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長谷観音(はせかんのん)

 鎌倉長谷の観音(かんのん)さまにお参りをしてきた。この観音さまは、正確な製作年代がわかっていない。私は昔からこの観音様はいつのものかとその製作年代に関心をもってきた。現在、長谷観音では造立1300年を祝っているので、以下の寺伝を根拠に721年造立説に立っていることになる。
 寺伝に依れば徳道上人が養老5年721年十一面観音菩薩二体を巨大な霊木から彫刻し、一つを奈良長谷寺に納め、一つを人々の救済を願って海中に投じたところ、天平8年736年に至り三浦半島長井浦に忽然と現れた。それを祀ったのが本像だとされる。しかしもしそうなら、奈良の長谷寺の観音様と、鎌倉長谷の観音さまを、比較すれば寺伝の真偽を確かめられると思うかもしれない。ところが奈良の長谷寺は何回か、焼失しており、現在の奈良長谷寺の観音さまは天文7年1538年造立と分かっている。つまり寺伝の真偽は、長谷の観音さまを奈良長谷寺の観音さまと比較しても分からない。
 他方で少なくとも、現在の鎌倉長谷の観音さまが、現在の16世紀造立の奈良長谷寺の観音さまより古いものである可能性はある。まず鎌倉長谷寺には文永元年1264年の銘が入った梵鐘(重要文化財指定昭和28年1953年 ト書「新長谷寺 文永元年七月十五日 大工物部季重在銘」)があり、鎌倉の長谷寺が13世紀半ばの鎌倉大仏鋳造時に存在したことを裏付けている。そして康永元年1372年に足利尊氏が鎌倉長谷寺に本堂を再建寄贈した年に、尊氏が本尊(観音像)に金箔を施したとの記録があることから、そのとき、十一面観音が存在していたことが推測される(HPの年表による)。どうも鎌倉長谷の十一面観音については、これが文献的には最も古い記述らしい。またこの書き方は、尊氏が本像を造立した可能性を排除していないようにも読める。他方で、その後について火災焼失などの記載がない。つまり長谷の十一面観音さまは、文献上は少なくとも尊氏の時期(14世紀)まで遡って良いのではないか。
 観音さまは像高9.18M。木彫仏で、左手に蓮の花が入った花瓶を持ち、右手に錫杖を持ち、金剛宝盤石の上に立っている。
 お寺としては長谷寺、浄土宗である。
 アクセス JR鎌倉駅より江ノ電長谷で下車徒歩3分。
 なお、奈良の長谷寺について論じた 上田さち子「長谷寺史の問題点」『歴史研究』34号1996年21-31そして、岩佐光春「創建期長谷寺の十一面観音像に関する覚書」『美学美術史論集』22号,  2020年3月, 95-123をたまたま読んだ。鎌倉の長谷寺について論じた論文も機会があれば読みたいと感じている。
    また幾つかの地方で、奈良と鎌倉の長谷観音のほかに、さらにもう一体の観音様が彫られたとの伝承が見られる。
    例えば神奈川県松田町の長谷山観音寺宝寿院。ここには桜観音と呼ばれるものがある。行基菩薩が1本の木から、奈良、鎌倉、そして桜観音を掘り出したとの伝承である。高さ135cmであるので小ぶりである。左手に蓮の花の入った花瓶、ただし右手は掌をこちらに見せて下に下げた与願印(願いを受け入れるとの印相)である。
    今一つは茨城県古河(こが)市の古河長谷観音。室町時代の明応2年1493年、足利氏が古河城の鬼門を守るため、鎌倉の長谷観音より勧請したとされる。ここでの口伝は、1本の木の元木が大和の、中木が鎌倉の、そして末木が古河の観音さまとされたというもの。高さ約2mの観音さまである。左手に花瓶、右手は与願印で桜観音と同じである。



図1 放生池
図2 地蔵堂に向かう参道の紅葉
図3  観音堂(本堂)
図4 眺望散策路から海岸を望む


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