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「コレデオシマイ」 偉人変人の末期の言葉 『人間臨終図巻』入門

本のセールストークには、「必読!」「一気読み必至!」など色々と定番がある。正直、陳腐で、あまり響かない。
だが、「これしかない」というピッタリの売り文句を持つ本もある。

「死ぬまでに、読め」

山田風太郎の『人間臨終図巻』である。

「何を今さら」という同志諸兄。そっと閉じる前に、目次からジャンプして最後の一文だけ読んでみてほしい。
未読の方々。ほんとうに羨ましい。こんな名著をこれから読めるなんて。

「天才老人」の最高傑作

「山田風太郎って誰?」というジェネレーションギャップへの備えとして、念のため Wikipediaから。

山田 風太郎(やまだ ふうたろう、1922年(大正11年)1月4日 - 2001年(平成13年)7月28日)は、日本の小説家。本名は山田 誠也(せいや)。伝奇小説、推理小説、時代小説の3分野で名を馳せた、戦後日本を代表する娯楽小説家の一人である。東京医科大学卒業、医学士号取得。
『魔界転生』や忍法帖シリーズに代表される、奇想天外なアイデアを用いた大衆小説で知られている。『南総里見八犬伝』や『水滸伝』をはじめとした古典伝奇文学に造詣が深く、それらを咀嚼・再構成して独自の視点を加えた作品を多数執筆した。

私は『魔界転生』のほかは忍法帖シリーズや明治モノのいくつか、『日記』の拾い読みやエッセイを何冊か読んだ程度で、熱烈な愛読者ではない。
例外はこの『人間臨終図巻』だ。
古今東西の著名人の死に様を蒐集したこのエッセイ、歴史的英雄から文豪、政治家、軍人、思想家、科学者、芸術家、犯罪者など収録人数は900人を超える。
短いものは数行、長くても数ページで、次から次へと人が死んでいく。そこここに風太郎翁の寸評が挟まる。
これが、べらぼうに面白い。

どれほどの傑作か、手元の文庫版の帯の推薦文を引用する。

「『人間臨終図巻』は、山田風太郎文学の最高傑作である」 五木寛之
「これは死亡記事風の素材で書かれた、膨大な短編小説群である。シニカルで辛辣で、気づくと人生の真実を目の当たりにしてしまっているのだ」 北方謙三
「ぼくは三度読みました。それぞれの年齢の時に、それぞれに面白い‼︎ 作家志望の諸君、これはネタの宝庫だよ」 夢枕獏

私が最初に手に取ったのは1987刊の単行本だった。図書館で、知らない人の項はパスする雑な読み方をしたように思う。
ハマったのは1996年の3分冊普及版からだ。以来、屈指の愛読書となった。
2011年に徳間の文庫判4巻バージョンを改めて購入し、我が家の「トイレ本」の不動のレギュラーとなった。トイレにミニ本棚を置くのは末期的活字中毒だが、とくに本書は「こもりがち」になるので要注意だ。

「自分の歳で誰が、どう死んだのか?」

初見は読み出したら止まらない。再読はどこから拾い読みしても楽しめる。
北方謙三が喝破するように、すべての死が稀代の書き手によって短編小説レベルに昇華しているからだろう。

本書は「十代で死んだ人々」から年齢順に並ぶ構成をとる。何歳になっても「今の自分の歳で誰がどんな死に方をしたのだろう」と読み返したくなる。
たとえば私は今年で47歳。同年齢でネルソン提督、大正天皇、新島襄、アラビアのロレンス、夢野久作、カミュが死んでいる。
来年には「48歳で死んだ人々」の章をじっくりと読みたくなるだろう。ちなみに聖徳太子、上杉謙信、織田信長、大久保利通、カポネ、寺山修司などなど、なかなかのラインナップである。
実年齢はちょっと怪しい121歳で亡くなった泉重千代まで収録されているから、人生100年時代の現在でも何歳になっても楽しめるはずだ。

今回はあえてテーマを「末期の言葉」に絞った。辞世や遺書をもって末期の言葉とした例もある。表題は、風太郎翁が「最高傑作」と評するある著名人の臨終の言葉である。
テーマを絞ったのは、「縛り」がないとキリがないからだ。とにかく、全ページ、ほとんどハズレがない。「末期の言葉」もすべてをカバーはしていないし、本稿で挙げた以外の傑作も多い。

大部分が引用になるので、形式を箇条書きしておく。

・『図巻』の筆法に則って年齢順に紹介
・生没年、死亡時年齢は『図巻』に準拠
・ボックス内太字が引用。地の文は高井による
・風太郎翁のアフォリズムも適宜挿入

繰り返しになるが、黙って全巻買ってしまえば良い名著であり、このnoteはあくまで試し読み感覚でお付き合い願いたい。3万字超えてますが…。

20代で死んだ人々

高杉晋作(18391867)28歳

幕末の快男児の辞世はよく知られている。風太郎節の小手調べに。

病状は進み、慶応三年四月十四日、最後の日が来た。(中略)野村望東尼をはじめ多くの知友に見まもられつつ、晋作は筆と紙を所望し、
「おもしろきこともなき世をおもしろく」
と書いた。
あとを続ける気力もないようなので、望東尼が、「すみなすものは心なりけり」と、まとめると、彼は「面白いのう」と笑って目を閉じた。
維新回天の日のちょうど一年前であった。同年十一月には、やはり天馬のごとき坂本竜馬もこの世から翔び去る。

33歳で死んだ人々

松井須磨子(1886~1919)

「カチューシャの唄」「ゴンドラの唄」などで一世を風靡した新劇女優松井須磨子は大正7年、指導者であり、不倫関係にあった島村抱月がインフルエンザで亡くなると、遺体にとりすがって泣き叫んだ。
翌大正8年1月4日夜、かつての師、坪内逍遥に遺書を書いた。

「……舞台のいろはから教えていただいた先生(筆者注・逍遥)にそむいてまで縋った人に先き立たれ、どう思っても生きてゆかれません。(中略)申しあげにくいことですが、何卒私の死体はあの方の墓へ埋めるようお取り計らい願います」
そして、抱月の二カ月目の命日たる五日の午前四時ごろ物置にはいって縊死した。
抱月には妻があったから、彼女が抱月の墓にはいることは許されなかった。
雑司ヶ谷にある抱月の墓地は、実は須磨子が買ったものであった。しかし彼女の墓は別に作られ、抱月のそばにはやがて抱月の妻がはいることになった。
同じ墓にこそはいれなかったが、結局須磨子は恋の勝利者となった。その野性的で強烈な自我でうぶな抱月をとらえた反面、周囲のすべてから総スカンをくっていたことも彼女の自殺の一因であろうが、この死によって後世彼女のイメージは浄化され、彼女と対立した連中の影をすべて薄くしてしまったからである。

36歳で死んだ人々

人生の大事は大半必然に来る。
しかるに人生の最大事たる死は大半偶然に来る。
 ーー山田風太郎

『人間臨終図巻』には死亡年齢で区切った章ごとに、風太郎翁自身や作家などの死に関する警句が入っている。これだけ拾い読みしても味わい深い。

モディリアニ(18841920)

パリのモンマルトルで貧窮の中で創作を続けたモディリアニは、肺病を病み、友人の詩人ズボロウスキーに衰弱しきった姿を発見され、慈善病院に運ばれた。

慈善病院でモディリアニは高熱を発し、大あばれにあばれ、一晩じゅう詩を朗吟し、「なつかしいイタリア」とつぶやきながら、その翌日の夕方に死んだ。
彼の子を懐妊していた愛人は、彼の死を知って、窓から飛び降りて自殺した。彼女の髪はひとふさ切りとられて、モディリアニの屍体の胸におかれた。
モディリアニは、死んだとたん、彼が天才であったことを人々に気づかせた。
彼の柩には沢山の画家や作家や女たちがつづいた。警官さえも敬礼した。それを見て、三十九歳のピカソはつぶやいた。
「見たまえ、かたきはとれたよ」

37歳で死んだ人々

ゴッホ(18391890)

精神を病んだゴッホの最後の地になったのはパリ北方の村オーヴェルだった。最後の作品「小麦畑の上を飛ぶ鴉」を描いたゴッホは7月のとある日の夕刻、ピストルで自分の胸を撃つ。

同じ宿に滞在していたオランダの画家アントン・ヒルシックは、胸から血を流しながら帰ってきたゴッホを見て、驚いて叫んだ。
「君はどこへいっていたんだ。どうしたんだ?」
「僕はもう不幸にたえられなかったので、自分を撃ったんだ」
急報によって、二十八日、四つ年下の彼の最愛の弟テオが駆けつけてきたとき、ゴッホは静かにパイプをふかしながら、「泣かないでくれ」といった。
「僕はね、みんなが倖せになるようにと思って、こんなことをしたんだ」
自分の生きていることが、みなの不幸になるという意味か?ーーテオは、医者は助かるといっている、といった。ゴッホは答えた。
「何にもなりはしない。(僕が生きていれば)悲しみはいつまでもつづくだろう」
二十八日の夜、彼は安らかに、
「僕はこんな風に死んでゆきたいと思ってたんだ」といった。
七月二十九日午前一時半、ゴッホは息をひきとった。弾は摘出されないままだった。
以来、テオは悲しみのあまり錯乱し、精神病院に入られ、その六ヶ月後にこれまた死んでしまった。
ゴッホの生前に売れた絵は、ただ一枚だけであった。

38歳で死んだ人々

マリー・アントワネット(1755~1793)

フランス革命が勃発し、オーストリアへの逃亡に失敗したマリー・アントワネットには、断頭台での処刑が迫っていた。

一七九三年十月十六日、革命広場(いまのコンコルド広場)の刑場へ向かう馬車の上で、悪罵する群衆を彼女は冷然と見下ろしていた。
(中略)
断頭台に上るとき、偶然処刑人サンソンの足を踏み、サンソンが「痛い」とさけぶと、彼女はふりむいて、「ごめんあそばせ、ムッシュウ、わざとしたわけじゃありません」と、いった。

39歳で死んだ人々

シャーロット・ブロンテ(18161855)

31歳にして『ジェーン・エア』を書いたシャーロット・ブロンテは、四人の姉弟(妹は『嵐が丘』のエミリー・ブロンテ)を失い、老いた牧師の父と暮らしていた。
そのシャーロットに、ニコルズという貧しくも平凡な副牧師が想いを寄せた。父親は2人の関係を認めなかったが、7年もの求愛の末、シャーロットは亡くなる前年に父の反対を押し切ってニコルズと結婚した。

その年の秋、シャーロットは夫と荒野を散歩していて、豪雨にぬれ、風邪をひいた。ようやく癒りかけたので、翌一八五五年の一月に人を訪問したが、それでまた悪化し、三月三十一日に亡くなった。
最後のお祈りをしている夫のニコルズに彼女はいった。
「ねえ、あたしは死なないわね? わたしたちは離れやしない。あんなに倖せだったんですもの」
日本では安政の大地震で藤田東湖などが死んだ年であった。
ただ一人残った頑固な父は、なお六年間生きて八十四歳で死んだ。

41歳で死んだ人々

川島芳子(1907~1948)

清朝の王族の娘に生まれながら、6歳でいわゆる大陸浪人の川島浪速の養女となり、日本で育てられた川島芳子は、戦時中、日本軍の諜報活動に協力し、「男装の麗人」「大陸のマタ・ハリ」などと呼ばれた。
戦後は国民党政府に「漢奸」として捕えられた川島は、自分は日本人であり、中国政府に自分を裁く権利はないと抗弁したが退けられ、昭和22年10月、死刑を宣告された。

翌二十三年三月二十五日、午前五時ごろ、北京第一監獄の刑場で銃殺刑に処された。
執行官は語る。
「刑場に連れて来た彼女は落着いていた。罪名を読みあげ、処刑の旨を伝達した。遺言はないかと尋ねたが、別に何もいわなかった。常例の死刑囚に与える二つの饅頭(まんとう)は、食べたくないといい、手にふれなかった。前方を向いて歩かせ、数歩のところで、後頭部に弾丸が撃ちこまれた」
(中略)
死体は、日本人の僧侶古川大航老師(後に京都妙心寺の管長になる)の願いにより、彼にひき渡された。
(中略)
老師は遺骸を白布につつみ、上から五色の花模様を刺繍した布をかぶせてトラックに乗せ、朝陽門外の日本人慕場に運んで、読経の下に火葬に付した。彼女の獄衣から遺書が出て来た。それには、
「家あれども帰るを得ず
 涙あれども泣く所を得ず」
と、書いてあった。

44歳で死んだ人々

チエホフ(18601904)

20代から肺病を患っていたチエホフは42歳で初めて結婚した。その時には結核は腸にまで及び、喀血や発熱、下痢に苛まれていた。『桜の園』は死の前年に書き上げられている。日露戦争が勃発したのはモスクワ芸術座でその初演が行われた10日後だった。
6月、チエホフはドイツの保養地バーデンヴァイスラーに赴くが、気温が高く、かえって体調を崩した。

二日の午後一時、彼は苦しげにうわごとをいった。それは何か、日本軍のことだった。やがて、胸の上におかれた氷嚢にわれに返り、彼は哀しげな微笑を浮かべていった。
「からっぽの心臓の上に氷をおいてはいけない」
医者が呼ばれ、酸素吸入をし、さらに新しい酸素をとりよせようとすると、
「もうよろしい。その前に僕は死ぬよ」
といった。そして、
「イッヒ、シュテルべ」
私は死ぬ、ということを彼はドイツ語でいった。それから、妻がシャンペンのグラスを差し出すと、彼特有の静かな、ふしぎな微笑を浮かべて、それを飲みほし、
「ずいぶん長い間、飲まなかったね」
といい、やがてこときれた。七月二日、午前三時であった。
彼の遺骸は、何かの手違いで、牡蠣をのせる貨物列車でモスクワに運ばれた。

51歳で死んだ人々

バルザック(17991850)

富と名声へのあこがれを原動力に、壮大なる『人間喜劇』以下おびただしい小説を、輪転機のごとく書きまくった巨人バルザックは、四十過ぎてから、富豪の貴族未亡人ハンスカ夫人と結婚する見込みがつくと、急速に創作力を失った。
(中略)
一八五〇年三月、やっと金持のハンスカ夫人と結婚したが、彼の肉体は、立っていることがやっと、というありさまで、そのうえ失明に近い状態であった。糖尿病の末期ではなかったかと思われる。六月二十日の手紙に、「僕はもう読むことも書くことも出来ない」と書いたのが最後の文字であった。
八月十八日に、ヴィクトル・ユゴーは、意識不明のまま死の床にあるバルザックを見舞った。
(中略)
そのとき、隣室では、夫人が三文画家のジャン・ジグーと姦通していたというゴシップもある。
その夜十一時半ごろ、バルザックは死んだ。葬儀の棺の房を握って歩いたのは、ユゴーと大デュマであった。

マキノ省三(18781929)

昭和3年春ごろから病床にあったチャンバラ映画の創始者マキノ省三は、なぜか自分は天神様の祭日、7月25日に死ぬ、と言ってきかなかったという。

昭和四年七月二十四日夜、彼は息子の正博に話しかけた。
「マサ公、明日二十五日やなあ」
「うん、あんな死ぬいうて、死ねへんがな」
「いや、わからんぞ」
と彼は首をふり、
「わしが映画やって十八年、正博、辞世がある。おぼえとけ。……活界に、黒く、暗く、十八年」
「それが辞世か」
「うん。……ちょっと寝るわ」
といったが、省三はしばらくして新聞記事を沢正(さわしょう)ばりに読み出した。そのうちに柱時計が十二時を打った。
「マサ公、マキノ省三は死ぬんやぞ」
「何いうてんねん」
それから省三は床上で、黒い糞を脱糞し、これをカニババという、など冗談めかしていった。正博は、明日の仕事があるから、お父ちゃんももう寝てくれ、といった。
「お前はおれのいうこと、とうとう最後まで聞いてくれなんだな。親不孝なやっちゃ。ほな、さいなら」
といって省三は眼をふさぎ、しばらくすると、頭がころんと枕からはずれて落ちた。正博はその頭を枕にあげてやろうとして、父の顔色が変わっているのに気がついた。
医者や家族が駆けつけた。省三は死んでいた。正博はさけんだ。
「今までわしと話してたんや、死んでへん!」
あとマキノ・プロダクションは壊滅し、借財の山が残された。

52歳で死んだ人々

ナポレオン(17691821)

「余が死んだら人は何というかね」
と、かつてナポレオンは部下に訊いたことがある。部下が返事に窮していると、彼はいった。
「何とも言わないさ。ただ、ふん、というだけだよ」

ナポレオンは1815年、ワーテルローの戦いに敗れ、セントヘレナに流刑となる。彼の地で病に倒れ、十分な治療も受けられないまま死の床を迎える。

五月五日午後五時、「神よ、フランス国民、私の息子、軍隊の先頭……」と、とぎれとぎれにつぶやきながらナポレオンは死んだ。そのとき左の眼から涙がこぼれ、しずかに頬をぬらしたという。

野口英世(18761928)

37歳で梅毒スピロヘータを発見し、世界的研究者となった野口はロックフェラー医学研究所のホープとして「西半球の恐怖」と呼ばれていた黄熱病の病原体を探求し、1918年、その分離に成功したかに見えた。その研究をもとにワクチンも開発されたが、その後、野口の成果には疑義が呈される。
1924年、アフリカ西南部で黄熱病が発生。野口は自説の立証をかけて現地に飛び、大がかりな研究に取り掛かったが、程なく軽い熱病を発症した。野口はこれを黄熱病に感染したものと考え、軽症で済んだのは野口ワクチンの効果だと信じた。
その後も研究を続け、野口はついにアフリカ黄熱病の病原体を発見した、はずだった。だが、発見した菌を培養し、ニューヨークに戻って研究する段取りを進めていた五月十日ごろ、急激な体調不良に見舞われる。

その日、見舞いにきたヤング博士に、野口は、自分の黄熱病症状について「どうも僕にはわからない」と、つぶやいた。それは一月に黄熱病にかかって免疫になったはずなのに、なぜふたたびかかったのかわからない、という意味で、これが彼の最後の言葉となった。
以後、彼の症状はときに軽くなったものの、次第に悪化し、五月十九日にはてんかん症状を起し、二十日には意識不明となり、二十一日正午ごろ、ひとことの遺言もなく息をひきとった。
その日のうちにヤング博士の手で遺体は解剖され、まさしく黄熱病であっったことが確認されたが、そのヤングもまた、二十七日黄熱病を起し、二十九日死亡した。昭和三年のことである。

黄熱病の病原体は野口の手法で発見可能な細菌ではなく、当時の光学顕微鏡では捉えられないウイルスによる疾患だった。

54歳で死んだ人々

ラフカディオ・ハーン(18501904)

東大で講師の座を失ったハーンは明治37年春から早稲田大学で教鞭をとった。彼には日本人の妻節子との間に四人の幼子がいた。

九月十九日に、彼は突然狭心症の発作を起した。彼は胸をおさえて節子にいった。
「私、新しい病気、得ました。……この痛み、もう大きいの、参りますならば、多分、私、死にましょう。私、死にますとも、泣く、決していけません。小さい瓶、買いましょう。三銭、あるいは、四銭くらいの、です。私の骨いれて、田舎の寂しい小さな寺に、埋めて下さい。私死にましたの、知らせ、いりません。もし人が訊ねましたならば、はあ、あれは先ごろ亡くなりました。それでよいです。あなた、子供とカルタして遊んで下さい」
(中略)
二十六日夕方、庭で煙草をのんでいたハーンは、薄闇の中から座敷に上がって来て、蒼ざめた顔色で、
「ママさん、先日の病気、また参りました」
と、いい、
「人がくるしがるのを見るの、不愉快でしょう。あなた、あっちへいって、なさい」
といったが、節子はびっくりして、彼をベッドに寝かせた。
寝てしばらくすると、もうハーンの息は絶えていた。その顔には苦痛の色はなく、微笑の影が残っていた。
旅順では日露両軍が死闘をつづけているころであった。

大西滝治郎(18911945)

特攻作戦の生みの親と言われた大西は、最後の最後まで、特攻精神による徹底抗戦を主張した。しかし、ついに1945年8月15日、日本は降伏。その日、大西は渋谷南平台の海軍軍令部次長官舎で慟哭する姿を目撃されている。

翌十六日未明、彼は官舎で一人軍刀で腹を切った。急を聞いて、当時海軍航空本部嘱託であった児玉誉士夫が駈けつけると、おれは特攻で死んだ連中にわびるために苦しんで死ぬ必要があるのだから、介錯は要らぬ、といい、明け方まで苦しんで死んだ。
(中略)
この大西に愛された児玉誉士夫が、後年アメリカのロッキード社のコンサルタントになり、いわゆるロッキード事件に連坐しようとは。……児玉みずから「日本海軍の敵であったロッキードのコンサルタントとなった天罰だ」と悔いた。山本五十六の搭乗機を撃墜したのはロッキードP38であったからである。

55歳で死んだ人々

伊藤整一(18901945)

1945年4月、呉の連合艦隊第二艦隊に沖縄特攻の命令が下った。司令長官の伊藤は航空機の援護なしでの無謀な作戦に、「麾下七千の将兵を犬死させるわけにはゆかない」と反対した。

説得に来た草鹿参謀長と三上参謀は「要するに海軍としては、この際貴公らにみな死んでもらいたいのだ」といった。それをきいた伊藤は、「それならば何をかいわんやだ。了解した」と、うなずいた。
(中略)
沖縄への片道だけの燃料をつんで、四月六日夕刻豊後水道を抜けた「大和」以下十隻の日本艦隊は、七日昼過ぎはやくもアメリカ空軍にキャッチされ、数波合計五百機を越えるその猛襲の下におかれ、二時間にしてその半数は沈没した。
午後二時半、これまた沈没寸前の「大和」の艦橋で、伊藤は作戦中止を命じ、部下たちに、お前たちはなお生き残ってたたかってくれ、私は艦とともに沈む、といいおいて、轟音と火炎の中をひとり長官室に向った。
「徳之島ノ西方二十哩(マイル)の洋上、『大和』轟沈して巨体四裂ス、水深四百三十米(メートル)。
今ナホ埋没スル三千ノ骸、
彼ラ終焉の胸中果タシテ如何」(吉田満『戦艦大和ノ最期』)

56歳で死んだ人々

越路吹雪(1924~1980)

シャンソンの女王越路吹雪は近親者の多くをガンで失っていた。昭和55年6月の公演中から胃痛を訴え、7月に東京共済病院で手術を受けた。末期の胃ガンであった。いったん退院したものの、9月下旬から容体が悪化し、再入院した。

入院するとき彼女はマネージャーの岩谷時子に、「いっぱい恋をしたし、おいしいものも食べたし、歌もうたったし、もういいわ」と、いった。彼女には終始胃潰瘍といってあったが、うすうす気がついていたらしかった。
しかし十一月六日には、ベッドの上で両手をひろげ、指を一本一本曲げたりのばしたりして、「これをやらないとステージに出てもマイクが持てないでしょう」といった。
その翌日、午後三時二分に彼女は死んだ。手術を受けてから、わずか四カ月後であった。
最後の言葉は夫に「ブラックコーヒーとミルクを……」といったようだが、よく聞きとれない言葉だった。

59歳で死んだ人々

幸福な人々の死だけを悼もう。
つまり極く小数の人々だけを。
 ーーフローベール

ハイネ(19791856)

51歳で梅毒による脊髄疾患を発症したハイネは、全身麻痺や痙攣、激痛に苦しみ、ほとんど盲目になりながら8年もの年月を過ごした。

この苛烈な運命とたたかいながら、彼は『ロマンツェロ』『最後の詩集』『告白』などを書き、一八五六年二月十七日午後四時、「書くんだ。紙……鉛筆!」と叫びながら死んだ。
同じ年シューマンが死に、日本では二宮尊徳が死んでいる。

60歳で死んだ人々

ドストエフスキー(18211881)

1881年1月のある日、ドストエフスキーは執筆中にペンを取り落とし、その後、喀血した。

二月九日朝、二十五歳年下の妻アンナが七時ごろ眼をさますと、ドストエフスキーはじっと彼女をみつめていた。
「アーニア、僕はもう三時間もずっと考えていたんだが、きょう僕は死ぬよ」
九時ごろ、彼は妻の手をにぎったまま眠りにおちいり、十一時ごろ目ざめた。同時にまた喀血がはじまった。
彼の家にあるのは五千ルーブルだけであった。彼はいった。
「アーニア、君を残してゆくのがとても心配だ。これから生きてゆくのが、どんなに苦しいだろう。……」
(中略)
八時三十八分、ドストエフスキーは息をひきとった。
世界文学史上の最高傑作ともいうべき『カラマーゾフの兄弟』は、その三カ月間に完成していた。

森鴎外(1862〜1922)

49歳のとき、「死の恐怖が無いと同時にマインレンデルの『死の憧憬』も無い。死を怖れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下って行く」と記した鷗外は、死の前年から自らの不治の病を得たのを自覚していた。
治癒の見込みは無いと見切った彼は、医者にもかからず、休養もとらず、治療らしい治療もせず、帝室博物館長兼図書頭としての職務を続けた。
死の床での様子は娘・杏奴らの筆で詳細に記録されている。

七月六日、遺言を賀古(引用注・親友の賀古鶴戸)に託した。
「……死ハ一切ヲ立チ切ル重大事件ナリ如何ナル官憲威力ト雖(いえど)モ此ニ反抗スル事ヲ得ズト信ズ余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」
(中略)
鴎外が最後の昏睡に陥る前の最後の言葉は「馬鹿馬鹿しい」という呟きであったといわれる。

61歳で死んだ人々

安藤広重(17971858)

「東海道五十三次」で知られる広重は安政5年夏から秋に江戸でコレラが流行した時期に死の床に就いた。

とにかく彼はもはや再起不能だと知って、家族に遺言を書いた。
「……何を申すも金次第、その金というものがないゆえ、われら存じ寄りなにもいわず、どうとも勝手次第身の納り、よろしく勘考いたさるべく候。
 死んでゆく地獄の沙汰はともかくも
  後の始末が金次第なれ」
お金を残してやれないから自分は何をいう資格もない。あとは家族は何とかしていきていってくれという、無責任といえば無責任だが、哀切といえば此ほど哀切な遺書もない。いかに多くの人間が、同様の思いをいだいて死んでゆくことか。ーー客観的に見れば、遺言書の傑作の一つであろう。

広重の死因がコレラであったかは、定かではないという。

川上宗薫(19241985)

官能小説の大家・川上宗薫は昭和57年に食道潰瘍にかかって手術を受け、いったんは快癒したかに見えたが、2年後、ガンが見つかる。

彼は、もしガンならガンと率直にいってくれと医者に伝えいていたが、ガンと知らされたとき、前の手術で一応治癒状態になったことを思い出し、その心境を「せっかく戦場から生きながらえて帰還し、一休みしている処に思いがけず召集令状が来てまた弾丸の下を潜らなければならなくなった辛さ」と、戦中派らしく表現した。

その後も川上は、治療のかたわら、口述筆記で月産300枚という創作を続ける。が、次第に病は進み、やせ衰えていった。

彼は死の二日前まで口述筆記をつづけた。女陰についてのみならず、迫りくる死について彼ほど饒舌に感想を語った人間は稀有である。が、しゃべる人間も、沈黙する人間も、死神は一切合切区別なく、巨大なシャヴェルですくい上げていく。
十三日、「もう薬も点滴もいらない。ムダなことはするな」と言い、枕頭の夫人にかすかに手をふったあと昏睡状態に落ち、午後十時十分、永遠に「失神」した。烈しい南風が吹きたけり、東京は真夏のように暑い日であった。
(中略)
火葬に立ち会った友人作家青柳友子は記す。「お骨はとても小さかった。こどもの骨みたいだった」
葬式の喪主は、三十歳の妻と四十歳の娘の二人が務めた。

62歳で死んだ人々

死の瞬間に、何びとも悟りだろう。
ーー人生の目的なるものが、
 いかにばかばかしいものであったかを。
 ーー山田風太郎

アリストテレス(前384前322)

プラトンの弟子にしてアレキサンダー大王の師、万学の祖といわれるアリストテレスは、晩年アテナイを追われ、エウリポス海峡にゆき、海峡の潮流のふしぎな動きが不可解で、
「エウリポスよ、わたしをのみこめ。わたしはお前を理解することが出来ないから」
といって、海峡に投身して死んだといわれる。
潮流よりこの心理のほうが常人には理解不能である。

豊臣秀吉(15361598)

60歳を前にして肉体的な衰えが明白だった太閤秀吉は慶長3年5月、病の床に就いた。病状が悪化の一途をたどる中、遺児・秀頼と豊臣の世の安寧のため、最後のあがきを繰り広げた。

八月九日、家康らは秀吉から、朝鮮撤兵の許可を得た。
その直後から秀吉は悩乱状態におちいり、五大老らは、
「以後秀吉が何をいおうと一切無視黙殺すること」という申し合わせをした。
このころ秀吉は、信長の亡霊に襲われ、信長の亡霊は、おれの子たちを無惨な目にあわせおった藤吉郎め、早く地獄へ来い、といったらしく、秀吉がそれについて許しを乞い、まるでひきずり出されるように夜具から這い出すのを目撃した、という前田利家の話がある。
辞世「露と落ち露と消えぬるわが身かな浪花のことは夢のまた夢」
これはおそらく他人の代作であろう。秀吉にはこれだけの歌は作れそうにない。またこんな歌を作れる心理状態ではなかった。彼は生きながら地獄に堕ちていたのだ。

荻生徂徠(16661728)

「先生は御学問以外、何が御趣味ですか」と訊かれて、「何の趣味もない。ただ炒豆(いりまめ)をかじりながら古今の人物をコキ下ろすのが何よりの快事だナ」と答えた徂徠は、別号物茂卿(ぶつもけい)と称し、江戸中期一世を風靡したいわゆる徂徠学派の総帥であり、かつ大変な豪傑であり自信家であった。
(中略)
十九日、大雪となった。臨終の徂徠は「海内一流の人たる物茂卿、将に終わらんとす。天もためにこの世界をして銀ならしむるか」といって死んだ。
あまりにショッテルので、これはあとで炒豆をかじりながらの笑い話のたねになった。

中谷宇吉郎(19001962)

寺田寅彦の教え子だった物理学者・中谷宇吉郎は、世界で初めて人工的に雪の結晶の作成に成功し、「雪と氷の博士」と呼ばれた。晩年、前立腺がんを患い、それが骨髄に転移した。

中谷が息をひきとったのは、昭和三十七年四月十一日のことである。茅(引用注、友人の茅誠司)はいう。
「その死の直前に何かものを言いたげに口を動かしているので、静子夫人がその口もとに耳をよせて『何ですか』ときくと、彼は小さな声で『誰にでもよくしてあげるんだよ』と言ったという」(茅誠司『忘れ得ぬ雪の科学者・生涯の友、中谷宇吉郎のこと』)

森雅之(19111973)

作家有島武郎の長男であり、映画「羅生門」「白痴」などに出演した名優・森雅之は昭和48年、直腸ガンに倒れた。

すでに昭和二十八年、溝口健二の「雨月物語」で、あるシーンの撮影が終った時、彼がタバコをくわえると溝口は思わずライターで火をつけてやった。俳優に苛烈な溝口がそんなことをしたのはあとにも先にもこのときかぎりであったが、当時からそれほどの演技力の持主だったのである。共演した名女優田中絹代はいう。
「わたくし、森さんは怖ろしい俳優だと思いました。すばらしい俳優はいろいろとありますけど、この俳優は怖ろしいと思いました」
しかも、病院で彼は、何度も、「やっと芝居がわかってきたというのに、ここで死ななければならないとはなあ」と痛嘆した。
十月七日午前七時二十分に死んだ。遺言は「死顔をひとにみせてはいけない」であった。

65歳で死んだ人々

津田梅子(1864~1929)

津田塾大学の創始者梅子は大正6年春ごろ、53歳のとき、体調不良を訴え、診断の結果、糖尿病と判明した。以後、塾長の職を辞し、療養生活に入ったが、大正8年、脳溢血がもとで半身不随となった。

それから十年、昭和四年八月十六日、鎌倉の別荘にあった梅子は、日記に、
「Storm last night」
と、ただ一行書いた。「昨夜、嵐」
その嵐が過ぎて鎌倉の海に月齢十日の月がのぼった八時ごろ、胸苦しそうなので看護婦がさすると、
「喘息だからじき直ります。そっとしておいて下さい」
と、いった。
それから一時間ばかりたった九時二十五分、彼女はまた脳溢血の発作を起して息をひきとった。

フォン・ブラウン(19121977)

長距離ミサイル「V2」を開発したフォン・ブラウンは、ドイツの敗戦後は米国の宇宙開発をリードし、アポロ計画の指導者となった。晩年は腎臓、大腸、肝臓と転移したガンに倒れた。

ワシントン郊外のアレグザンドリアの病院に見舞いに来た友人に彼はいった。
「子供のときの夢を、生きているうちに実現させることが出来た人間が世界に何人いるだろう。私はもし明日この世を去っても、最高の生き甲斐のあった人生だと満足できるよ」
死が迫って来るにつれて、彼はうわごとをもらすようになった。それは宇宙の星座のかなたを翔んでいる夢であった。目ざめているとき、彼は娘のアイリスにいった。「宇宙への飛行は、生命の起源を探るためだ。宇宙は生命の故郷だ。生命の起源を知れば、ガンの治療も可能となる」
一九七七年六月十六日、彼は「私はいま銀河系を脱出しようとしている。十万光年……十億光年……」とつぶやき、
「ノバ(新星)」といって、息をひきとった。

67歳で死んだ人々

死んで不倖せになった人を、
ひとりでも見たことがあるかね?
 ーーモンテーニュ

アダム・スミス(17231790)

経済学の父アダム・スミスは、女手一つで育ててくれた敬愛する母と一緒に暮らし、生涯独身だった。スミス61歳のとき母が90歳で亡くなり、それ以降、健康を害し、1790年春には傍目にも余命幾ばくか、という状態になった。

七月中旬のある日曜日、見舞いに訪れた友人に、自分の眼の前で、未定稿のノート十六冊を焼いてもらい、安心したようにいっしょに晩餐の席についたが、途中あまりに疲労がいちじるしく見えたので、友人たちが先に休んでくれというと、彼は、
「みなさん、私はみなさんといっしょにいたいのですが、もうお別れしてあの世にゆかなければなりません」
と、ユーモラスにいって寝室に去り、ふたたび起たず、次の日曜日もまたず十七日に死んだ。
彼は晩年、それまで勤めた大学や役所の棒給や年金や著書の印税で豊かな収入があり、平生何の趣味もなく質素な生活をしていたので、少なからぬ遺産があると見られていたが、死後になってそれらをひそかに慈善事業に寄付していて、遺産はきわめて僅少なものであることが判明した。

デュマ(1803〜1870)

生涯に257の小説と25巻の戯曲を書いた大文豪アレクサンドル・デュマは、印税を豪奢な生活と無数の愛人につぎ込み、晩年は困窮し、「椿姫」で知られる息子の小デュマを頼った。

病状が進んだある日、彼はいった。
「金も名誉も得たころ、ユゴーが、これからは君も後世に残る作品を書け、といったが、おれはその忠告に従わなかったことが残念だ。……おれの作品は美味(うま)過ぎて、すぐに排泄されて忘れられたのだ」
「そんなことはありませんよ。『三銃士』や『モンテ・クリスト伯』をだれが忘れるものですか」
と、小デュマはいった。大デュマは疑わしそうにいった。
「お前はほんとうにあんなものが面白いと思っているのかね」
「そうですとも。あれはもう古典ですよ」
「おれはそうは思わないが、しかしお前がそういうなら、おれも読んでおけばよかった」
小デュマは唖然とした。大デュマは笑いながらいった。
「読むか、書くか、おれは両方やるひまがなかったから、書くほうにまわって、読むのは読者にまかせたんだ」
「わかりました。しかしいまは充分に読む時間がありますよ」
と、小デュマはいって、すぐに両腕に父の小説を山ほど運んで来た。
大デュマは『モンテ・クリスト伯』を読みはじめたが、やがていった。
「なるほど面白い。たしかに傑作だ。……しかし、結末を見とどけるまでおれは生きておれそうにないよ」
一生いたずら好きであった大デュマの最後のいたずらであった。
彼はそのまま眠りこみ、二度と目をさますことはなかった。

福沢諭吉(18341901)

福沢諭吉は晩年まで毎日6キロ歩くのを続けた「万歩運動の開祖」でもあった。明治31年、64歳で軽い脳溢血を起こし、その後は物忘れがひどくなったものの、一応回復をみた。
34年1月25日も、朝から木村芥舟(元の摂津守)の訪問を受けた後、三田の邸内を散策し、午後には広尾の別邸まで往復するという平生通りの健脚を見せたが、その夜、脳溢血を再発。9日後に亡くなった。

彼はかねがね「自分が死んだとき湯灌などするには及ばぬ。衣服もとりかえるに及ばぬ。そのまま棺に納めてもらいたい」といっていたので、その通りにした。また「死顔を人に見せることはいやだ」といっていたので、その死顔を見たのは近親の者、四、五人だけであった。
二月八日の麻布善福寺の葬儀には、会葬者一万五千人に及んだ。
屍体は底にキビの葉をしき、内部に銅版を張ったケヤキの棺に納められて、そのまま埋葬されたが、七十六年後の昭和五十二年発掘されたとき、屍蠟化(しろうか)していてなお生前の面影を保っていることが判明した。しかし、「死顔を見せるな」といったくらいの諭吉だから、この発掘はさぞ不本意であったろう。
(中略)
また彼は、日清戦争のとき一万円を献金したので、政府から勲章の話があるときいて、「そんなものはごめんこうむる。もし勲章をくれるなら、維新以来政府の師匠格であったという働きに対して勲章をもらいたい」と、一笑した。そして政治家や軍人が争って勲章をもらう中に、彼は無勲のまま死んだ。
八十三年後の昭和五十九年、彼の肖像は一万円札になったが、彼が知ったら立腹するだろう。千円札の漱石に至っては、いうもおろかなりである。
最もこういうことをきらいそうな人間を、そろいもそろってよく紙幣の肖像に使ったものだが、人間死ねば生きているやつに何をされても無抵抗である。

キュリー夫人(1867~1934)

1903年に物理学賞、1911年には化学賞と2度のノーベル賞に輝いたキュリー夫人は、死の前年から体調不良を訴えはじめた。長年の被曝による白血病だった。

そして七月三日午後、「……各章のパラグラフは、みんな同じようにしなければいけませんね。……」とか、「これはラジウムで作ったのですか? それともメゾトリウムで作ったのですか?」とか、うわごとをいい、注射に来た医者に、弱々しく、「いやです、かまわないで下さい」とさけんだあと、昏睡におちいった。
しかし彼女はなお十六時間生きつづけ、山々を染めた薔薇色の朝の光が病室にさしこんで来た翌朝、やっと心臓が停止した。

平林たい子(1905~1972)

「無頼派」の作家、平林たい子は晩年、高血圧、鎖骨カリエス、心臓喘息、糖尿病、乳ガン、高血圧による眼底出血、肝硬変と数々の病を抱え、その状態でなお執筆活動をつづけた。

昭和四十七年一月、彼女はふとした風邪から肺炎をひき起し、二月五日昏睡状態におちいって病院にかつぎこまれた。薬漬けのような彼女の肥満体は抗生物質も効かず、病状は一進一退した。途中意識がはっきりしたとき、医者に「私にはやるべき仕事がまだ残っているんです。まだ死ねません。先生、助けて下さい」と訴えたが、二月十七日午前五時四十分に死去した。

68歳で死んだ人々

田中絹代(1909~1977)

この項は例外として引用を省く。文庫版で約6ページと『図巻』中でも異例の分量であり、かつ、要約では伝えきれない逸話にあふれている。ぜひ、実際に本を手に取ってご一読いただきたい。
なお、大女優田中絹代の最後の言葉は、従弟にあたる監督小林正樹に入院先でいった「桜の咲くころは、きっと鎌倉の家に帰ってお花見するからね」であった。

71歳で死んだ人々

近松門左衛門(1653~1724)

六十七歳で『心中天網島』、六十八歳で『女殺油地獄』、六十九歳で『心中宵庚申』などの傑作を書いた近松門左衛門は、享保九年初冬、しかし、みずからの画像の賛をして次のごとくしるした。
「……市井に漂いて商買を知らず、陰に似て陰にあらず、賢に似て賢ならず、物知りに似て何も知らず、世のまがい者、唐(から)の大和の数ある道々、技能、雑芸、滑稽の類まで知らぬ事なげに、口にまかせて筆に走らせ、一生を囀(さえず)り散らし、今わの際に言うべく思うべき真の一生事は一字半言もなき倒惑」
大作家として、これ以上の真率痛切な言葉はあるまい。作家の「最後の文章」中の最高傑作であろう。
その年の十一月二十二日に彼はこの世を去ったが、日本のシェイクスピアとうたわれるほど人間の万象を描きつくしながら、彼自身はどこで、どんな風に死んだのか、妻子はいかなる人であったのか、正確なところは不明である。

~~小休止 恩師 江戸川乱歩の死

大半が私の駄文ではなく、風太郎翁の名文の引用とはいえ、流石に読者も少々お疲れだろう。
ここで1965年に71歳で亡くなった江戸川乱歩の死に触れて一休みしよう。

江戸川乱歩は山田風太郎の恩師だった。デビューは乱歩が編集長を務めた『宝石』の懸賞作品であり、その後もミステリーというジャンルにとどまらず同誌上で執筆を続けたのは、恩に報いるためだったろう。
『人間臨終図巻』の乱歩の項には、山田風太郎自身が登場する。敬慕の念とユーモアにあふれた当該部分を引く。

三十日の告別式の後、遺骸は落合火葬場に運ばれ、荼毘に付された。名簿による電話の順番がヤ行のため、臨終に間に合わなかった山田風太郎は記す。
「暑い日であった。鉄の扉をあけて中の台をひき出すと、骨になった乱歩先生が現れた。寝棺に入れたときの姿勢のままで、頭蓋骨が転がり、その向うに腰あたりの骨が貝殻みたいに堆積している。
やがて、安置場で壺に入れたが、大きな頭蓋骨は入り切らず、口から盛り上がっている。係員が遠慮会釈もなくふたで押えると、あの数々の妖麗な幻想をえがいた偉大な頭蓋骨は、ガシャリとつぶれて収まってしまった。
『乱歩先生、永遠にさようなら』
と、僕はつぶやいた」
この日乱歩が尊敬した谷崎潤一郎が死んだ。
タイプは違うが、江戸川乱歩は、最上の意味においての指導者であったこと、またそれゆえに多くの弟子に敬愛された点で、漱石に似ている。
その翌年に大下宇陀児が死に、二年おいて木々高太郎が死んだので、「推理作家は五十音順に死んでいく」というブラック・ユーモアがささやかれ、ヤ行の山田風太郎はひとまずほっとして、このことを横溝正史に話したところ、横溝は、「それならぼくは風ちゃんよりもまだあとだ」といった。

現実には山田風太郎より20歳ほど年上の横溝正史は1981年に79歳で先に亡くなっている。

本編に戻ろう。

73歳で死んだ人々

河本大作(1882−1955)

関東軍高級参謀だった河本大作は、張作霖爆殺の陰謀、いわゆる「満州某重大事件」の責任者として昭和5年に予備役入りし、その後も満州事変の発端となる柳条湖事件に参画して満州国成立後は満鉄理事などを務めて強い影響力を保った。
戦後、重要戦犯として中国共産軍に捕らえられ、投獄された時点で67歳となっていた河本は、獄中生活で急速に衰えていった。

河本が息を引きとったのは、昭和三十年八月二十五日の夕刻であった。心臓病から全身浮腫をひき起し、俄に意識不明におちいった。
本人の意思はともあれ、やがて日本を大破局にたたきこむ炎を最初に点じたこの暴勇の風雲児ーーそのくせ、酒が飲めない、甘党の妖軍人の最後の言葉は、
「カルピスに、カステラが食いたい」
であったという。

佐分利信(1909〜1982)

戦前・戦後を通じて活躍した名優・佐分利信は大変な愛妻家だったが、妻で元女優の黒木しのぶは佐分利が55歳のとき、肝臓ガンで亡くなった。佐分利は葬儀で遺体にとりすがって慟哭し、霊柩車の車窓に口づけして別れを惜しんだという。妻の骨壷を手元にとどめ、自分が死んだとき一緒に墓に入れて欲しいと望んでいた。

昭和五十七年八月中旬ごろから佐分利は、食欲を失い、黄疸症状を呈しはじめ、九月三日、日大病院に入院した。病名は妻と同じ肝臓ガンであった。
すでに手術不可能の状態にあり、胸に穴をあけて高カロリー液を注入することを医者がすすめたが、
「そんなことまでしなければならないなら、もう人間の死に方じゃない。人間は自然な姿で死ぬものだ」
と拒否して、九月二十二日午後十一時五十五分、異名「サブリどん」にふさわしい死に方をした。彼は妻と同じ病気で死ぬことをせめてものよろこびとしたにちがいない。
 

74歳で死んだ人々

鶴屋南北(1755〜1829)

『東海道四谷怪談』で知られる鶴屋南北は、傑作『金幣猿島郡』(きんのざいさるしまだいり)を書き上げた文政十二年十一月に亡くなった。

生前すでに自分の葬式のだんどりを、彼らしく徹底的に茶化した『寂光門松後万歳』(しでのかどまつごのまんざい)という脚本にしていた。だいたい南北は狂言の中に棺桶を使う趣向を好み、芝居に棺桶が出てくるとそら南北だ、と客が笑ったくらいだが、これも棺桶の中の南北が挨拶する趣向で、
「略儀ながら、狭うはござりますれど、棺の内より頭をうなだれ、手足を縮め、御礼申しあげたてまつりまする。まずは私、存生(ぞんじょう)の間、ながながごひいきになし下されましたる段、飛び去りましたる心魂に徹し、いかばかりかのありがたい冷汗に存じたてまつりまする。さて私事もとより老衰に及びますれば、みなみなさまの御機嫌をも損なわぬうち、早う冥土へ赴けと、これまでたびたび仏菩薩の霊夢をこうむりますれど、さすがに凡夫のあさましさに、たって御辞退仕りますれど、定業(じょうごう)はもだしがたく、是非なく彼地へ赴きますれば、誠にこれがこの世のお名残。……」
本所押上春慶寺の葬儀はにぎやかであったという。

ガウディ(1852〜1926)

31歳からサグラダファミリアの建築に取り掛かったガウディは、資金難による工事中断などを経て、私財を投じながら世紀の大伽藍の工事を続けた。

一九二六年六月七日、彼は教会の地下聖堂に吊り下げるアラバスターの金属のランプをいじっていたが、午後になって、日課としていたミサに参加するため、三キロばかり離れたサン・フェリペネリ教会へ出かけようとして、手伝っていた職人に、「ヴィンセントや、明日は早くおいでよ、うんときれいなものを作ろうじゃないか」といいおいて、出ていった。途中、バルセロナのある通りを横切ろうとしたとき、市電がこの貧しげな老人をはねた。
三日後、ガウディは意識を回復しないまま息をひきとった。サグラダ・ファミリア寺院は未完のままとり残された。

75歳で死んだ人々

新門辰五郎(1800〜1875)

浅草上野一帯の火消し頭にして大親分だった新門辰五郎は、最後の将軍・徳川慶喜の上京に同行を許される異色の侠客だった。

維新後も、やくざのおかげでたいして困窮もしなかったらしく、明治八年九月十九日、浅草馬道の自宅で病歿したが、
 思ひおく鮪の刺身鰒汁(ふぐとじる)
  ふっくりぼぼにどぶろくの味
などいう辞世を残して死んだというから、極楽往生だったのであろう。彼の大好物をならべた歌である。

マーク・トゥエイン(1835〜1910)

米国の国民的作家となったマーク・トゥエインは、莫大な印税収入をもとに、大邸宅に住んで専用列車で旅行するような豪奢な生活を送ったが、老年期には家族に不幸が相次ぎ、快活な性格にも影が差していった。

死ぬ一年前に彼はいった。「私は一八三五年ハレー彗星とともにこの世に生まれた。来年はまた彗星が近づく。私は彗星とともにこの世を去りたい」
翌年、ハレー彗星が現れた翌日の四月二十一日の夕刻、彼はコネティカット州レディングの自宅で、次女クララやその夫に、ジキルとハイドの二重人格の話などをしていたが、突如狭心症の発作を起こし、六時二十二分に絶命した。それでも最後に、
「じゃあまた、いずれあの世で会えるんだから」
という言葉を遺したという。

ベル(1847〜1922)

電話を発明したアレクサンダー・ベルは大食漢で、晩年は糖尿病に悩まされた。

一九二二年、七十五歳になったベルは、糖尿病が悪化してみるみる痩せ細り、八月一日の朝に死んだ。最後に妻のマーベルが「私を残してゆかないで」というと、その妻の手に彼は指で「ノー」と書いた。
八月四日彼が埋葬されるとき、午後六時二十五分を期して、その哀悼のためアメリカじゅうの電話は一分間休んだ。

蛇足ながら、”no”は、”I don’t” とでも続き、「君を置いていきはしない」の意だったはずである。

76歳で死んだ人々

勝海舟(1823〜1899)

明治31年の春、勝海舟は訪問客に「なんとなく死ぬときが近づいた気がするよ。死んだときは、きっと夢がさめたときと同じようなものだろうよ」と語り、勝の銅像を建てたいと相談されると、「そんなつまらないことをするより、その費用の三割でいいから、いまのうちに金でもらいたいよ」と大笑したという。

その翌年一月十九日午後五時ごろ、常のごとく入浴した海舟は、風呂から上ると坐りこんで、「胸が苦しいからブランデーを持って来い」と家人に命じ、それをグラスにいれて「こんどはどうもいけないかも知れんぞ」といって、一口飲んだとたん、倒れて意識を失った。脳溢血であった。彼が息をひきとったのは二十一日の午後五時であった。
旧幕臣の戸川残花は、「トノサマシススグコイ」という電報で赤坂氷川の勝邸に駈けつけた。
「例の小室に入れば室中暗澹として燭火もまた力なく照せり。先生はあたかも安眠するに似たり。猛烈の機尽きて慈温の相現われ、あたかも仙客に対するごとし。
傍に頭巾をいただける老嫗あり。すなわち先生の令妹(順子)にして、佐久間象山に嫁したる人なり、何にも申しませんが、ただ『コレデオシマイ』と申しました、と語れり」
さすがは生涯人を食った海舟で、人間最後の言葉の中の最高傑作。
海舟が死んだとき、海軍大臣は山本権兵衛であった。彼は若いとき勝家に食客となり、海軍にはいるきっかけを作ってもらった縁もあり、海軍省に海舟の銅像を建てようと提案したが、海舟が銅像などを馬鹿にしていたと聞いて、この計画をとりやめた。

上述の通り、このnoteのタイトルは風太郎翁が「最高傑作」とした勝海舟の末期の言葉から拝借した。
次項の同じく76歳で亡くなったアインシュタインは、臨終の際の言葉が残されていないケースだが、例外として採用する。

アインシュタイン(1879〜1955)

ナチスから逃れ、ドイツから米国に亡命したアインシュタインは晩年、プリンストン高等研究所で静かな研究生活を送った。そして1955年4月18日、胆嚢炎により死去した。

死の数時間前、彼はドイツ語で何かを看護婦にいったが、あいにくこの看護婦がドイツ語を解さなかったので、この二十世紀最大の科学者の「最後の言葉」は永遠に失われてしまった。

77歳で死んだ人々

犬養毅(1855〜1932)

昭和7年、国家改造を目論む陸軍軍人らが決起した「5・15」事件の際、首相官邸に銃を乱射しながら踏み込んできた将校らを、犬養は「待て、撃つのはいつでも撃てる。あっちへいって話を聞こう」と和室に招き入れた。
「靴ぐらい脱いだらどうじゃ」と叱りつつ、煙草入れから「敷島」を取り出し、将校らにも勧める仕草をしたが、山岸宏中尉の「問答無用、撃て」の号令を機に銃口が火を噴き、犬養は卓に突っ伏した。

そのあと女中が駈けこんでみると、卓上の血の海に犬養は血まみれの頭部を伏せていたが、女中に、右手につまんだままの煙草に火をつけるように命じ、
「いまの若い者をもういちど呼んで来い。話して聞かせることがある」
と、三度繰り返していった。
それから四時間後、犬養は絶命した。彼は最後まで「痛い」という言葉をもらさなかった。

徳川夢声(1894〜1971)

昭和46年、NHKの特別番組にゲストで招かれた徳川夢声は、肉体こそ衰えていたものの、収録では一流の話術を披露した。これが最後のテレビ出演となり、1週間後の3月26日、左手の麻痺と呂律の乱れを生じて、軽い脳軟化症と診断された。以後、寝たきりの生活となり、腎盂炎も併発した。

七月の末、彼は八重子(注:息子の妻)に手足の爪を切ってもらったあと、その手を目の先に持っていってじっと眺めていた。八重子は、病人が自分の手をじっと見つめるようになると間もなく死ぬ、という話を思い出して、さりげなく「疲れますよ」といって、その手をとって下ろした。夢声は「ありがとう」といい、ぽろりとひとしずく涙をこぼした。
それから三日目の八月一日午後零時二十分、肺炎のため息をひきとった。死の直前、妻の静枝に彼は「おい、いい夫婦だったなあ」といったという。

78歳で死んだ人々

周恩来(1898〜1976)

毛沢東の粛清の嵐を行き抜き、「不倒翁」の異名をとった周恩来が死の床にあったとき、毛沢東はなお生きていた。5歳年上の毛は8ヶ月だけ、周より長生きした。

周恩来は前立腺ガン、膀胱ガンのため、北京の首都病院で三ヵ月以上も重態が続いたあと、一九七六年一月七日、昏睡からさめて、「私のところはいいから、他の病人のところへいってやりなさい。そっちのほうが君たちを必要としているから」と、医者や看護婦に、力をふりしぼっていった。これが最後の言葉となった。
翌朝一月八日午前九時五十七分に絶命した。

79歳で死んだ人々

ガンジー(1869〜1948)

非暴力主義による抵抗でイギリスからの独立を主導したガンジーは1948年1月の夕方、ニューデリーで「夕べの祈り」のため礼拝場に向かう途上、群衆から躍り出た男の凶弾を受けた。

第一弾でガンジーは立ちどまったが、なお立っていた。二発目で白い着衣に鮮血がにじみ出て、合掌していた手が垂れ下がった。
「ヘイ、ラーマ(おお、神よ)」
と、彼はつぶやいた。そのとき三発目が撃ちこまれ、ガンジーの身体は地上に崩れ落ち、眼鏡が飛び、革のサンダルが脱げた。
(中略)
ガンジーの葬式には、五千人の兵士、三千人の警官が行進し、百五十万人の人々が続き、百万人の人々が見まもった。
ーーただし、犯人の一味であった弟のゴパールはいう。
「ガンジーが撃たれたとき、ヘイ、ラーマ、といったというのは信奉者たちが作りあげた嘘だ。事実は最初の銃撃で気を失い、単に物理的な身体の反作用で、『アーア』と息がもれたにすぎない」

80歳で死んだ人々

アナトール・フランス(1844〜1924)

1921年にノーベル文学賞を得たフランスの詩人・小説家のアナトール・フランスは79歳のとき、若き友人に「もはや死は時間の問題にすぎない」「私は完全に消えてしまうことに、どんな怖れももっていない」と語った。

八十歳の夏から病気にかかり、その苦しみが一月ばかりつづいた。ある日、彼は、
「死ぬとは、とても手間がかかるものだな」
と、つぶやき、また別の日には、医者に、
「早く死ねるように、何か薬をくれないか」
と頼み、医者がことわると、
「まだそんな偏見があるのかね」と嘆いた。
(中略)
十月十日から昏睡状態におちいり、十二日に最後の意識が甦った。彼は妻に、やさしい声でいった。
「もうお前にも逢えないね」
その夜、苦痛にさいなまれながら、八十歳のアナトール・フランスは、「ママン、ママン」とつぶやき、息絶えた。
「もし私が神であったなら、青春を人生の最後に置いたであろう」
  ーーアナトール・フランスーー

81歳で死んだ人々

彼らは、そのゆくさきが墓場である、
いりくんだ道を、セカセカと急ぎ足にゆく。
 ーームンク

野村胡堂(1882〜1963)

野村胡堂は昭和6年、49歳の時に「銭形平次」シリーズの第一話を発表し、以降、26年間で長短383篇の「平次物」を書いた。

この怖るべき生産力を持つ胡堂も、昭和二十年代終わりごろから、馬琴同様、老人性白内障を患って執筆が困難になり、三十二年、七十五歳のとき最後の銭形平次を発表したあと筆を断ち、三十八年、私財一億円を投じて育英奨学金を目的とする野村学芸財団を設立したのち、四月十四日、大往生をとげた。直接の死因は肺炎であった。
遺言「思い残すことはない。満足だ」

木村義雄(1905〜1986)

昭和10年、実力制の初代名人位についた木村義雄は、その後昭和20年代に至るまで将棋界に君臨した。昭和27年、47歳で第11期名人戦で大山康晴に敗れて引退し、以降は普及活動に尽力した。

昭和四十九年にいちど脳血栓で倒れたが回復し、後遺症もなかった。妻がプロテスタントのクリスチャンだったせいもあってか、晩年は宗教関係の本をよく読んでいた。鼻ッ柱が強く、殺気と俗気みなぎる壮年以前の木村からは想像もつかぬ変貌であった。
昭和六十一年夏ごろから体調を崩したように見え、八月十八日あまりだるそうなので入院。急性骨髄性白血病(一種の血液ガン)と診断を受けたが、本人には貧血症と知らされただけであった。
入院後もそのふくよかな容貌は変わらなかったが、やがて抗ガン剤を打ちはじめてから衰弱を早め、最後の一週間はただうつらうつらしていたが、死の直前に洗礼を受けた。直接の死因は敗血症であった。
死の三日前に妻が「何かして欲しいことはありませんか」と訊いたのに対し、「何もない」と答え、「苦しくも痛くもないよ」といったのが最後の言葉となった。
十一月十七日午前五時三十五分、安らかに息をひきとった。
葬儀はキリスト教で行われた。

83歳で死んだ人々

ユゴー(1802〜1885)

ストイックな超人ジャン・ヴァルジャンを生み出したヴィクトル・ユゴーは、超人的な好色の牧神でもあった。恋するアデールを妻とした初夜に九回交合したと彼自身が述べている。その絶倫の精力は老いても毫も衰えず、最後の年の八十三歳の一月一日から四月五日までに八回、女と交わったという記録がある。
(中略)
五月十六日に彼は付き添いにいった。
「私は死んだ」
「何をいうのです。ぴんぴんしていらっしゃるじゃあありませんか」
「君がそう思うだけなのさ」
彼は何か異常を感じていたのであろう。十八日には彼は倒れた。ベッドに寝かされたときにユゴーはいった。
「君、死ぬのはつらいね」
「でも、死んだりなさるものですか」
「いや死ぬね」
しばらくして、スペイン語でいった。
「だが、死を大歓迎するよ」
死の床にある間に、彼は、
「ここで夜と昼とが戦っている」
と、つぶやいた。
二十二日から臨終の苦しみがはじまった。彼は、砂利に打ち寄せる海の音のようなあえぎをつづけ、午後一時三十七分に息をひきとった。「黒い光が見える」というのが最後の言葉であった。
ロマン・ロランは「老いた神が断末魔の苦しみに喘いでいたとき、凄まじい嵐がパリを襲い、大旋風が巻き起り、雪が鳴り、雹がふった」と記している。
五月三十一日、偉人廟(パンテオン)に葬られたが、パリ全市をあげて、フランスに新しい神が誕生したことに有頂天になって、さながらバッカスの祭りのようであった。
同年に日本では三菱の岩崎弥太郎が死んでいる。

84歳で死んだ人々

これこそまさに昼と夜とのたたかいだ、と死床のユゴーはいった。
しかし、夜の次にもう昼は来ない。
 ーー山田風太郎

ヴォルテール(1694〜1778)

啓蒙思想家ヴォルテールは、キリスト教会の腐敗を痛烈に批判し、幾度かの投獄を経て、母国フランスを逃れて亡命生活に入った。その後もイギリス、ドイツ、スイスなどで執筆を続け、「欧州最大の知性」と仰がれた。
1777年、83歳にして17年ぶりにパリに帰還すると、熱狂的な歓迎を受けたが、健康は急速に悪化した。ヴォルテールは無心論者の代表と見られていたが、当時は教会が認めないと葬儀も行えない時代であった。

五月三十日夕刻、病床で司祭が、「あなたはまもなく御臨終です。死の前に、イエス・キリストの神性をお認めになる気はありませんか」といいかけたのに対してヴォルテールは、
「イエス・キリスト? イエス・キリスト?」
と、繰り返しつぶやいたあと、両手を出して司祭をおし戻し、
「静かに往生させてもらいたい」
といったのが最後の言葉であった。その夜、十一時ごろに彼は息をひきとった。
このためパリに埋葬することがは許されなかったので、彼の遺骸はシャンパーニュの寒村に葬られたが、十三年後、フランス革命の革命政府が遺骸をパリに運び、パンテオンに埋め直した。ところが、それからまた二十三年後、こんどは王党派の者がパンテオンからヴォルテールと、同年に死んだルソーの遺骸を盗み出し、以来ゆくえはわからない。
なお、彼が死んだときたまたまパリにいたモーツァルトは父への手紙に書いている。
「多分もう御存知かと思いますが、お知らせしましょう。つまり無信仰者でひどい無頼漢のヴォルテールが、畜生みたいにーーけだものみたいにくたばったことです。因果応報です!」

杉田玄白(1733〜1817)

杉田玄白がオランダの医学書『ターヘル・アナトミア』の訳業の回顧録『蘭学事始』(原題は『和蘭事始(オランダことはじめ)』)を書いたのは82歳の時だった。
同書は、玄白の死後に原本が失われ、ただ一部残った写本がたまたま幕末に発見され、福沢諭吉が世に広めて名著の誉を得る幸運に恵まれた。

玄白は、内部に自虐的な一面はあるものの、結局は幸福な学者であった。この回顧録を絶筆のつもりで書いたのだが、さらに長命して、文化十四年四月十七日、八十四歳で眠るがごとき大往生をとげた。
彼の絶筆。
「医事は自然に如かず」

エジソン(1847〜1931)

発明王トーマス・エジソンは晩年、胃ガンと糖尿病と高血圧と腎炎にかかった。1931年6月、フロリダの保養地からニュージャージー州の自宅に戻ると、一段と衰弱し、10月には水も喉を通らなくなった。

十月十五日以後昏睡状態におちいったが、十八日未明いちど目をさまし、まだ暗いのに、妻のミーナに、
「外はいいお天気だね」と、いい、ミーナが「苦しいですか」と訊くと、しゃがれ声で、
「いや待っているだけだ」
といって、午前三時二十四分に死んだ。

85歳で死んだ人々

白瀬矗(1861〜1946)

元陸軍中尉の白瀬矗(しらせのぶ)は明治45年、「白瀬探検隊」を率いて日本人として初めて南極大陸に上陸し、極点到達こそならなかったものの、「大和雪原」と命名した一帯について日本の領土権を主張した。帰国後は探検の費用の借財が重荷となり、困窮の中で暮らした。
敗戦で日本はすべての海外領土を失った。
昭和21年、85歳の白瀬はマッカーサーに質問状を送り、南極の領土権について「講和条約で然るべく考慮されるであろう」という趣旨の返書を受け取った。白瀬は、なぜかこれを希望の印と受け止めた。

翌九月四日、彼は妻や娘たちに、「死ぬことは怖れないが、講和の日まで生きていられないのが残念だ。南極のことについてはマッカーサー元帥の御慈悲におすがりしろ。……」と、しぼり出すようにいって息絶えた。
ーー昭和五十八年処女航海した三代目の南極観測線は、一・五メートルの氷を割りつつ時速六ノットで走る新鋭の砕氷船であったが、船名は「しらせ」と名づけられた。

86歳で死んだ人々

井上成美(1889〜1975)

三国同盟締結に山本五十六と共に強硬に反対し、海軍内の大艦巨砲主義をも否定した井上成美は、志に反する戦争が始まった後は提督として珊瑚海海戦をたたかい、その後、江田島の海軍兵学校の校長となった。軍人の出世主義を嫌う清冽な井上は、この時、学内の歴代の海軍大将の写真をすべて撤去した。
56歳で敗戦を迎えた井上は、横須賀の山上のあばら屋に隠棲し、再び世に出ることはなかった。妻を早くに亡くし、昭和23年には一緒に暮らしていた一人娘にも先立たれた。完全な孤独の中、井上は近所の子供たちに英語を教えて暮らした。
海軍兵学校の教え子らは井上の公職復帰や経済援助を申し出たが、井上は一切受け付けず、貧困生活をつづけた。毎年8月15日には、一日絶食して、端座して遠い海を眺めるのを習いとした。
昭和28年、64歳のとき、53歳の女性と再婚したが、極貧生活は続き、妻は鬱病にかかった。

昭和五十年十二月九日、井上は満八十六歳の誕生日を迎えた。十二月十五日、もはや自分一人では立つこともできないほど老衰した井上は、この日の夕方、いかにしてかひとりで庭に出て、寒風の中に立ちつくして海を見ていた。そのあと寝床にもどったが、電燈をつけようとした妻が、井上の異常に気がついた。「海へ……江田島へ」というのが、彼の最後の言葉であった。午後五時五十五分。

87歳で死んだ人々

人間には早すぎる死か、遅すぎる死しかない。
 ーー山田風太郎

鳥羽僧正(1053〜1140)

身、高僧の地位にありながら、日本の風刺漫画の祖ともいうべき『鳥獣戯画』を描いた鳥羽僧正は、ほかにも女体の不動明王や、便所で尻をふいている不動明王を描くなどという奇行があったが、死するにあたって弟子たちが、師僧の遺産をいかに分配すべきか遺言したまえ、と再三要求したのに対し、硯と紙を持って来い、といい遺言状を書いた。それには、
「処分は腕力に依るべし」と、あった。(『古事談』)

89歳で死んだ人々

葛飾北斎(1760〜1849)

北斎が『富嶽百景』を発表したのは天保5年、74歳のときだった。生涯に93回の引越しを繰り返した北斎は、赤貧の生活の中でひたすら描きつづけた。

枕頭に集まった、老いたる娘お栄をはじめとする数人の弟子たちが、臨終の迫っていることを彼に告げた。
 ひと魂でゆく気散じや夏の原
と、彼は辞世を詠み、
「あと十年生きたいが……せめてあと五年の命があったら、ほんとうの絵師になれるのだが」とつぶやき、大息を一つついて息をひきとった。四月十八日七ツ時(午前四時ごろ)であった。

91歳で死んだ人々

チャーチル(1874〜1965)

ナチスドイツから大英帝国を救ったウィンストン・チャーチルは、終戦直後の総選挙で労働党に敗れ、首相の座を追われた。
1951年に返り咲きを果たしたが、帝国の没落と足並みをそろえるように、チャーチルからも昔日の輝きは失われていた。1955年には首相を辞任して隠遁生活に入り、やがて心臓発作を繰り返すうちに「恍惚の人」となっていった。

しかし、かつて自由世界に希望の光をともしたこの燃える光は、こうして深い霧の中をただよいながら、次第に衰弱し、消滅していった。
最後の日も近い誕生日に、彼は娘に述懐した。「私はずいぶんたくさんのことをやって来たが、結局何も達成できなかった」
死去したのは一九六五年一月二十四日午前八時であった。「何もかもウンザリしちゃったよ」というのが最期の言葉であった。

サマセット・モーム(1874〜1965)

『月と六ペンス』『人間の絆』などが世界的なベストセラーとなったモームは名声と巨万の富を得て、晩年を11人の召使いとともに南仏リヴィエラの邸宅で暮らした。
精神的にも物質的にもあらゆるものから独立した人間を描き、それを自身の理想ともしたモームは、孤独の中でほとんど狂気に陥り、甥のロビン・モームに「私は一生を通じて失敗者だった」「一行も書かなければよかったのだ。私を知っただれもかれも、最後には私を憎むようになった。しかし今となっては何もかもあとの祭りだ」と語った。

また彼は告白した。「私は四分の一、正常で、四部の三、同性愛者だった。ところが私は全然逆だと思いこもうとした。それが私の最大のまちがいだった」
そして死の直前に、モームはロビンにいった。
「人生というものは、はじめは素敵だが、やがて時間とともにメチャクチャになるパーティのようなものだ。いまはもう家に帰っても少しも残念ではない。でも、家に帰ると信じられればいいのだがーー帰って懐かしい母やあの悪党のジェラルド(彼の同性愛の相手)にもういちど逢えると考えられればいいのだが、しかし、帰れやしない。断じて。ーーこの人生で魂をすっかり失ってしまって、あとには何も残っていないということもあり得るんだ」
こういう状態で、老衰の極、モームは一九六五年ーーチャーチルの死んだのと同年ーー十二月十六日午前五時少し前に息をひきとった。

94歳で死んだ人々

バーナード・ショウ(1865〜1950)

妻を亡くし、90歳になろうというバーナード・ショウに、アメリカの女優パトリック・ケンベルが結婚を申し込み、「あなたの立派な脳髄と私の美しい肉体が結ばれれば、どんな優秀な子供が生まれるでしょう」というと、ショウは「私の貧弱な肉体とあなたの鈍感な脳髄が結ばれたら、どんなことになると思うかね」と答えたといわれる。

病床についたのは九十四歳で、ロンドン北部のマヨット・セントローレンスの自宅で、看護婦に、「お前さんは私のいのちをまるで古いコットウ品のようにもたせようとしているが、私はもうだめだ。おしまいだよ。私は死ぬんだ」といい、それが最後の言葉だった。
十一月一日から昏睡におちいり、二日午前四時五十九分に死んだ。
イギリス政府は彼を国葬にしようとしたが、書斎から遺書が出て来て、それに「自分の骨は妻の骨といっしょに粉にして、かきまぜて、庭一面に吹き飛ばしてくれ」とあったので、国葬の件も吹き飛ばされてしまった。

98歳で死んだ人々

梅原竜三郎(1888〜1986)

梅原竜三郎は昭和三十八年、七十五歳のころ、「もうせいぜい三、四年のいのちだし、人の知らないところでそっと消えてゆきたいんだ。お葬式に悲しそうな顔をして人が来てくれても、別にどういうこともないしね」といった。
翌年には、朱を入れた自分の墓を作り、「死んでからずっとあとになって、ああ、あれは去年亡くなりました、という風にしたいもんだね」といった。
(中略)
昭和五十二年に艶子夫人が亡くなったとき、梅原はだれにも知らせず、それでもやって来た弔問客のだれにも会わず、ひとり画室にこもって、妻の「葬壇」の絵を描いていた。
(中略)
「たぶん、二、三年前の出来事であろう」
と、昭和五十八年に白洲正子は次のような話を書く。
吉井画廊の主人吉井長三がある日、梅原邸にゆくと、梅原が、「今朝起きたら、バラの花がとても美しかった。それで十五号のキャンパスにさらっと描いてみたが、一寸いいのが出来た。絵具がまだぬれているので、そこに裏返しにして立て懸けてあるから、よかったら見給え」と、いった。そこで吉井はあちこち探してみたが、そんな絵はどこにもなかった。
あとで吉井がこの話を小林秀雄に話すと、小林はいった。
「絵は、実際に描いてなかったって? だから、何なのだ。勘違いがおかしいか。……お前はな、それは大変なことを聞いてるんだぞ。判るか。梅原さんは行住坐臥、描いてるんだ。筆を持たなくたって、描いてるんだ」
梅原は昭和五十五年ごろ白内障を患い、絵筆を持つことが不可能になっていたのである。同時に、肉体的にも精神的にも、いわゆる恍惚の世界にはいりつつあった。
この昭和五十八年に、梅原の娘紅良(あから)は父の近況を次のように述べる。
機嫌がいいときはしゃべるけれど、そうでないときは夢うつつの境にるような表情で、ろくに返事もしない。食事をしている最中にも時たまそんなことがある。それもふつうの老人のいわゆる恍惚状態とはちがって、何かに集中しているように見える。心ここにあらず、といった風に、一点に息を凝らしてる感じで、声をかけることも憚られる、と。
そのころ、梅原は白洲正子に語った。
「わたしはこの頃、寝ていても起きていてもよく夢を見るんだが、夢の中に今まで見たこともないような美しい風景が現われる。美しい色が見える。だからわたしは、もう絵を描くことは要らないんだ」
また、
「年をとってから、よく死ぬことを考え、どうやってうまく死のうか、と、そればかり考えていたが、近頃は死ぬことも忘れてしまったようだ」
と、いって笑った。その顔は美しい血色をしていた。
(中略)
以後一進一退、翌昭和六十一年一月十四日から嗜眠状態に陥り、それでもベッドから腕を出して絵を描くしぐさをした。そのうち狭心症の発作を何度か起すようになり、ついに肺炎となり、一月十五日、「胸が痛みますか」という医者の問いに、「心配ない、心配ない」と答えたのが言葉としては最後のもので、翌十六日午後七時三十二分、看護者によれば「軟着陸」のような感じの大往生をとげた。
かねてから書いてあった遺書には、
「葬式無用
 弔問供物固辞する事
 正者は死者の為に煩わさるべからず。
             梅原龍三郎」
と、あった。

「厭世の人」の人生解剖録

以上、『人間臨終図巻』の魅力の一端をご紹介してきた。最後に全巻一気買いのリンクを置いておいた。初読の方、昔読んだけど手元にない方、一人でも多くの読者の目にこの名著が触れる機会が増えれば幸いだ。

『図巻』の「73歳で死んだ人々」の冒頭には、風太郎翁のこんなアフォリズムがある。

「人間は、他人の死には不感症だ、といいながら、なぜ『人間臨終図巻』など書くのかね」
「……いや、私は解剖学者が屍体を見るように、さまざまな人間の死を見ているだけだ」

山田風太郎は、晩年のエッセイ『あと千回の晩飯』のなかで、自身を「意識の底にいつも死が沈殿しているのを感じている人間である」と書いた。それは「あの世」への親近感ではなく、「この世」への違和感、厭世観によるものだったという。
そこには、5歳にして父、14歳にして母を亡くしたという生い立ちも影響していただろうし、何より、肋膜炎のため徴兵を免れ、同世代が戦地に散るなかで「生き残ってしまった」という戦中派特有の意識もあっただろう。

長女の中野香織は、『山田風太郎育児日記』に添えた「父を想って」という文章に「自分は『列外』にいる。父はよく、そんなふうに話したり書いたりしていました」と記している。
この『育児日記』は、長女・香織と長男・知樹が幼かったころ、風太郎が30~40代の時期の育児の日々をつづったものだ。

この本はよくある「育児モノ」ではない。
風太郎が日々つけていた日記から、子どもたちについて書いた部分を別の日記帳に書き抜き、香織が山田家を出るときに贈った、いわば「嫁入り道具」であった。香織は「ページをめくると、父の特徴のある小さな文字が万年筆でびっしり。こんなふうに書いてくれているとは、思ってもいませんでした。エピソードの一つひとつが懐かしく、夢中になって読んだのを今でも覚えています」と振り返っている。

画像2

(長女・香織さんを抱く。昭和29年11月自宅にて。『育児日記』より)

父の死後は「とても読める気がしなくて」、家族の手元で眠っていたが、あるきっかけで関係者の知るところとなり、風太郎の没後5年にして「秘蔵の日記」は世に出た。愛情と諧謔、郷愁にあふれる素晴らしい読み物だ。こちらも機会があったらご一読を勧める。

風の墓

徳間文庫版第2巻の解説を担当した小説家樋口毅宏は『人間臨終図巻』の熱烈な信奉者で、自身の作品『民宿雪国』について「パクリまくった」「完全に、剽窃の域に達している」と公言するほど影響を受けた。
この解説で樋口は、『図巻』に1986年までに亡くなった人物しか収められていないことに不満を漏らし、山田風太郎が昭和天皇や美空ひばり、石原裕次郎、手塚治虫、阿佐田哲也、開高健、松本清張など『図巻』発刊以降の物故者を「どう料理しただろう」と妄想が止まらなくなると嘆じた。
そのうえで、「山田先生には、死んだ後も『人間臨終図巻』を書いてほしかったと強く思う」と無茶な注文をつけている。無茶ではあるが、私も同じ気持ちだ。

「十読は一写に如かず」という言葉がある。
この稿を書き起こしたのは9月半ばで、私はこのひと月ほどの間、気が向くと『図巻』を開き、風太郎翁の文章を書き写してきた。「一写」の効用で、今は何となく、風太郎節の呼吸が乗り移ったような気分になっている。
この勢いを駆り、本稿の締めくくりに『図巻』の筆法をかりた蛇足を加えたい誘惑を抑えがたくなっている。もとより私の筆力では天才の足元にも及ばないのは承知の上だが、一ファンの戯れとしてご寛恕を乞う。

79歳で死んだ人 山田風太郎(1922~2001)

昭和六十一年に古今東西の人間の臨終を蒐集した異色作『人間臨終図巻』を発表した山田風太郎は、平成六年、七十二歳のとき「いろいろな徴候から、晩飯を食うのもあと千回くらいなものだろうと思う」と書き起こすエッセイ『あと千回の晩飯』の連載を朝日新聞上ではじめた。
連載中、長年、白内障と思い込んでいた視力低下が糖尿病によるものと診断され、さらに精密な検査の結果、パーキンソン病であることが判明した。パーキンソン病は、恩師江戸川乱歩を苦しめた難病でもあった。エッセイで風太郎は「江戸川乱歩先生は実際に接触した人のうち最も敬愛する大人物だが、病気までそのまねをしようとはありがたいともいいかねる」と記した。
風太郎は亡くなる二十年以上前に墓地を求めた。「墓地にはただ一本の雪柳が植えてあるだけだが、山の上だからたいてい風が吹いている。雪柳の咲く季節なら白い花が散って飛んでいるだろう。その下でシャレコーベだけになって、おそらく女房が墓石の上からかけてくれるだろうウイスキーをなめているのも悪くない近未来の想像だ」(『風山房日記』)
平成三年の『柳生十兵衛死す』を最後に「書くとその分命を縮める」という小説からは退いたが、平成九年には菊池寛賞、平成十二年には七十八歳にして日本ミステリー大賞を受けた。そして二十一世紀を迎えた翌平成十三年七月、多摩市の病院で肺炎のため息をひきとった。
同年に三波春夫、古今亭志ん朝(三代目)、張学良、朝比奈隆が死んでいる。
長女・中野香織は没後五年に発行された『山田風太郎育児日記』にこう記した。
「父は桜が好きで、庭にある三本の桜の大木が花を咲かせるのを毎年、楽しみにしていました。その桜の下で、今年も母や弟たちとお花見をしたのですが、『死ぬのは桜の咲く頃がいいなあ、とよくいっていたねえ』と誰からともなく話し出しました。父の母親がその頃だったそうです。逝ったのは真夏の暑いとき、尊敬する江戸川乱歩先生と同じ七月二十八日でしたけれど」
師と同じ病を患い、命日まで師にならう一奇をなすとは、希代の伝奇作家山田風太郎、もって瞑すべし。
戒名は、自らつけた「風々院風々風々居士」。
八王子の上川霊園の墓碑には「風の墓」とのみ刻まれている。

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