橋本治「90s」 愛が個人的なものになって

世界は意外と、“江戸時代のまんま”なんですね。

世界にはある時、“個としての自覚を持った人間の近代”が生まれて、その時から世界はそっちの方向に進んでしまったように見えるけれども、そうそう簡単なものじゃない。要は、“個人の自覚の問題”だけれども、なにがむずかしいといって、個人の自覚が育つことほどむずかしいことはない。世界には当たり前に“機関車が走りミサイルが飛ぶような鉄筋コンクリートの江戸時代“はあって、そういうところの人間達は、まだまだ“強いものによる保護”を必要としている。

“自分”がなくて、ただ“自分達”という集団の中に留まっている人間達を「問答無用の我々絶対主義=ファシズム」と言って非難するのは簡単だけど、でも、人間達はそんなに簡単にさっさと“一人”になれるものじゃない。そんな強さは簡単に身につくものじゃないですからね。

近代以降、世界的に宗教は退潮傾向にありましたけど、でもそうとばかりは言いきれないところがある。たとえば、「宗教は麻薬だ」と言っていたソ連ではキリスト教(ギリシア正教)の復権というのがある。

“宗教の征服=社会主義国家の建設→統一国家としての国力の充実→産業革命の達成”でやって来たはずの“近代化”がうまく行かなくなって、硬直した官僚主義は“問答無用の我々主義=ファシズム”の壁にぶち当たることになってしまった。そうなれば「このプロセスにはどっか問題がある」となるのは当然で、「一体それはどこだろう?」ということの答は簡単ですね。その一番最初にある。ソ連では“宗教の征服”が“個人の確立”にはならなかった。それがなぜかといえば、“宗教の征服”を“個人”ではなく“国家”がやってしまったからですね。この点で、“社会主義国家を建設したソ連”はイタリア王国を作ってその後ファシズムになだれこんだイタリアとおんなじです。

だからもう一遍、ソ連には宗教が登場しなければならない・・・・・・“神”なる者と対決して“個”というものを確立するためにね。ソ連における“宗教の復活”は、そういうことだと思いますね。

ところでもう一つ、宗教の退潮と言われる時代に、着実に勢力を伸ばしていたのがイスラム教だった。東南アジアからアメリカにまで伸びて、“ブラック・モスリム”という勢力まで作った。ボクシングのカシアス・クレイが“モハメド・アリ”になった。なんでイスラムが勢力を伸ばしたのかというと、それはとっても家族的だからですね。

近代自我を産んだキリスト教は、その後“個人的であることを許す”という方向に行くしかなくなって、あんまり家族的じゃなくなっちゃった。キリスト教の“愛”が“個人”との間で一対一対応をするようになれば、「“個人”であることが寒い」というような人には、ちょっとつらいものになっちゃう。キリスト教の愛が個人的なものになって、その家族主義は精々“自覚を持った小市民の家族主義を守る”になっちゃったら、そこに入れない人は寂しい。人の寂しさを救うものが宗教だったのが、時代が意識的になってしまったそのことを反映して、時代遅れにならないように宗教も変わって行ったら、その宗教は時代遅れになっちゃった人を救いにくくなる。

快適な住宅街を終われてスラムに行くしかなくなっちゃった人にとっては、スラムから目をそむけようとする“清潔な小市民”よりも、スラム全体を統括する地域のボスの方がズーッと親しみやすいってことはある訳ですからね。

ボス=親分というのは、家父長制を前提とする男性原理の名残ですけど、これが消滅するというのは、ちょっとヤバイですね、これはある意味で、“侠気(おとこぎ)”という愛情の崩壊でもあるんだから。“侠気”を“おとこぎ” と読むのがいやなら、別にこれを“侠気(おんなぎ)”であってもいいんですけど、“侠気(おとこぎ)”と “侠気(おんなぎ)”は一対一の夫婦でしかないんだから、夫の崩壊は、自動的に“その妻”なる者の崩壊を招くしかない。「男性原理の崩壊」というのは、核の冬並みに、かなりすごいことではあるんですね。

(つづく)


橋本治 「90s」

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