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兄貴という不思議 高井三兄弟物語

こちらの投稿はツイッターのアンケートで要望が多かったネタです。noteの投稿の告知だけでなく、たまにリクエスト企画やりますので、ぜひこちらからフォローを!

「ダビスタ」ファンなら痛感するように、配合が同じでも産駒のバラツキは大きい。駿馬もいれば、駄馬もいるし、気性良しもいれば気性難もいる。(注:「 ダービースタリオン」は競走馬育成ゲーム。Wiki参照
ダビスタを持ち出さなくても、兄弟がいる方、あるいは子どもが2人以上いらっしゃる親なら、「なぜ配合は同じなのに……」と思うものだろう。

高井三兄弟、5つ上の長兄と4つ上の次兄、末弟の私の3人も、ずいぶんと毛色の違った兄弟だ。たぶん、配合は同じだと思うのだけど。
今回は「なんでここまで違うのかねぇ」という愉快なエピソードと、実は兄2人に受けた影響は大きかったという思い出話をツラツラと書いてみる。
しかし、ツイッターのリクエストが最多だったから書きますけど……。
これ、ニーズあるのか?
根本的な疑問を抱えつつ、ひとまず予備テキストとしていつものを。ま、要は貧乏な家庭の三兄弟だったってことです。

全くタイプが違う2人の兄貴

まずは三兄弟(とオマケ)の得意・不得意をご覧ください。

独断と偏見で星をつけたので一部読者(2~3人)からクレームがつきそうだが、まあ、だいたいこんな感じだ。
キャッチフレーズ的にまとめると、

長兄=石橋を「叩いて割る」男
次兄=天性のセールスマン
末弟=要領の良いお調子者

といったところだ。
オマケの人については、本人が昔吐いた「これで酒飲んだら俺は最低のオヤジだわ!」という清々しいほど開き直ったセリフをもって、キャッチフレーズに代えさせていただきます。オヤジは完全な下戸である。

表のとおり、三兄弟は互いに似ていないだけでなく、オヤジともあまり共通項がない。というか、明らかに反面教師にしている。誰もタバコを吸わないところが特にそう。
零細自営業者として資金繰りに散々苦労した母の口癖は「あんたらは、月々お給料がもらえる仕事につきなよ」だったので、三人とも家業を継がず、サラリーマンになった。ま、こんな現場経験してたら、継ぐわけないけど。

同じ反面教師を見ていても、三兄弟の人間性には違いが出た。
ちなみに、兄弟仲は悪くなかった。
正確に言うと、この投稿で書いたように、私が少々強硬な手段で兄のいじめをやめさせてからは、関係は正常化した。読むのが面倒な方のために要約すると、強硬手段とは「俺をいじめたら刺すぞ」と次兄に包丁を突き付けただけのことだ(ほら、読みたくなりましたよね? なかなかええ話ですよ)

包丁を持ち出す前も、仲がそんなに悪かったわけではない。誕生日に兄弟同士で100円のアイスをお互いにプレゼントしていた、というほっこり話は、ここで一度紹介している。

といっても、べたべた仲が良かったわけでもない。
ウサギ小屋で一緒に寝起きしてたわけだし、当時はガキは学年が多少離れていても「町内会単位」でいっしょくたにガヤガヤ遊んだものだった。
それぐらいの、近いような近くないような距離感だ。

遊びの達人だった次兄

ここまで書いてきてもこの原稿にニーズがあるのか確信が持てないので、やけくそ気味に思い出話を思いつくまま書き連ねてみよう。それで何とか読めるものになるような気もする。何ともならなかったら諦めよう。

まず次兄から。
子どものころ、次兄は遊びの達人だった。メンコ、コマ回し、蝉取りなどなど、なんでもござれ。もともと得意なだけでなく、勉強系の営みを人生から排除して能力値を遊びに全振りしていたから、そりゃ強いはずである。

よく覚えているのはコマ回しの離れ業だ。
私の育った地域の定番のコマはこのタイプだった。

メルカリで拾った画像なのだが、800円で売れているな…。確か当時は駄菓子屋で30円か50円だったと思うのだが。
糸を巻いてすくい投げるように回すと、コマは宙を舞い、それを手のひらや「皿」で受け止められる。看板屋の高井家にはペンキの缶がいっぱいあった。あれのフタは格好の「皿」になる。しかもサイズによって難易度に段階が付けられる。
遊びの天才の次兄は「このデカいのは3級」「これは初段」「これは3段」と「皿」サイズ別段位制を考案した。これが盛り上がり、ひところは毎日、朝から晩までコマ回しをやっていた。
最難関はジュースの王冠で、これができると「名人」だった。
王冠を指3本でつまむように持ち、ひょいっと乗せる。なかなか難易度は高い。
でも、ガキは暇だから、低学年だった私でもそのうち何回かに1度はできるようになった。みんな「名人」になってしまったわけだ。
次兄のすごいのは、次にコレを持ち出したことだった。

涙腺と頬が緩んだオジサンもおられよう。なんかのおまけでもらえた、コカ・コーラのミニボトルキーホルダーである。これ、当時と金具が違うな。もっと爪に食い込みそうなアンフレンドリーなものだったはず。
この王冠をペンチで強引に外すと、超ミニサイズの「皿」になる。直径はコマの足の太さとほぼ同じだ。
次兄は何度も練習してこれにヒョイヒョイと乗せられるようになり、「達人」の称号を手に入れた。
アホかつ、暇である。

その他、蝉を100匹ほどつかまえてきて、ついでに蚊に全身100か所くらい刺されて死にそうになったり、「当たり」つきのガムを駄菓子のプラスチック容器にため込んで、母に捨てられるのが嫌で屋根の上に隠したあげくにそれを忘れて数か月後に再発見したら染み込んだ雨水で溶けた数百粒のガムが腐った1つの巨大ガムになっていたりと、「遊び」に関する次兄のアホすぎる逸話は多い。
アホだが、実に幸福な子ども時代だな、とも思う。

幸福なアホだった次兄には、大きな弱点、私とは大違いなところがあった。勉強がからっきしダメだったのだ。
体育を除けば、通信簿には「電信柱=1」と「あひる=2」が並んでいた。
高井家は「子どもが勉強をする」あるいは「子どもに勉強をさせる」という習慣がほぼ皆無だった。
次兄についてはたった一度だけ、勉強している風景を記憶している。
私が小1、次兄が5年生のとき、「さすがにこの成績ではまずい」と思った母が、国語の勉強を見てやっていた。
すると、次兄が教科書を見ながら「ブヤに入ると」と口にした。
私が秒速で「ヘヤ、だよ、ヘヤ」で突っ込んだ。
「部屋」の読みを小1の弟に突っ込まれる小5の兄貴の哀れさよ……。ちなみに、すぐさま蹴りが飛んできた。

ちょっとフォローしておくと。
最近の次兄は通勤電車でよく本を読むらしい。人間、変われば変わるものである。ご覧のように、ちゃんと漢字も読めるようになっている。

寝言でまんじゅうを売った男

現在はともかく、次兄は「部屋=ブヤ」の調子で中学も過ごし、「ホントに行ける高校ありませんよ」という状態になった。自業自得である。
結局、某工業高校に滑り込んだが、ここでも勉強など全くしなかった。
のだが。
高校時代に次兄は「天職」を発見した。
セールスマンである。
おそらくテキトーに選んだだけなのだろうが、次兄は近所の饅頭屋でバイトを始めた。饅頭屋といっても「町の和菓子屋」みたいな店を構えているところではなく、スーパーに卸したり、店頭でケースを並べて売ったりする、そこそこの規模の業者だった。
この饅頭の店頭販売で次兄のセールストークの才能が爆発した。
実際に売っているのを目撃したことはないのだが、客に声をかけて売り倒すトーク力が高すぎて、次兄の担当する売り場の饅頭はあっという間に売り切れ、どんどん工場から追加で補充するという状態になった。

実は「問答無用で買う気にさせる」という才能の片鱗は、子どものころからあったのだ。
ガラクタを売りつけられた客の私が言うのだから間違いない。商品はその時々で次兄が飽きていらなくなったものだった。

忘れられない「商談」が2つある。
1つはメンコ。次兄が売りつけようとしたのは、ウルトラ兄弟がずらりとそろった珍しい1枚だった。それは確かにレアではあったが、交換レートは1枚対200枚という無茶苦茶なものだった。
ウルトラマン大好き少年だった私は「この1枚は、おそらく、もう二度と手に入らないな……」というセールストークに乗せられて、まんまと虎の子のメンココレクションをほぼすべて吐き出す羽目になった。
2つ目はセル画。今はどうか知らないが、昔はなぜかテレビや映画のアニメ作品の本物のセル画が流出して、マニアな店に並び、それを集めるというオタクな趣味があった。関係者の小遣い稼ぎで流出していたのだろうか。
兄2人は「カリオストロの城」なんかのセル画のけっこうなコレクションを築いていた。
セル画集めはカネがかかる。
そこで狙われたのが末弟の私だった。
次兄は、コレクションのなかから、どうでもいいものを私に売りつけた。この時も殺し文句は「この1枚は、おそらく、もう二度と手に入らないな……」だった。
提示価格は数百円だったと記憶するが、金欠の小学生にそんな大金があるはずもない。そこで次兄が仕掛けてきたのが「お小遣いが出たら払い」「お年玉もらったら払い」という某〇I〇Iのような罠だった。
10歳にもならないガキだった私はまんまと引っかかり、ある年はお年玉をもらうと右から左に債務返済に消え、半泣きになった。
この経験は、拙著「おカネの教室」でちょっと元ネタになっている。

次兄の高校時代に話を戻そう。子ども時代から辣腕セールスマンだった次兄は、饅頭売りを極めた。
恐らく、本人もあまりに売れまくるので面白くなっていたのだろう。
そんなある日。いつものように3人が枕を並べて寝ていると、次兄がはっきりした大きな声で寝言を言った。

「はい、いらっしゃい、いらっしゃい!安いよ!おいしいよ!」

そう、夢の中でまで饅頭を売っていたのだ。
あまりに発音が明瞭過ぎて、起きていた長兄と私は寝たふりかと思ったのだが、寝言のあとには寝息が続く。やはり寝ている。

「そこのおかあさん、お饅頭いかがですか!」

しばらくするとまた饅頭売りの声が響いた。長兄と私の腹筋は崩壊寸前だった。ここで長兄がいたずら心を起こした。
「じゃあ、それと、それ、もらおうかな」
なんと、すかさず返事が。
「…お買い上げありがとうございます!」
長兄が追い打ちをかける。
「千円札しかないわー。おつりちょうだい」
ここで次兄が詰まった。
「…うーん…うーん…」
夢の中でも、セールストークはできても算数は苦手なのだった。
限界に達し、長兄と私は声を上げて大笑いした。それでも次兄は起きなかった。
皆さん、寝言に話しかけるのは、甚だしく睡眠妨害になるらしいので、やめましょう。
ま、「いらっしゃい!」って言ってきたのは向こうだったのだが。

「俺はお客さんに感謝されとる!」

高校を卒業した次兄は、饅頭屋の「ぜひウチに来てくれ」というお誘いを断って、大手の呉服屋チェーンに就職した。
入社して和服の知識を勉強(!)すると、次兄はすぐトップセールスマンの道を駆けあがった。
学歴など関係ない実力・実績至上主義の世界で「数字」をあげまくった次兄は次々と大きな店に転勤を繰り返した。

次兄との忘れられない会話がある。
実家で麻雀をやっていたとき、年間の売り上げがいくら、といった話に及んだ。それは「いまどき、どうやったら和服がそんなに売れるんだ?」と信じがたいような数字だった。
子どものころ、自分自身がガラクタを売りつけられた経験を持つ私は、「アンタ、『孫の成人式に振袖を』とか言って、爺さん婆さんの虎の子の貯金を巻き上げてんだろ」と軽口をたたいた。
すると、次兄は「へッ!」とそれを鼻で笑い飛ばし、
「俺はお客さんに感謝されとる!」
と断言してみせた。
このセリフは、目から鱗、といって良い、強烈なインパクトがあった。20年ほど前のことだが、いまだに次兄の自信に満ちた口調や表情を覚えている。
次兄はその後、呉服屋チェーンの最大店舗の店長を経て、その上のブロック長まで務めた。今は現場を卒業して、本社のそこそこお偉いさんの一角を占めている。

私はこの投稿のタイトルを「兄貴という不思議」とした。
不思議というか謎という意味では、長兄より次兄の方が私には理解不能な存在だ。
子どものころから本の虫だった私には、部屋を「ブヤ」と読み間違える人生がどんなものか、うまく想像できない。小学校、中学校レベルの勉強で苦労するというのも、意味不能だった。
仕事に対する意識もまったく違う。
記者というのはおよそ銭勘定から程遠い仕事だ。経済記者だし、「おカネの教室」なんて本まで書いているが、ビジネスパーソンとして売り上げを意識したことはこの四半世紀、ほぼ皆無だ。
本の売れ行きは気になるが、売り上げというよりは部数、「多くの人に読んでほしい」という欲の方が強い。印税は有難いですが。
そんな私にとって「お客様に感謝されとる!」というトップセールスマンの職業意識を垣間見たセリフは、「営業」という仕事に対するイメージを改める良い機会になった。
ちなみに、後述するように長兄には多くの会話から影響を受けたのだが、次兄はこれ以外に大した「語録」はない。

次兄には、ある交通事故をめぐる不思議な思い出もあるのだが、それはまた別の機会に。

高井家の石部金吉

お次の獲物は長兄である。
予防線を張っておくと、こちらは次兄ほどおもしろおかしくはない。
それは、私の筆力不足のせいではない。真面目で几帳面で慎重なのが長兄の特徴だからだ。
ちょっといい加減な私、かなりいい加減な次兄とオヤジの基準からすると、「なぜ?」と思ってしまう、まともな人だ。オヤジにはよく「石橋を叩いて割る」とからかわれていたが、それほど慎重で、ちゃんとしている。

だから、男衆4人で一番麻雀は弱かった。うまくリスクを取らないと勝てないギャンブルには向かない性格である。ちなみに全盛期のオヤジは断トツで高井家最強の雀士であった。数少ない尊敬ポイントである。
ついでに小見出しの「石部金吉」、若い人のために補足すると、「いしべきんきち」と読みます。石と金、硬いもの2つが名前に並んじゃうくらいの堅物、という意味である。

兄は工業高校を卒業して、地元の超お堅い某大手企業に就職した。
今も日々、超お堅い仕事にきっちり従事しているに違いない。きっちりした反復作業が苦手な私には、とても真似できないお仕事だ。
貧乏だったので大学には進学しなかったが、長兄は次兄とは違って勉強は得意だったはずだ。高校時代、オヤジが一度、気まぐれに「クラスでトップになったら1万円やるわ」とけしかけたら、

    ク
    ラ
    ス
そしたら万円ゲット
    位
    ゲ
    ッ
    ト

みたいな貼り紙を机に掲げて、見事1位をとってみせた。

長兄は運動も得意だ。いまでもアレコレやっていて、おそらく一番年上なのに、一番体力がありそうだ。私は「運動が得意だった」と過去形なのを認めざるを得ない……。

あと、長兄は三兄弟で一番絵がうまい。これはオヤジから引き継いだ才能なのだろう。絵のうまさも、オヤジの数少ない尊敬ポイントの1つである。数パラグラフで2つも尊敬されちゃう大盤振る舞いだが、残りはあと2つぐらいしかないのでこれで5割がた消化済みだ。

兄貴の名言集

長兄から私が受けた影響は大きい。たとえばビリヤードや音楽などの趣味がそうだし、小学校からバスケ部に入ったのも、兄がやっていた影響が大きい。次兄もバスケ部だったが、それも長兄の「後追い」だろう。
長兄が「これからの時代、仕事にいるぞ!」とオヤジを騙くらかして買わせたシャープの8ビット機「X-1」は、私にとってデジタル時代の幕開けをフライング気味に体験する貴重なマシーンになった。BASICでゲーム作ったりしてました。その辺はまたの機会に。

そして、記憶が遊びに偏っている次兄とちがって、長兄にはいくつか忘れられない言葉がある。言った本人は覚えていないかもしれないが。

1つは仕事の心構え。
オヤジに拉致されて手伝い(という名の強制児童労働)に狩りだされ、兄弟はよく現場に一緒に入った。
オヤジは現場に着くとすぐ「さ、やるぞ!」と仕事にとりかかるのが常だった。とりあえずやれるところから手を付けて行き当たりばったりで作業を進めようとする。子どもへの指示もその調子。
本人はやることを把握しているつもりだろうが、ある程度やってから「いや、これ、いらないんじゃない?」とか「こうすりゃよかったのに!」と気づくことがちょいちょいあった。つまりいい加減なのである。
長兄が一緒だと、こういうことはなかった。
オヤジがせっかちに仕事にかかろうとすると、いつも「待て!」と止める。そして、こう言うのだ。

「まず段取り決めろって!段取りが一番大事だろうが!」

そう言われて初めて、毎度、オヤジは「ああ、そうか……」と面倒くさそうに打ち合わせをはじめたものだった。
それにしても、高校生に「段取り八分」なんて基本を注意される、その道20年の職人って……。
この言葉は小中学だった私には「なるほど、その通りだ!」と腹に落ちるものだった。おかげさまで、仕事に限らず、勉強や遊びでも、やたらと段取りと効率の良い人間になった。
ちなみに長兄がいないとオヤジの「とりあえず」気質は変わらず、高校生ぐらいになったころからは私が「おい、先に段取り決めてくれよ!」とご注進する役回りになった。オヤジ……。

別の「名言」の思い出は、宇宙の話だ。名言というほど大した内容ではないのだが、私に与えたインパクトは大きかった。

高井家には2階の窓から這い出るように上れる、物干し場のベランダがあった。そこそこ広くて、四畳半くらいの広さがあった。一度、5年生のときだったか、このベランダのリニューアル工事を夏休みにオヤジと一緒にやって、その写真を「工作」の宿題として提出した。
さすがにクラスで最大の「出し物」で大うけした。看板屋の息子として、数少ない良い思い出だ。

さて、そのベランダに、私が小学校2~3年生くらい、長兄が中1か中2のころのある晩、フラッと出たことがあった。
涼みに出たのか、矢田川の花火を屋根の上から見ようとしたのか、ちょっと思いだせない。ちなみに子どものころは、ベランダつたいによく屋根に上ったものだ。屋根伝いに、隣の隣の隣の家ぐらいまで遠征したこともある。呑気な昭和の風景である。
覚えているのは、その夜、星を見上げて兄貴が言った言葉だった。

「あの星の光はな、何千年とか何万年とか、むちゃくちゃ昔の光なんだぞ」

そう言われても、チビには全然意味が分からなかった。「どういうこと?」と聞くと、「星はメッチャ遠くにあるから、光が地球に届くまですげえ時間がかかる。だから、今見てるのは昔の星の光なんだ」という答えがかえってきた。
これにはもう、本当にビックリした。
そんなこと、考えたこともなかったし、「じゃ、今、光がゆらゆらしてるのは、何千年も前にゆらゆらしたのが見えてるのか!」と想像して、興奮した。星が瞬くのは地球の大気の揺らぎなので、思いっきり勘違いしていたわけだが。

この会話は、私が科学に興味をもつ大きなきっかけになった。
それからは、例えばこんな本を、繰り返し読むようになった。

ちなみにこれ、「何でも溶かす薬品は、あえて言えば『水』」「地球の裏側まで穴を掘ったら、落下速度の速さと中心部の『濃い空気』の層との摩擦で、落とした魚が焼けて向こう側に届く」といった、虚実をおり混ぜた愉快な本です。「そんなの、デキッコナイス!」。懐かしいな。本屋で立ち読みしよう。
宇宙関係の図鑑もよく見るようになった。自宅にあった図鑑には、燃えさかる恒星が小惑星を飲み込む想像図のような妙なイラストがあり、なぜかそれが怖くて、そのページを見るたび泣きそうになっていたのを思い出す。

この時に芽生えた好奇心が、のちのちの理系本漁りにつながったわけで、この投稿に記したような歩みの第一歩だったのだと思う。

もう1つ、長兄の言葉でよく覚えているのが、私が小5~6で、長兄が高校生のころのものだ。その会話は、私の人間関係のあり方にけっこうな影響を与えた。

高校時代、兄には「ヒョコイ」やら「ニクマン」やらといったあだ名の愉快な友人がいて、私はその友人たちとの学校生活の話を聞くのが好きだった。「小学校より高校の方がずっと面白そうだ」と憧れたものだ。
ある日、長兄がいつも話に出てくる友人たちと一緒に映っている写真を見せてくれた。それを見て私は、今思うととても奇妙な質問をした。

「この中で一番えらいの、だれ?」

私はその時、長兄が「そりゃ、オレだ」と答えるのを期待していた。
当時の私は校内屈指のガキ大将だった。群れの序列にこだわり、「友達」の大半に「手下」みたいな感覚をもっていた。どうしようもないバカだ。
私の質問を長兄は「は!?」と一蹴して、こう言った。

「ツレは、ツレだ。だれが偉いとか、偉くないとか、ないわ」

「ツレ」は友だちを意味する方言(?)だ。関西でも使うんじゃないだろうか。
この答えには驚いた。「グループ内の全員が対等」という関係がうまく想像できなかったのだ。威張り散らしたアホなガキ大将だったのがよく分かる。実際、その返事を聞いたときには、「アニキは偉くないのか」と軽く失望したのを覚えている。

でも、しばらくして「そういうのもアリだな……というか、その方がいいじゃないか」と思い直すようになった。
この言葉は何度も思い返すフレーズになり、それ以降、「『群れの序列』を気にするのはカッコ悪い」という価値観が私のなかで信条のように根付いていった。
今でも私はよく「高井さん、フラットですね」と言われる。
オトナなので社会通念上の礼儀は守るけれど、実際、年齢や性別、所属組織や職業・役職などの属性によって相手を値踏みしたり、態度を変えたりといったことを、あまりしない人間だと思う。というか、そういうことをする人間を忌み嫌っている。
日本は年功序列社会なので「タメ口」的でオジサンに不愉快に思われたり、逆に必要以上に軽く見られたりといったこともなくはない。
でも、「誰かと上下関係を作りたくない」という志向は多くの場合、楽チンで、付き合いの幅が広がるお得な性格だ。
ガキ大将がこの路線にコースチェンジした、いわばポイント切り替えのレバーを押したのが、長兄だった。
ま、こんな性根では、出世しそうもないけれど(笑)

兄弟という不思議な縁

おそらく、長兄と次兄、私は、兄弟でなければ、接点や共通点も乏しく、同じクラスになっても親しい友達になるようなことがなさそうなタイプだ。
それが、あわせて10畳ほどの続き間で寝起きし、一緒に遊んで、ケンカして、手伝い(と言う名の強制児童労働)に従事し、今でも帰省すれば兄の家に厄介になり、兄弟に対しておかしな表現だが、「家族ぐるみのお付き合い」がある。
バラバラの性格の3人には、「3人だからこそ」という妙なバランスがあり、おそらくどの組み合わせでも、2人より3人の方が居心地は良さそうな気がする。「2人の兄弟は戦争になるが、3人だと政治になる」といった趣旨の箴言があったやに記憶するが、誰だったかな、言ったの。
我が家が三姉妹なのも、「3人の方が面白い」という自分の経験が影響している。2人か3人かで迷ったのだが、3人目に一番変なキャラを引いて、パーティーとしての多様性は上がった。その変なヤツが、一番自分に似ているわけだが……。同じ末っ子だからだろうか。

そして、ここまで書いてきたように、特に末弟の私にとっては、2人の兄は、フライング気味にあれこれと世界を覗く「窓」のような存在でもあった。
兄弟というのは不思議な縁である。

つらつらと1万字近く書いてみて、やはり予感は当たってしまったようだ。
誰が読むんだろう、この投稿……。
ま、少なくとも2人の兄は読むだろう。
苦情は受け付けません、あしからず(笑)

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