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浅草寺(せんそうじ)

 天気が良かったので浅草寺に写真を撮りに行った。浅草寺のいわれについては、浅草寺のHPに詳しいので参照されたい。浅草寺は昭和20年1945年3月10日の大空襲で、関東大震災では焼失を免れた江戸期の伽藍のほとんど(本堂、仁王門、五重塔、経蔵、観音堂など)を失った。現在の伽藍の多くは、第二次大戦後の再建である。
 ところで入口にある雷門(かみなりもん)は主要伽藍とは事情が少し異なる。江戸期末の慶応元年1865年の火事で先に焼失。第二次大戦前は再建されなかったもの。それを松下幸之助氏が病気平癒のお礼に昭和40年1965年に個人として寄贈されたもの。
    野村喜舟の句に以下があります。この句は第二次大戦前の句ですので、「雷門」は地名としての「雷門」の意味になります。「草市」は盆市のことですが、例年7月9日-10日に行なわれる「ほおずき市」のことかもしれません。下語の「葛西から」ですが、葛西は戦前は漁村で浅草からは少し離れています。「葛西」から私が向かったという解釈も成立しますが、喜舟は子供のときに浅草近くに住んでいたのですが、葛西に住んでいたという記憶が私にはないので、葛西から来た人もいたことを描写したのかと考えました。
 草市や雷門へ葛西から

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 この雷門の復興再建は異質の経緯であるが、それ以外の伽藍は長い年月をかけて復興されたものである。
 仲見世を通ると現れる巨大な門は、宝蔵門(旧仁王門)である。こちらは昭和39年1964年の再建。宝蔵門の上部には、お経が収められている。仁王門は再建により経蔵の機能を兼ねるようになり、宝蔵門と名称を改めることになった。ただし宝蔵門左右の彫刻が良く見えないのは残念なことだ。

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 その先、正面奥にあるのが本堂で昭和33年1958年の再建。宝蔵門左手の五重塔はやや遅れて昭和48年1973年の再建である(五重塔を上がることが出来ないのは残念だ)。本堂の地下には埋蔵経といって膨大なお経が収められており、五重塔上部には仏舎利が収められている。宝蔵門のお経といい、浅草寺は大変ありがたい仕掛けに包まれているのだ。
    なお本堂は観音堂とも呼ばれる。その内陣の中に御宮殿(くうでん)がある。その宮殿のお厨子の中の上段に本尊である聖観世音菩薩が収められている。見ることはできないが、本殿で拝んでいるのはこの菩薩(像)である。
 高浜虚子は暮れに浅草観音を訪れたことを記録している(『虚子五句集(上)』岩波文庫1996年より)
 昭和10年1935年 観音は近づきやすし除夜詣
 昭和14年1939年 大扉今しまりけり除夜詣
 昭和15年1940年 人顔はやうやく見えず除夜詣
 昭和17年1947年 暮れてゆく枯木の幹の重なりて
 

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 本堂天井の絵は中央の龍は川端龍子が描いたもの。左右の天女は堂本印象によるもの。本堂の中は少し暗いので、これらの絵が今一つよく見えないことが惜しまれる。本堂手前のお水舎(昭和39年1964年建立)の天井には東紹光の龍の絵があり、高村光雲の龍神の彫刻(明治36年1903年奉安)も置かれている。

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 なおやや地味な論点ではあるが、本堂の左右に空襲での焼失を免れたものがある。本堂右側の東門として使われている二天門は、慶安2年1649年に、境内に東照宮の随身門として作られたもので重要文化財。その門には昭和32年1957年に寛永寺から拝領した江戸前期の彫刻、増長天と持国天が収められている(なお本堂右側にある浅草神社社殿も焼け残りの重要文化財である)。

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    本堂右側には、幾つか見るべき仏像があるが、なかでも「二尊仏」と呼ばれる鋳造仏を個人的には気に入っている。向かって右側が観音菩薩(座法は吉祥座 印相は施無畏印 左手に宝珠)、左側が勢至菩薩(印相は合掌印)。貞享4年1687年造立である(像の高さは2.3Mありかなり大きい)。お顔の雰囲気が柔和で、すごくアジア的に思える(二尊仏を寄進したのは高瀬善兵衛という人。かつて奉公した米問屋に対する報恩のためというのだが、この造立に必要な金銭はおそらく半端ではない。その功徳のためか、高瀬家は繁栄を続けたとされる。)。

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    本堂左側では、焼け残りとしては、六角堂(元和4年1618年)という小さな建造物がある(重要文化財)。そのほか、都内最古(元和4年1618年)とされる石橋(境内に東照宮が造営されたときその参詣のため作られたもの)が見られた。いずれも地味ではあるが意義深い。

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    このほか本堂左側にあるものとして、元禄15年1702年の銅造阿弥陀如来坐像(座法は吉祥座 印相は上品上生じょうぽんじょうしょう)、享保5年1720年の銅造観音菩薩坐像(印相は施無畏印 左手に宝珠)などは、多くの寄進者が名前を連ねている。これらから、鋳造物の寺社への寄進が一種の社会運動として行われたことをイメージできる。他方、宝暦11年1761年に鋳造された、高さ8メートルに達する宝篋印塔は造形が特徴的で、当時の鋳物の造形という点でも興味深く拝見できる。

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アクセス 地下鉄銀座線浅草(あさくさ)下車すぐ。


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