な顔一つせずに話を聞いてくれるだろう。この二週間ほどで彼がそういう人だとわかっていたし、だからこそフレイヤはそこに甘えそうになってしまう。
(······疲れてるのかな)
つゆのしみ込んだ米を頬張り、そのいつも以上の美味さにフレイヤは自らの消耗を実感した。みんなに協力してもらっているのに、慰めてほしいだなんて贅沢すぎる。それでも心のどこかでそれを渇望しているのは、単に自分が疲れているからだ。全てが解決すれば、きっと身も心も休まる。だから今は、甘えられない。
そうわかっているのに。
「じゃあ、今すぐは無理ですけど、俺にもフレイヤさんに何かお礼をさせてください」
「······へ?」
「俺がここまで戦ってこられたのはフレイヤさんのおかげですから。といっても、ちょっといいものをご馳走するぐらいしかできませんけど······何食べたいか考えといてくださいね」
「ホントに?じゃあそのときはお言葉に甘えよっかな」
軽く受け流そうとして、すぐさま自分が嫌になった。『ヒサ』という下の名前しか知らない彼の幼なじみをダシにして自分の失敗の尻拭いに利用しているのに、これ以上何かをさせるなど間違っている。早く全てを終わらせて、鹿嶋を元いた日常へ帰さなければならない。そう思うと悠長に味わうのがためらわれて、フレイヤはつゆにほぐされた米を肉とともにかきこんだ。それを見た鹿嶋が、フレイヤのことを単に早食いの女とだけ思えばいい。だが彼がそういう人ではないことは、既に知っている。
(······ヒサ?もしかして日咲?)
「フレイヤさん」
隣に座る鹿嶋が何事かを言いかけたとき、
「バイフィールド博士、少し来てくれるか?」
やや離れた位置から富寿満に呼ばれ、フレイヤは一瞬鹿嶋を見やる。鹿嶋が促したのを受けてフレイヤは富寿満に近づき、彼女は手でついてくるよう合図をして歩きだす。
「どうしたんですか?」
「みんなの前ではできない話があってな。特に鹿嶋少年の前では」
そう言った富寿満に続いてフレイヤが入ったのは女子トイレだった。
「ここまで来ればいいだろう。それでだ、バイフィールド博士。あなたは降霊研究のために人体についても豊富な知識があったな」
「······富寿満さん、わかりましたよ。確かに治安部隊は男性が多いですし、他のみんなの前ではできない話ですよね。ましてや男子高校生の前では尚更です」
「いや、アメリカではどうなのかは知らんがそういう話ならきっとわたしの方が詳しいぞ。留学中に興味本位で東洋医学の授業を取ったらスウェーデン人の留学生がいて、授業内容とその子の話のダブルパンチだったからな」
「······え?違うんですか?そういう話じゃない?」
「無理にボケなくていい。疲れているのはわかっている」
「いや、その、ボケたつもりは······」
いつも通りの知的で冷静な面持ちを崩さない富寿満に対してややバツが悪くなったフレイヤは一つ咳払いをし、
「それで、どうしたんですか?確かに、降霊の条件を探るために一通り人体については勉強しましたけど······」
「ああ、現在は音と光による退霊を採っているが、降霊者に直接薬品を注射するような方法は可能なのか?論文を読ませてもらったが、そちらの方が効果が高いそうだな」
「そうですね······可能です。降霊者を拘束できればそちらの方が確実です。ですが半年前の事件の後から作り始めた薬品ですし、この間の暴動で保管容器が破壊されてしまったので、今は手元にありません」
「そうか······」
「······ごめんなさい、何の役にも立てなくて」
呟いたきり細い顎に指を当てて黙ってしまった富寿満に謝ると彼女は首を振り、
「そんなことはない。また別の方法を考えよう」
「むしろ良かったよ」
いきなり前向きな声がして視線を移すと、個室から鶯色の髪をした若い女性が現れた。
「エディソンさん······女子トイレ入るんですか?」
「許してくれ、この姿で男子トイレは入れない。それで、その薬品をまた作れるに越したことは無いが、そうではなかった場合にはやはり僕が今作っている退霊装置が必要だろう?僕としてはまだ仕事があって良かったよ。僕の位相間現象に製薬機械でもあればもっと良かったんだがね」
言いながら手を洗ったエディソンはその場を立ち去る。
「薬の位相間現象か······」
考え込む富寿満に若干申し訳無さを感じながらも、フレイヤは疑問を口にする。
「薬品型退霊についてなら、みんなの前で話した方がいいんじゃないですか?」
「それはそうだが、エディソン氏がいることがわかっていたからあえて違う話題を振ったんだ。本題は別にある」
言い終わると富寿満はフレイヤの眼を見つめ、一気に彼女に顔を近づける。治安部隊を束ねる鋼鉄のような隊長の意外な甘い香りにフレイヤが驚いている内に、富寿満は薄い唇で囁いた。
「降霊研究が凍結される可能性がある」
予想外のタイミングで、予想通りのことを告げられた。
ダレイオス事件から。もしくは駅前での包囲戦から。またはオープンキャンパスでの暴動から。あるいは半年前の事件から。降霊研究が危険を招いていることはわかっていたし、いつかこんなときが来るのではないかと思っていた。そして、それは自分のせいであることも。それでも富寿満の言葉はフレイヤの心を貫いて、塞がらない大きな穴を開けた。
「そう、ですか······」
できるだけ平静を装おうとしたが、上手く声が出なかった。あの富寿満が少しだけ沈んだ表情をしているのを見て、自分がどんな顔をしているのかを悟った。
「知っての通り研究予算を決めるのは治安部隊だが、最終的に続行可否を決めるのはアカツキ市長だ。だから、市民の支持が得られない研究は却下される。そこまではいいな?」
「······はい」
振り絞ったような声しか出ないのが情けなかった。それでもフレイヤは、事実を受け入れなければいけない。
「降霊研究は市民を危険に晒した。市議会でも議題に上がっている。そしてわたしは立場上公平を期さなければいけない」
「······わかってます。皆さんの支持を得られないし、続けていい理由もありません」
「結構。だがあなたがわかっただけでは問題は解決しない」
「······鹿嶋くんですよね」
「ああ。彼は幼なじみを降霊させる条件で我々に協力しているが、研究が凍結されたらこれ以上危険な目に遭わせる訳にはいかない。もちろん謝礼金は払うが、わたしから謝罪しておく」
まるで凍結が決定しているような口ぶりだった。いや、ほとんど決定していて、それでも『可能性』と表現したのは不確定なことを断言できない富寿満の真面目さなのか、はたまた彼女の優しさなのか、フレイヤには判別できなかった。
「······正式に決まったら教えてください。そのときは私から鹿嶋くんに伝えます」
「承知した。わたしはこれから市役所で市長と会談がある。とりあえずあなたも今できることをしよう」
わかりました、とフレイヤが応じて二人は皆の元へ戻る。オープンキャンパスの日から行方不明だったジャンヌ=ダルクはなんと被験者のバイト先でそのまま働いているらしく、宮沢佳奈美に降りた降霊者が彼女を引き込む前に、フレイヤと鹿島で共に保護しに行くことになっている。サラディンもまた居場所が判明したため、そちらは葛野と家康が向かうのだ。
(今は、できることをするしかない)
言い聞かせて、差し入れの匂いに満ちた大会議室に入った瞬間、
「ちょ、葛野さんかけすぎですって!」
「あ?これぐらい普通だろ。お前もかけろ」
鹿嶋と葛野が七味の小袋を手にして騒いでいる。葛野の牛丼を見ると、既に辛子の赤い山ができあがっていた。ちゃっかり牛丼を確保していた家康が通りがかりにそれを覗き込み、
「葛野、刺激物の摂りすぎは体に良くないぞ。わしも薬膳や調薬を少々かじっておったが、これは良くない」
「いや、一回食ってみろって。ほら」
「葛野さん!駄目ですってこの量!絶対かけませんからね!」
葛野に押しつけられた七味を家康からごく自然な動きで手渡され、かといって食べ切る自信も無いのか結局大量の小袋をポケットにしまう鹿嶋は困っているようだったが、何だか楽しそうに笑っていた。こうして見ればやはりただの高校生だ。
(ごめん、鹿嶋くん)
もう何度繰り返したかわからない謝罪を、フレイヤはまた一つ胸の内で積み重ねた。
きっかけなんて無かった。
出会ったときから優しかった。不運にも去年のクラスメイトが誰一人としていなかった新しい教室で、たまたま隣になっただけ。それでも、向こうからしたら磯棟はただの知り合いが少ないかわいそうなやつに過ぎないのに、鹿嶋は彼女が孤立しないよう気にかけてくれた。
背中の火傷のことも、修学旅行も、大きな出来事ではあるがそれで好きになった訳ではない。何でもない日の、何気ないやりとり。くだらない会話の、さりげない優しさ。それが磯棟の心を加速度的に惹きつけて、最初の席替えでまた隣どうしになったときは運命なんじゃないかと舞い上がった。それでも、鹿嶋は誰にだって優しいため、自分への気持ちを確信することはできなかった。
自分の好意をいつ伝えればいいのだろうか。もし自分と鹿嶋の気持ちが同じではなかったら、今までの関係には戻れないのではないか。臆病な磯棟はそればかりに悩んでいたが、そこに別の女が現れた。誰かに取られるなんて絶対に嫌だった。だが今更告白するためには、何かきっかけが欲しかった。
そして五日前、ダレイオス事件に巻き込まれた。鹿嶋は磯棟のために傷だらけの体で走ってくれた。本当に嬉しかったし、本当に怖かった。一度は命すら差し出そうとしたことからも、鹿嶋の中で磯棟は大きな存在なのではないかと思った。だがダレイオス曰く、鹿嶋には元々大切にしていた少女がいて、その想いが届くことはもう無いらしい。新しく現れた美女のことを放っておくことなどできないのだとも聞かされた。自分こそ『誰か』なのではないかと感じて、自己嫌悪に陥った。
それでもやはり、これはきっかけだった。
今日こそ伝えようと思い、鹿嶋に放課後時間があるかを訊いた。今日は用事があると言われ、どうしたのかと訊き返され、また後でいいと返した微笑みが、ぎこちなくないか不安だった。そして授業が終わり、学園祭の準備を済ませ、校門を出た鹿嶋が白衣を纏った金髪の美女が待つ空色の軽自動車に乗り込むのを見たとき、磯棟の心は限界を迎えた。
「······で、実理ちゃんはここでヤケ食いしてるって訳なんだ」
真剣な面持ちで話を聞いてくれた宮沢が向かいの席で表情を緩めて呟き、磯棟はパスタを口に詰め込みながら頷いた。
「なるほどね〜。ワタシも恋愛について大して詳しくはないけどさ」
宮沢が前置く間に麺で胸が支えそうになった磯棟は慌てて水を流し込み、
「早く告りなよ」
盛大に吹き出した。
「あ〜ちょっと!実理ちゃんギャグみたいなことする!」
大笑いする宮沢に磯棟は紙ナプキンで口元を拭いながら、
「笑い事じゃないですよ!大変なことなんですからね!」
「ごめんごめん、わかってるって。でももうタイミングは来てるんじゃないかな。少なくとも積めるだけの好感度は積みきったと思うよ?」
「そう、ですかね······というかあたしの話ばっかりじゃ難ですし、宮沢さんの話もしましょうよ。どうしてここのファミレスに来たんですか?ホントに偶然?」
「うーんどうだろう、実理ちゃんに会いたいとは思ったから偶然じゃないかもね。それに、ワタシもきっかけ待ちって感じだし」
「······?」
「あ、こっちの話ね。で、メインの目的は人に会うこと。ここでバイトしてる人で、もうすぐシフトが終わるはず」
宮沢が言い終わったそのとき、お疲れ様でした、と扉越しでもわかる明るい声がして従業員出入口が開いた。そこから出てきた明るい茶髪の若い女性は店内を軽く見回して磯棟と宮沢がいる席を発見すると、まっすぐに近づいてくる。
「宮沢さん、お待たせしました。これでもちょっと早く上がらせてもらえたんですけど、すみません」
「全然平気。あ、紹介しとくね。こちらジャンヌさん。ワタシの······知り合いかな」
「はじめまして、ジャンヌ=ダルクです」
(ジャンヌ=ダルク······って、降霊研究とか?)
疑問をもちつつも宮沢の隣に座って握手を求めてくる女性の手を思わず取ってしまった磯棟も名乗ると、
「ああ、あなたが!宮沢さんからあなただけは傷つけないように言われていますから、安心してください」
「え、あ、はい······」
訳がわからない磯棟が宮沢に目を向けるが、彼女に答えるつもりは無いらしい。自分のコップに注がれた水を飲み干すと立ち上がり、
「じゃあワタシ達は行かなきゃ。実理ちゃん、鹿嶋くんのこと頑張ってね」
「が、頑張ります······ああっと、宮沢さんとジャンヌさん?はこれから何をするんですか?」
笑顔で立ち去ろうとする宮沢と純真そうな顔立ちのジャンヌからなぜか言い表しようの無い不安を感じ、磯棟は尋ねた。しかしジャンヌが困ったように視線を投げかけ、それを受けた宮沢はいたずらっぽく笑って答える。
「きっかけ作りとか」
「······降霊研究を支援した目的、ご存知ですか?」
支倉孝臣。窓際に立ってアカツキ市の街並みを見下ろす壮年の男の名だ。陶磁器戦争の終戦直後に立ち上げられた研究開発特区計画に名乗りを上げ、今尚この街の市長を務めるその男は、応接用のソファで茶をすする富寿満に穏やかな口調で尋ねた。
「軍事転用のためですね。科学の望ましい姿とはいえませんが」
「ええ、まったくです。ですが科学を発展させるのはいつも戦争ですよ」
「流石、あなたが言うことは重みが違う」
兄は軍需企業からの熱烈な支持を受けている現防衛大臣、従姉は敗戦国である中華帝国のお抱え科学者千人を半ば拉致するように研究開発特区へ招き入れた元文科大臣。決してクリーンとは言えない華々しい一族の端くれである支倉に富寿満は皮肉をかましてやったつもりだったが、当の本人は意にも介していないらしい。穏やかな笑みを崩さないまま、
「今さら旧時代の英雄達······正確に言えば彼らが率いていた軍隊を動員したところで、電子機器をフル活用した現代の戦争では何の役にも立たない。誰もがそう思っていました。でも先の戦争の最終局面、中華帝国の最後っ屁で状況が変わった。全世界に浸透しきった最新兵器はただのガラクタとなり、通信機も弾薬も果てたペキン陥落戦も最後は殴り合いだったようです」
「······『ようです』ではない。あれは本物の殴り合い、肉で骨を砕く殺し合いですよ」
「これは失礼。富寿満さんは外務省中国語派閥の斡旋で、当時ペキンに留学中でしたね。外交官になるはずだったあなたが地方都市の役人になったのは戦争による勢力均衡の崩壊が原因か、それとも戦死した恋人を弔うためか······」
「何が言いたいのですか?」
予想外に声が苛立っており、富寿満は自分に驚いた。それに気づいたのか支倉はやや柔和な声で、
「すみません、気を悪くしないでいただきたい。私が言いたいのは、状況が変われば当然方針も変わるということです。日本に招き入れた研究者だってはじめはやりたいことを何でもやらせてもらえる厚待遇でしたが、やがて各国の諜報員から狙われるようになると研究施設に軟禁状態、それが国際的に表立って批判されると護身目的で銃の所持が認められるというように変化しました。そして十年経った今、研究者が好きなことを自由にできる風潮は止みつつある」
「······降霊研究の中止はその影響ですか?」
「ええ。軍事転用が可能とわかった今、研究者は障害になるだけですから」
支倉は何の躊躇も無く言い切った。例え目の前にいるのが富寿満一人ではなく世界中のメディアだったとしても、この男は表情を変えずに同じことを言うだろう。
「············」
口を閉ざした富寿満を不審に思ったのか、支倉は窓の外に視線を置いたまま、
「どうしました?それほど気に入りましたか?降霊研究のバイフィールド博士を。確かにあなたはペキンで、彼女はロサンゼルスで、それぞれ戦争の地獄をくぐり抜けた同士ですが」
「いいえ。隊長という立場上ありえません。ですが同時にこの立場として、そのような方針には反対です。わたしが留学中に学んだのは、科学を兵器としてしか捉えない国は滅びるということですから」
「流石、あなたが言うことは重みが違う。では注視していきましょう、この国の行く末を。それまでにこの街が無事でいれば」
「······?」
今度こそ真意を汲み取れなかった富寿満は立ち上がり、窓際に寄って外を確認する。そして状況を理解した。
支倉は執務卓の電話機を取り、先ほどとは別人のように厳粛な声色で指示を出す。
「緊急連絡システムを作動させろ。区域は市内全域、警戒度は最大だ」
老婦人の荷物を持ち、幼子が道路を渡れるよう誘導し、少女を囲む不良集団を叩きのめす。行動を観察した二十分間だけで、その男の人柄を葛野と家康は理解していた。
「······神っていう形容表現は、ああいうやつに使われるんだな」
「お、それならばわしも神だぞ。孫が日光に祀ってくれたわ」
「······そういうことじゃねえんだよ」
「何じゃその冷ややかな眼は?何も間違ったことは言っておらんぞ」
「だからそういうことじゃねえんだって。ほら、行くぞ」
これ以上取り合っても仕方がないので葛野は男の元へ歩きだし、家康は首を捻りながらついていく。
「あんたがサラディンだな?」
ベンチに座っていても、近くで見るとかなり背が高い。といっても彼自身ではなく被験者の身長ではあるが、その男にやはり葛野は見覚えがある。降霊者の一人、第三回十字軍の主役サラディン。ダレイオス事件の折、金の兜の戦士達を率いて治安部隊を援護した男だ。
「君は······あのときの。それに家康まで一緒なのか」
向こうも覚えていたらしいが、決して表情は崩さない。サラディンとは、親睦を深めるために会いに来たのではないのだから。
「サラディン殿、いきなりですまんが、折り入って頼みがある」
家康が切り出すとサラディンは小さく頷き、
「君達と一緒に宮沢と······あの怪物と戦えということだろ?」
「そうじゃ、話が速くて助かる」
「あれの居場所はわかっているのか?」
「アカツキ港の沖合にデカい木造船が浮かんでいる。それはスレイマンの位相間現象なんだが、奴らはそこに潜伏してやがるんだ。そこを叩くのに味方が欲しい」
葛野の説明にサラディンはそうか、とだけ呟き、それから徐に立ち上がって、
「私は戦わない。あのときはダレイオスに脅かされた無関係の人々を助けるために参戦したが、私から直接敵を倒しにいくことはしたくない」
そう言い置いて立ち去ろうとする。
「なぜだ?あいつらを放っておけば、また危険な目に遭うやつらが出るのは確実だ。なのにどうして戦わないんだ?」
葛野が去り行くサラディンに尋ねても、彼は何も答えない。
「待ってくれ!」
見る間に遠くなっていく大きな背中を追いかけようとしたときだった。
「怖いのじゃろう?」
単純な問い掛けが、家康から向けられた。その静けさと重たさに、葛野は小さく息を呑む。
「私は『イスラームの英雄』などと呼ばれているらしい。だからという訳ではないが、怖いものなどない」
「強がらんで良い。わしだって怖いのだ。国や民を守るためなら自分の命など容易く使う。だが、わしやあなたは、他者の命さえ使う立場にあるのだ」
家康の言葉に、気づけばサラディンは足を止めていた。表情を翳らせた家康はそれでも歩み寄り、さらに核心を突く。
この二人にしか、共有できない核心を。
「命を使うのは怖い。位相間現象でさえ、わしは命を使って命を奪う感覚がする······それなのに、戦う度にわしら降霊者に体を使われている者の命は危険に晒される。他者の命がわしらの都合で脅かされる。それが怖いのじゃろう?」
「······だとしたら、尚更戦えない」
「それでも」
紡がれる言葉に乗っているのは、彼が生きた歴史だ。だから葛野は一言も発さず、家康の人生にこの場を委ねる。
「やらねばならんのだ。逃げれば戦いは終わらない。終わらなければ、時間が経つに連れ彼らの自我はわしらに塗り潰される。どの道、わしらはこの時代にいてはならんのだ。ならせめて、誰も傷つけない内に終わらんか?誰も傷つけさせない内に終わらんか?あなたがいれば、必ずそれができる」
(······家康、そこまで考えてたのかよ)
サラディンは何も言わなかった。だが葛野には、あの団地に駆けつけて戦った男が、家康の想いに応えないとは思えなかった。
沈黙に満ちた空間へ、不意に着信音が混じる。葛野は富寿満からの電話であることを確認し、すぐさまこれに応じた。
『葛野、家康公はその場にいるか?できればサラディン王にも聞かせてほしい』
葛野がスピーカーに切り替えると、家康とサラディンの意識がこちらに傾いた。それを待つように間を取ってから、富寿満は早口で告げる。
『アカツキ港沖の木造船が消滅した。それから、あと十秒ほどで緊急警戒情報が発表される』
「······まさか、スレイマンが活動を開始したのか?」
『それだけではない。敵勢力全体が動いている。さっき隊員全体に連絡したがお前だけ反応が無いから電話した。街中で位相間現象の敵兵達が市民を襲っているから、お前は早くサラディン王を味方につけろ』
「それに関しては問題ねえ······はずだ」
言いながら葛野はサラディンを見やるが、彼の視線は周囲に向けられていた。正確には突如として現れた、自分達を取り囲んでいる銀の甲冑の騎士達に。
『おい、どうした?』
「なあ富寿満、ジャンヌ=ダルクはどうなったんだ?」
尋ねられるが、答える代わりに葛野は問いかけた。その会話は既に耳につけた通信機に切り替えられ、スマホをしまった手には拳銃が握られていた。サラディンは半月刀を、家康は日本刀をそれぞれ握り、にじり寄る騎士達と対峙している。
「ここにいます」
よく通る声に騎士達は道を開け、その真ん中を明るい茶髪の女性が進む。その手に握られた槍を視認した瞬間、サラディンの戦士と家康の武士が一挙に展開された。
「てめえが······ジャンヌ=ダルクだな」
「そうです。早速ですが、あなた達は排除させてもらいますね」
言いながらジャンヌは手にした槍を一回しして持ち替え、その先端を葛野へ向けた。
「神様がそうおっしゃるので」
最初はただの渋滞かと思っていたが、富寿満からの連絡と市役所からの警戒情報を受けて状況を察したフレイヤと鹿嶋は空色の軽自動車を降りる。後部座席の四足歩行型を起動しながら渋滞の先頭で誰も死んでいないことを願うフレイヤの心は、あまりにも早く打ち砕かれた。
向こう側から走ってくる人々の衣服には、赤いものが滲んでいた。ビル風に乗って鉄のにおいが流れてくる。
「······フレイヤさん、行きましょう」
呼びかけて、鹿嶋は人流に逆らい前へ進む。ジャンヌが敵になったことは既に聞いた。フレイヤの現在の目的は降霊者本人を止めることだ。だが、この少年がこれ以上突き進むのをフレイヤは止めたかった。降霊研究はきっと凍結される。だから君がこれ以上戦う必要は無い。そう言いたかった。
「鹿嶋くん!」
少年を呼ぶ声がする。
だが、それはフレイヤのものではなかった。
逃げ惑う人の中からまっすぐに鹿嶋に駆け寄る少女、磯棟実理。鹿嶋を迎えに行くときに何度か見かけた少女のものだ。
「磯棟!」
胸に飛び込んできた磯棟を鹿嶋は抱きとめる。磯棟は潤んだ瞳で鹿嶋を見上げて、
「あたし、ファミレスにいたら、突然歴史の教科書みたいな人達がどんどん入ってきて、みんなを殺していって······!」
「大丈夫、大丈夫だよ。きっと助かるから。泣かなくていい」
「でも、あたし、逃げようとしたら、大砲みたいな大きな音がしてビルが崩れて、目の前で走ってた人が瓦礫に潰されて······!」
泣きじゃくる磯棟の言葉は、フレイヤの願いをあっさりと打ち砕いた。誰も死なせないためにここまでやってきたのに、それはあまりにも儚い幻想だったのだと突きつけられた。そして脳裏をよぎるのは、まだ少女だった頃の光景。十年前に見て、聞いて、触れて、嗅いで、味わって、感じた、突然の戦争。残酷な事実と強烈な記憶が波のように何度も押し寄せ、フレイヤは心をつなぎ留めるのに必死だった。
だが、鹿嶋は違った。
「······行かなきゃ」
磯棟の肩を優しく引き離し、一歩前へ進む。
「フレイヤさん、磯棟を安全な所に連れて行ってくれませんか?大砲があるってことは近くにスレイマンがいるってことです。あいつは俺が倒さなきゃいけない。だから、磯棟を任せられるのはフレイヤさんしかいないんです」
「鹿嶋くん、駄目。この間の傷も塞がったばかりなのに······」
磯棟は鹿嶋の手を取ろうとするが、鹿嶋はまた一歩前へ進む。フレイヤが磯棟の手を握り、そっと引き寄せたのだ。
「実理ちゃん、行こう」
「フ、フレイヤさん······?」
驚く磯棟の手を今度は強く引き、フレイヤは鹿嶋とは別の方向へ歩きだす。駆け出した足音はすぐに遠くなっていくが、決して振り返らない。多くの死が転がる中へ走る鹿嶋に報いるには、こうしなければならない。また大切な人に会えると信じて戦う鹿嶋を見送らないためには、こうするしかなかった。
それぞれの場所で、それぞれの想いを抱えて。
この街は戦いに包まれていく。
〈つづく〉
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