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ルドルフ・コンプレックス ゼンティス編(20)

第2章 3つめのスケッチ

プラハ 美術史研究所

「捨てた?」
 クラーラは書類に落としていた目を上げて正面に立っているヴァーツラフを見た。
「はい。ミリィ、いえエミリアから連絡がありました」
「ミリィ?もしかしてウィーンのプフィッツナー博士のことか」
「決まってるじゃないですか」
「それはそれは…」
 クラーラは改めて自分の部下を眺めた。若干気弱ではあるが真面目そうだし見た目も悪くない。いままで女っ気がないのは興味がないせいだと彼女は思っていたのだが。
「なんですか」
「いや、いいんだ。かけてくれ」
 彼は言われるままにソファに座った。
「しかしそれは本当なのか」
「本当です。ステラ・ユンの妹が告白したんです。嘘をつく理由はありません」
「なぜそんなことを」
「理由は不明ですけど、問題なのは投げ捨てたという事実です」
「代々伝えられてきたものだろう。相当の理由があるはずだが」
「僕が聞いてるのは、あれが呪いのペンダントだということだけです」
 ヴァーツラフは真面目な顔で言ったのだが、クラーラは思わず吹き出してしまった。
「もしそうだとしたら面白いが」
「面白いどころじゃありません。グズグズしてたらウリエルに先を越されます」
「あの詐欺師も知ってるのか?」
「そのはずです」
「はずとは、どういうことだ」
「誰かがミリィ…プフィッツナー博士のスマホを盗聴してたんです。たぶんウリエルの仕業でしょう。情報は筒抜けだったんですよ。だから奴は、僕らより先にステラ・尹と接触できたんです」
 クラーラはタバコに伸ばした手を止めた。「盗聴?本当か」
「そうです。ディアナ・ハーイェクがつきとめてくれました」
「クレメンティヌムの司書か」
「はい、偶然見つけたそうですが。とにかく、手遅れにならないうちに手を打つ必要があります。今ならまだ間に合うかもしれません」
「大問題じゃないか。対策はとったのか」
「え?ですから、すぐにでも回収に、」
「何の話だ。盗聴のことを言っている。犯人は特定できてないのか」
「…はっきりとは。でも奴がステラ・尹に接触した事実で充分じゃないですか」
「これは立派な犯罪だぞ。ほっといていいわけがない。そのデータにはまだアクセスできるのか。専門家に調査を依頼しないとな」
「でもファイルはもともと暗号化されてますし、ミリィももう新しいスマホに変えましたし、今はそっちじゃなくてペンダントの回収に向かうべきです」
「君には事の重大さがわかっていないようだな。プフィッツナー博士は今回のプロジェクトだけに関わってるわけじゃない。他にも様々な案件を抱えてるはずだろう。それがネット上で公開されるなど許されることではない」
「そんな…」
「司書に暗号が解除できたんだ、他の者にも解除できる可能性がある。ウィーン大へは連絡したのか」
「それは……わかりません」
「優先順位を考えるんだ、ヴァシェク。うちよりもあっちの方が影響が大きいんだぞ。専門家に依頼しないと」
「専門家って?」
「カミルはうちの情報セキュリティ担当だ」
 意外な顔をしているヴァーツラフを尻目にクラーラは電話を取った。「カミルか。すまんが、すぐに来てくれないか。そうだ、緊急だ」
 ヴァーツラフはまだことの進展についていけてないようだった。
「所長、」
「君は例の司書に連絡してアクセス方法を聞き出せ。それと、そこのドアを開けておいてくれ」
 ヴァーツラフは所長室のドアを大きく開け、クラーラに向かって両手を差し出すように言った。
「所長、待ってください。今は一刻を争うんです。こうしてる間にもウリエルが…」
 ウィーン大学歴史文化学部を電話で呼び出しているクラーラは、ヴァーツラフに向かって人差し指を唇に当てて見せた。ヴァーツラフは憮然とした表情で所長室を出ようとしたが、カミルの姿が見えたのでソファに戻った。
「なんですか緊急事態って」
 車椅子が軽やかなモーター音とともに入ってきた。クラーラはカミルにも同じ仕草をして見せた。
「どうなってるんだ、ヴァシェク」
 ヴァーツラフの座っているソファの隣に来たカミルはなぜか不満気だ。
「ちょっと厄介なことがね。でも、知らなかったな、情報セキュリティ担当だなんて」
 ヴァーツラフは小声で尋ねた。クラーラは彼らに背を向けて電話している。
「ああ、言ってなかったっけ、この部屋のシールドも僕か担当したんだ」
「へえ、」
「あんときは大変だったよ、所長が後からつまんないこと言い出したおかげで、すっごいやり直しさせられてさ」
「それっていつ頃の話?」
「ええと、もう半年以上たつかな、去年の夏。そうか、ヴァシェクは出張が多いからな」
「去年の夏かあ、その頃はずっとザルツブルクだったんだ」
「確か、何かの写本だったっけ」
「聖エレントルーデ。結局ガセだったんだけどね。でもノンベルク修道院の人たちにはよくしてもらったよ」
「ヴァシェク、司書と連絡はついたのか」電話を終えた所長が振り向くと二人はピタリとおしゃべりをやめた。
「いまやります」
「時間を無駄にするなよ。カミル、頼みたいことがある」
 ヴァーツラフは電話をかけに部屋の外に出た。カミルは車椅子を所長のデスクに寄せる。
「実はな、電話が盗聴されて音声データがネットから丸見えになってるんだ」
「えっ」
「ウィーン大のプフィッツナー博士の携帯だ」
「そいつは…」
「それをなんとかしたい。できればネット上から消したいんだ」
「それは…すでに第三者にコピーされてたら、その分は無理ですよ」
「そうか。一応暗号化はされてるらしい。盗聴されてたスマホはもう使ってないそうだ。我々としてはネット上のデータの拡散を防ぎたい。できるか?」
「さあ、モノを見てみないとなんとも」
「できれば犯人も割り出したい」
「それは無理です。警察でもなけりゃ」
「そうか」
「追跡できるのはせいぜいアップした奴のIPアドレスくらいです。それだって犯人のとは限りませんからね。データをたまたま見つけた奴が面白半分にアップしただけかもしれないですし。それに、犯人が最初から使い捨て用の格安スマホを使ってる可能性もあるので」
「やっかいだな。とりあえず、できるところまで追ってみてほしい。ヴァシェク、そっちはどうだ?」
 所長室に戻ってきたヴァーツラフは手短かに答える。
「いまURLとパスワードが来ます。二人に転送でいいですか」
「そうしてくれ」
「誰が見つけたんだ?」カミルはヴァーツラフの方を振り向いた。
「連絡先を送る。君から連絡が行くと伝えておくよ」
「頼む。所長、僕はデスクに戻って作業します」
「何かわかったらすぐ連絡してくれ」
 カミルはヴァーツラフを無表情に一瞥すると、なにも言わずに部屋を出た。
「ヴァシェク、君はプフィッツナー博士にこのことを伝えてくれ。学部長には私から話しておいた」
「わかりました」
「ペンダントの回収どころじゃないな。君もデータの扱いには気をつけることだ」
 肩を落としたヴァーツラフがドアを締めるとクラーラはタバコに火をつけた。
「…問題は、彼女がプライベートのスマホでどこまで話してるか、だな」
 所長は思いついたように受話器をとってカミルを呼び出した。
「カミル、盗聴の調査についてはヴァーツラフには知らせるなよ。いちいち大騒ぎされるのはごめんだ。わかるな」
 彼女はデスクの前でしばらく何か考えている。ミネルヴァに目をやると、仄暗い壁に掛かった女神はただ勝利の笑みを浮べるだけだった。さらにタバコをもう一本、時間をかけて吸ってから、クラーラは受話器を取った。
「サー・ジェフリー?プラハ美術史研究所のベネショヴァです」
「クラーラか。元気かね」
「それが、ご相談にのっていただきたいことがありまして」

プラハ ファウストの家 1

「レオシュ、ちょっと来てくれ」
 時が止まったまま朽ち果てるのを待っているかのようなこのルネサンス建築も、あちこちに積まれた梱包済みの荷物のせいで今までとは違った貌を見せている。呼ばれた髭面の大男は、真冬だというのにTシャツ一枚で汗をかいている。一方ウリエルはいつもの黒いスーツ姿だ。
「作業の具合はどうだ」
「あと二日もあれば完了です」
「頼むぞ。でもおまえもうれしいだろ、ここから出ていけるんだ」
 大男は無言で汗を拭いている。
「準備ができ次第移動する。だがその前に話しておきたいことがあるんだ。そのへんに座って楽にしてくれ」
 そう言われても大男は突っ立ったままだ。
「まあ、いいだろう。レオシュ、100年前にスイスの山で起こった殺人事件のことを聞いたことがあるか」
「…いえ」
「そうだな。ほとんどの人は知らないだろう。だが私にとっては重要なんだ。その事件の真相はいまだにわかっていない。私も去年からずっと調べてたんだが、真相に関わる記録は残っていなかった」
 レオシュは身じろぎもせずにその場に立っている。
「言ってしまえば単純な事件ではあるんだ。スイスにある標高2500メートルのゼンティス山の頂上に気象観測所がある。1922年2月、そこに住み込みで働いていた夫婦が、やって来た一人の男に射殺された。男は何かを探していたのか、室内は荒らされていた。男は逃げたが三週間後に自殺した。動機はよくわかっていない」
 窓の外ではどんより曇った冬空がさらに暗くなり、また雪が降り出していた。髭面の大男は何の表情も見せずに同じ場所に立ち尽くしている。
「映画やオペラにまでなっているが、みんな真相がわかってないのをいいことに好き勝手な解釈をしている、というわけだ」
 レオシュはあいかわらず無表情で無言のままだ。
「私はいろいろ調べた結果、ひとつの結論に達した。それをおまえに話しておきたい」ウリエルは椅子の背に頭をもたせかけ、組んだ手を腹の上にのせた。

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