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円覚寺

 円覚寺(えんがくじ)はJR北鎌倉のほぼ駅前にあるので、気軽に立ち寄ることができる。昨日ふと思い立って、円覚寺を訪ねた。国宝舎利殿のことを思ったのだが、現地にたどり着いてから舎利殿の公開日が限られていることを思い出した。しかし、山門と仏殿を見て、来訪の目的を十分を達したように感じてしまった。
 円覚寺は弘安5年1282年の創建。北条時宗が宋より招いた無学祖元禅師(1226-1286)により開山。その目的は蒙古襲来(文永11年1274年の文永の役,そして弘安4年1281年の弘安の役)で戦没した多くの霊を弔うことにあったとのこと。円覚寺には創建当時に年代が近いものとして、成安3年1301年鋳造の洪鐘(おおがね)が残されている。なお円覚寺はたびたび大火にあったこともあり、残されている建築物としては天明5年1785年築の山門が最も古いようだ(山門にかかる扁額「圓覚興聖禅寺」は伏見上皇直筆とされる。伏見上皇は弘安10年1287年から永仁6年1298年まで天皇として親政のあと、成和2年1313年まで上皇として院政を行い、しばしば幕府と対立したとされる。扁額が出された経緯が気になるが、一般論としてはこの種の扁額は寺としての「格」の高さを示すものであろう)。
 今回平日ということもあり、昭和39年1964年再建の仏殿(扁額は御光厳天皇の直筆とされ「大光明宝殿」と書かれている。明和4年1378年のものとされる)で、本尊である宝冠釋迦如来坐像(頭部は鎌倉期制作とされる)をゆっくり拝めたのが収穫であった(なお円覚寺の大事な建物である開基廟などは少し奥の坂の上にある)。境内は掃き清められており僧坊からは遠く読経の声が聞こえたが境内を歩く僧侶の姿はほとんどなかった。そのことを修行中の僧侶たちは参拝客とは動線を分けて、世俗の参拝客と交わらないというスタンスであるのだと受け止め、禅寺らしい姿勢と勝手に解釈し得心した。

   なお夏目漱石の小説『門』(明治43年1910年に『朝日新聞』に連載されたのが初出)は円覚寺の山門をモデルに書かれた部分がある。その部分を引用する(十八段)。
 宗助は一通の紹介状を懐(ふところ)にして山門を入った。(中略)
 山門を入ると、左右には大きな杉があって、高く空を遮(さえぎ)っているために、路が急に暗くなった。その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との区別を急に覚(さと)った。静かな境内の入口に立った彼は初めて風邪(ふうじゃ)を意識する場合と似た一種の悪寒(さむけ)を催した。
 彼はまず真直(まっすぐ)に歩るき出した。左右にも行手にも、堂のようなものや、院のようなものがちょいちょい見えた。けれども人の出入はいっさいなかった。ことごとく寂寞(せきばく)として錆(さ)び果てていた。宗助はどこへ行って、宜道のいる所を教えて貰おうかと考えながら、誰も通らない路の真中に立って四方を見回した。
 山の裾を切り開いて、一二丁奥へ上(のぼ)るように建てた寺だと見えて、後の方は樹の色で高く塞(ふさ)がっていた。路の左右も山続(やまつづき)か丘続の地勢に制せられて、けっして平ではないようであった。その小高い所々に、下から石段を畳んで寺らしい門を高く構えたのが二三軒目に着いた。平地に垣を繞(めぐ)らして、点在しているのは、幾多(いくら)もあった。近寄って見ると、いずれも門瓦(もんがわら)の下に、院号やら庵号やらが額にしてかけてあった。(以下略)

 アクセス JR北鎌倉駅より鎌倉方面に進みすぐ。

円覚寺山門

円覚寺仏殿
円覚寺仏殿天井画
宝冠釈迦如来坐像
仏殿と白梅
円覚寺唐門
山門の木組みを見上げる


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