呉智英・宮崎哲弥「知的唯仏論」 共同性と単身者

宮崎 葬儀にはいろいろな機能が考えられますが、比較的に見落されがちな機能として、共同性の再確認があると思うんです。

呉 あり得るね。葬式やら法要とかその手の儀式はね。

宮崎 ところが最近の葬儀のトレンドをみると、この機能がどんどん削除されている。たとえば、直葬という、病院からすぐに遺体を火葬場に運んで、そこで読経等の簡素化した儀式を済ませてしまう葬礼法が増えています。東京都下ではすでに全体の三割にも達しているという調査結果もあります。こういう段取りですから、会葬者もごく限られています。そこには親しきものの死を悼む共同性などは醸成されようがないのです。

これから先、特に都市部では単身世帯が激増してゆくはずだし、夫婦中心主義の「ニューファミリー」的、核家族的なものがさらに壊れて、一人びとりから成る単身社会に移行しつつあるようにも見える。

呉 うん。

宮崎 私はこういう社会でこそ、仏教の進化が発揮されると考えています。いままで縷説してきたのは、本来の仏教がいかに単独者向けであるかということでしたね。ブッダが老病死のような根本苦の解消について、共同体意識や家族愛などは毛ほどの役にも立たぬと見切っていたことを経証を挙げて示してきました

そう考えると、キリスト教のように恋愛や結婚を「撒き餌」にして信徒を集める戦略は仏教は採り得ないし、またそういう「撒き餌」戦略もロマンティック・ラヴの幻想が落剥しつつある現在、どれほど有効か疑問です。

むしろ、個我の生と死の問題を誤魔化しなく中心課題に据えていった方が、人々のニーズを掘り起こすことになると思うのです。

呉 うん。それはそうだと思う。(中略)

宮崎 むしろ共同体への愛とか、家族や親族に向けられた愛が強すぎて、仏教本来の姿が歪められてきたところがある。もともとは出世間、つまり社会のしがらみを脱するところから始まる思想なのに、まさに世間のしがらみによって雁字搦めにされてしまったのが日本仏教の大方の実情でしょう。


いま共同体や家族の瓦解の時代を迎えて、やっと単独の「この私」の救済のための本来の仏教を再開できる。まあ、江藤淳にいわせれば、あるいは林羅山にいわせれば、それこそ嘆かわしい「世俗の寺院化」「社会の流民化」なのかもしれませんが。

そのためにお寺は地域共同体や家族共同体の存在を前提にした、近世以来の寺檀制度の名残を受けた現今の体制を続けていても未来はない。

呉 うん。それは当然、原理的にいえばそうだし、寺檀制度が崩壊していっていいっていうのも、基本的には同意するんだけれども、同時にその間の混乱に耐えられるかどうか。中核的な僧侶たちが、混乱期に対抗し得るだけの論理を自分の中でつくれるかが問われるよね。

宮崎 それが日本仏教の運命、帰趨を決めると思うんですよ。

呉 課題でもあるね。


呉智英・宮崎哲弥 「知的唯仏論」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?